日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

卑弥呼の鏡か?黒塚古墳見学記

2019-07-14 13:11:42 | 古墳時代
やっと、1学期末の主な業務も終わって、こちらも書ける余裕ができてきたかなというところです。
東京も曇天または雨天が続き、じめじめとして洗濯物も乾きにくい日々です。涼しいのはよいです。

さて、今日は、2年前の3月(2017年)に奈良大通信教育の科目習得試験を奈良大に受けに行った際に見て来た黒塚古墳の話題です。この日の夜に、東大寺のお水取りを見に行きました。その時の記事はこちら。
「春です。東大寺二月堂お水取り」

奈良大での試験が終わってから、黒塚古墳(天理市)に向かいました。JR柳本駅から徒歩5分もあれば行けます。黒塚古墳といえば、三角縁神獣鏡が33面も出土して、卑弥呼の墓ではないかとも騒がれました。それが1997年のことで、その後、2001年1月に国の史跡に指定されたということですから、結構最近のことなのです。私もこの時のニュースは覚えています。
万城目学『鹿男あをによし』(幻冬舎)でもこの古墳の三角縁神獣鏡が重要なモチーフになっています。

そもそも三角縁神獣鏡は、卑弥呼がもらったという鏡なのか?日本ではたくさん出ているけれども、中国では出ていないのだから、国産なのではないか?といった議論がなされてきました。

過去の記事をご覧ください。
「三角縁神獣鏡は国産」と初めて表明した大塚初重氏の講演!(埼玉県 ほるたま考古学セミナーにて その1)」


さて、柳本駅から歩き出して、この坂道になんとなくわくわくしました。


小ぶりできれいな古墳が見えてきました。
この黒塚古墳は、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)のものと推定されています。全長約130mの前方後円墳です。


黒塚古墳展示館です。


盗掘されずに残っていた石室の様子を復元したもの。



私も、三角縁神獣鏡は、卑弥呼の鏡ではなく、中国の鏡でもなく、国産ではないかと思います。
卑弥呼が魏から鏡をもらってきたのは確かなのでしょう。その鏡を元に、自分たちで鏡を作って、権威の象徴として、各地に配布したのでしょう。


ちょっと見えづらいし古いかもしれませんがあしからず。

鏡作神社という名前の神社が、田原本付近にいくつもあるのも興味深いです。
実際に鏡をそのあたりで作っていたのでしょう。

そして、伊勢神宮などで、ご神体として鏡が祀られていることも興味深いです。卑弥呼が中国からもらって、以来、日本人は鏡を大切に祀ってきたのですね。
そして、そんなことからも、卑弥呼はアマテラスではないかという考えが補強される気がします。

三輪山の真東に伊勢があり、三輪山の麓に箸墓古墳がある。三輪山と伊勢の間には、長谷寺と室生寺が一直線に並んでいる。とても興味深い地域です。




黒塚古墳の上にも登れます。


古墳の上からの眺め。
耳成山と畝傍山でしょうか。それから、箸墓古墳でしょうか。そういったものが見えました。


前方後円墳のくびれ部分のカーブもわかりやすいです。


柳本駅のホームから、二上山のふたこぶの頭がちょっとだけ見えました。奈良独特の家並みですね。



このあたりからは、崇神天皇陵や景行天皇陵も近いです。今度行ってみたいと思います。
古墳は緑がきれいな季節がいいでしょうかね。

それにしても、やはり仕事に終われて、博物館学芸員資格課程も手付かずなうえに、奈良に行こうという余裕もありません。しかし、今年に入って、2回奈良に行っているなら、それでよしとしなければならないでしょうか。

5 コメント

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おはようございます! (普通検索観音)
2019-07-15 09:32:01
懐かしいですね。
黒塚、箸墓、大神神社あたり、JRを乗り継ぎながら、一人でリュック背負って歩いたのは、3年前だったように思います。夏には1日だけ奈良に行けそうなので、古都の雰囲気だけでもと画策しています。
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Unknown (kuragesuke)
2019-07-15 18:48:16
普通検索観音さん、こんばんは。
夏に奈良に行けそうなんですか?
今日、先日お会いしたときに入手した、「奈良かき氷ガイド」を室内で発掘しました。おいしそうなものがいろいろありますので、そんなものも見ながら、食べてきてください。
私は年内に気晴らしにあと1回くらい行けたらいいかな。
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その節はありがとうございました。 (どら焼き)
2019-07-19 20:53:54
ツツコワケさん、こんにちは。
5月の山の辺の道歩きでご一緒しました、どら焼きです。
その節はお世話になりありがとうございました。
先日、5日間の博物館実習に行ってまいりました。学芸員資格取得にリーチがかかっている方も多く、自分も頑張らなくてはと改めて思いました。あと4科目残っています。
ツツコワケさんのブログを拝見しながら、奈良に思いを馳せております。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
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Unknown (kuragesuke)
2019-07-20 07:29:27
ツツコワケですおはようございます。
どら焼きさん、5月はお世話になりました。資料をいただきありがとうございました。
実習行かれたんですね。うらやましい。
私もあと3つ以上はレポートが残っていたと思います。
やっと今日から学校も夏休みです。心を鬼にして、一つでもレポートを仕上げたいと、どら焼きさんのおたよりで改めて思いました。
またいつかお会いできればと思います。
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Unknown (たぬき)
2020-01-24 10:01:24
三角縁神獣鏡。
これは、100%大和で大量に造られたモノです。

コレには当時の国際情勢やそれと連動して風雲急を告げる日本列島内での争乱、勢力争いが深く関係します。

まず、三角縁神獣鏡を造られたのは、所謂、武内宿祢(初代)こと、武内大田彦。(祖母は物部の媛。)
彼は所謂、邪馬台国の女王卑弥呼、、、実際には都万豊連合王国の女王で宇佐宮(月の女神/月読命を祀る)の媛巫女、宇佐豊玉媛命が大和を攻略、平定するための地ならし、勢力堅めには強力な後ろ楯と権威付けが必然と考えて

中国の最強国、魏帝国の属国化する事を選択。
使節団を魏帝国に送りました。
その随行員に武内宿祢大田彦くん(元々は大和王国側の紀伊国造の流れ。九州勢の招聘に応じて大和王国を捨てて九州に走った)も加わっていたと言います。

使節団は見事に使命を果たして皆一様に魏帝国の官位爵位を叙任されて下賜物を得ました。
使節団は魏帝国の皇帝からの答礼使節団を伴って宇佐宮に帰還。
答礼使節は豊玉媛命(女王)に対して魏帝国皇帝から委任された「親魏倭王」の叙任、任官、同金印やおびただしい下賜物等を伝達。
合わせて豊玉媛女王の宇佐宮には魏帝国の正式な軍旗(錦の御幡)の「黄色幡」が八本翻りました(魏帝国の属国の証)
この事が後に八幡宮と言われる原点との事です。

が、武内宿祢大田根くんには一切その様な晴れ晴れしい栄典等なくむなしく帰国。
後にその理由が女王や上層部が外様の武内くんには一切栄典を授けないようにとの内部工作を行ったと知って
怒髪天を抜き?異母弟の額田郡宿祢と共に九州勢をみかぎって元の鞘の大和王国側に寝返ります(九州勢の内部情報や情勢を手土産代わりに)。

丁度そのころ、呉国は魏帝国に反旗を翻した燕国の公孫氏とよしみを通じて南北から挟み撃ちにする戦略、外交政策の下、
修好使節団を海路、燕国に送り出しました。

その刹那?、公孫氏がまさかの魏帝国に丸め込まれて呉国と断交、敵対して、
やっと到着した呉国の二人の使節は捕縛され首を跳ねられて魏の都に送られると言う事件が出来。
この修好使節団の贈り物の一つに、青銅器製作職人たちが入っていて、
職人が贈り物、、、人ではなくてブツ扱いですが命は惜しいので
日本列島に逃避することにしました。
ところが、九州勢は件の如く魏帝国の属国となったことで仕方なく彼らは大和王国に漂着。
たまたま、武内宿祢、宿祢(九州、物部王家の重臣の称号)は剥奪された筈なので
武内大田根くんとの出逢いがあり、
武内くんが魏に使いした記念品に大型の神獣鏡(道教由来/物部の鏡)の製作を依頼。
青銅鏡を大型化したらひび割れ、破損が生じることから、工夫を凝らして縁を平縁から盛り上げて三角縁にしたところ無傷の大型鏡が完成。
これを大量(100枚以上?)納入。
武内くんは親戚や知古らにそれを配布しました。

それを見ていた大和王国の副王家、登美家は九州勢が侵攻して来ると言う風雲急を告げる状況に
大和王国側の勢力堅めの為に青銅器職人たちに同様の品物を大量発注しました(400枚以上と言う)
これを大和王国の親戚、味方の有力豪族らに盛大に配布しました。(今、各地で見つかってる三角縁神獣鏡はコレ)





また、それを模倣して大和王国の副王家、磯城登美家が400枚以上を大量発注して
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