日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

酒船石・・・松本清張『火の路』の舞台 考古学特殊講義スクーリングその2

2015-08-30 20:45:15 | 大学通信 スクーリング


飛鳥寺横の蘇我入鹿の墓(7月20日撮影)

今日は途中になっていたスクーリングのトピックを一つ完結させたいと思います。

その前に、検索のキーワードなどを見ていますと、やはり奈良大のレポート・試験その他、具体的な対策を知りたいのかなという感じの方がちらほらいらっしゃるようです。細かいことでもお答えできますので、このブログにはメールを送る機能もありますので、ご活用ください。

ちなみに、現況ですが、10月上旬までの卒論の草稿提出に向けて、ちょっとずつ前進を続けているこの頃です。前の大学生時代も、卒論を書くのは楽しかったのですが、それは、卒論だけに専念できる環境があったから。今も、卒論を書くこと自体は楽しいのですが、仕事にも行かなければいけないので、まとまった時間が確保できず、少し厳しいですね。

テキスト科目は、最小限予定していた残り二つのレポート合格して、草稿提出後の10月11月に試験を受けようと思っています。

そういうわけで、9月は卒論に全力投球です。ただし、まず9月上旬にスクーリングに行き、次の週は、卒論のためでもありますが、福島県の沿岸部・被災地に乗り込みます。9月の5連休に行きたかったのですが、もう、今からでは宿が予約できませんでした。皆さん、9月の連休、お出かけの予定もしっかり決めていらっしゃるようですね。まだ震災の爪痕残るであろう被災地においても、宿がいっぱいなのは、喜ばしいことではあります。

さて、7月18~20日の考古学特殊講義スクーリング、「その1」で東大寺にイノシシ出現、の記事を書いたきりになっていました。思えばそこでも結構書いたし、記憶も風化してきたので、絞って書きましょう。

三日目の飛鳥めぐりですが、自分で見たことがなかったものについて書きます。
昔、一人で飛鳥をレンタサイクルで回ったことがあるのですが、その時にも行かなかった、酒船石遺跡
飛鳥寺から意外と近い所にありました。飛鳥寺から歩いて行けました。すぐ裏、という感じ。

まず見えてきたのは、平成12年の調査で見つかった、亀形石造物と小判形石造物です。これは新しいんですね。レンタサイクルで回ったのは平成4年くらいですので、その時には発見されていなかったのか・・・



確かに亀の足のようなデザインが施されています。周囲に石が敷かれ・また積まれた広々とした空間に、この石造物が設置されています。見学できる場所から30mくらい離れているでしょうか。見下ろすような感じで、広場のような、劇場のような空間になっています。石造物は、水を流す導水施設になっているようで、水が入っていました。

酒船石遺跡は、『日本書紀』斉明天皇2年条に記された「宮の東の山に石を累ねて垣とす。」「石の山丘」に符合する遺跡であると推定されているとのことです(酒船石遺跡パンフレットより)。
斉明天皇は、「石の女帝」と呼ばれているとか呼ばれていないとか、どこかで見かけましたが、大規模な土木工事を好み、この酒船石遺跡も斉明天皇の時代のものと考えられています。
斉明天皇って、なかなかユニークな天皇だな、と、この頃見直しています。

牽牛子塚(けんごしづか)古墳が、斉明天皇の墓ではないかと最近話題になっています。この古墳は、石でできた三段構成の八角墳だということです。八角墳については、新教育課程の山川教科書『詳説日本史B』でもわざわざ太字ゴシックで記述されるようになりました。八角形は、天皇家が採用した形との説があり、天武・持統天皇陵や文武天皇陵とされる中尾山古墳も八角墳です。

牽牛子塚古墳とか、最近ニュースになった、ピラミッド型の都塚古墳とか、そういう話題の古墳に連れて行ってくれないんでしょうかね?と、バスでお隣さんになった方と話したりしていました。

奈良大の通信教育を受けるような方々は、結構、年輩だし、もともと奈良が好きで、飛鳥なんかも何度か訪れている方が多いのではないかと思われます。石舞台古墳をはじめとする定番・王道のコースではなくて、マニアックなコースにしてもいいんじゃないかな、なんて思いました。

そして、亀形石造物の横の丘を登って行くと、その上に、かの有名な酒船石が、道端にドンと、置いてありました。本当に、無造作な、というのか、唐突に、というのか、なんでこんな所に、という感じで、しかもさわり放題で、みんなさわって摩耗しちゃってるんじゃないかな、という風情で、酒船石はありました。



松本清張の小説『火の路』にも、確かこの酒船石の所で、主人公の女性や関係人物が出会う場面があったと思います。『火の路』は、2,3年前に初めて読みましたが、飛鳥の奇妙な石造物などが、ゾロアスター教と関係があるのではないか、といった推理は、興味をひかれました。そのような意識をもって見ると、仏教だけでなく、ゾロアスター教の片りんも、実際飛鳥時代あたりに入って来ている形跡もあるように思います。

ウィキペディア『火の路』のあらすじから便宜的に引用すると、主人公の女性は、

「東京の国立T大文学部で日本古代史を専攻。身分は助手。高校の非常勤講師を掛け持つ。発想がユニークと評されるが、学閥の慣習を重んじる教授陣からは煙たがられている。」

と記述されています。
松本清張は、改めて読むと、考古学を題材とした小説が多くて驚いています。もっと早くに読んでいればよかった。

他にも、弥生時代の社会に関する新しい説を打ち出し、わが国考古学界の先駆者ともいわれる森本六爾も、松本清張の小説『断牌』のモデルになっているといわれています。学歴が低かったために、考古学界で十分な待遇を得ることもなく、結局早世しましたが、日本の考古学の発展に大きく貢献した人物です。森本六爾については、文化財学講読2というスクーリングの授業で学びました。
また、松本清張『Dの複合』の「解説」の中にも森本六爾が出てきます。
『火の路』も『Dの複合』も、なかなか面白いので、読んでみてください。

松本清張の小説には、このように、学閥などにはばまれて、不遇な扱いを受ける登場人物が出てきます。

私も、ちょっとそういったアカデミズムの壁のようなものをここ数年感じるようになりました。学者の世界も、コネとかごきげんとりとかといったことが必要?で、閉鎖的なんだな、と、今さらながら気付きました。
そういう世界の中で、有力な人ににらまれたら、学者としての将来もなくなってしまう・・・?
もっと、自由に学問を追求できて、純粋に研究成果そのものを評価してくれるものかと思っていましたが、そうではないのかな。
そんなような世界のことを、松本清張の小説を読むと、昔からあったんだなと知ることができます。

しかし、奈良大学の通信教育部は、そんなことはなく、心広く、学ぶ意欲のある人を、老いも若きも受け入れ、応援してくれます。文化財(遺跡)の多い奈良にあるというのも、よい環境にあると思います。先生方も、偉ぶっていないし、たぶん、文献史学と考古学では、同じ歴史学のカテゴリーの中にあっても、タイプが違うんだろうと思います。

頭でっかちに、文献だけを読んで頭の中でだけ考えて完結するのではなく、現地におもむき、自分の目で見て考える、ということも、大切なことだと思うようになりました。これからは、ただ文献だけにあたる文献史学のような学問ではいけないのではないだろうかと、思ったりしています。

横道にだいぶそれましたが、酒船石に戻って、これは、意外と簡単にさわれるもので、溝に葉っぱがつもっていたりして、場所の雰囲気からしても、あまり神秘的なイメージは感じられないな、と、少し拍子抜けしました。大勢で見ていたからかな?
『火の路』の主人公登場の場面の、自分の勝手な想像とは違っていました。

先生のお話では、昔からここにあったのかもわからない、とのことでした。まあ、そうですね。どこかから運んでここに置かれたのかもしれないし。
しかし、何に使ったのか、面白い造形には違いないですね。
見ることができてよかったです。また、暑くない静かな季節にいつか行ってみようと思います。

以上、7月の考古学特殊講義のスクーリングについてはおしまいです。さて、1週間後はまた奈良です。

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福島観光においでくださって感謝!

2015-08-27 01:17:31 | 旅行
8月はのべ10日間旅に出ておりまして、猛暑と重い荷物のせいでダイエットになったのか、体重がやや少なめで推移しています。ここ数年、夏はむくんで体重が増えるのですが、今年はそうでもないです。
この頃、書きっぱなしで完結していないトピックもありますが、今日はこの時点での所感を優先して書きます。

実家・福島県白河市にある小峰城が、震災で石垣が崩壊して見学不可のまま4年が過ぎ、4月の桜の季節にやっと「復興式」が行われたことは、以前書きました。

「復興式」には行けなかったのですが、5月末に、県南地方に遺跡を見に行くついでに、見学可能となった小峰城に行って来ました。私が子どもの頃に親しんだバラ園も復活したかなと期待したのですが、まだでした。

遺跡見学の後に小峰城に立ち寄りましたので、お城(三重櫓)の上まで登る元気がなく、お城の中・上からの写真はないのですが、復興成ったお城の写真を少しご覧ください。









まだ完全に全部が修復されたわけではないですが、震災で崩れた石垣のかなりの部分が、きれいに直されていました。直るんですねー。
お客さんはあまり写しませんでしたが、結構来ていました。

この夏は、福島県内の考古遺跡をいくつか見るために、何度か実家に帰ったのですが、そのたびに、小峰城はもちろんのこと、白河駅周辺で、旅人らしい人達を幾人も見かけました。

白河駅は、新幹線停車駅にならなかったおかげで、大正時代の駅舎が残っていて、そのノスタルジックな雰囲気がとてもいい感じの駅舎です。

震災前は、白河駅で降りて観光するような人はほとんど見かけなかったのですが、今年あたりから特に、駅舎の中や外で、きょろきょろとあたりを見回したり、駅舎を見上げたり、写真を撮ったりしている旅人が、多くなりました。
これは明らかに、震災をきっかけとして、福島県に注目してくれる人が増え、観光に出かけてみようと思い立って、お出かけになってくださる人が増えているのです。

「観光客」というより、「旅人」という言葉が合うような、一人か二人連れくらいの人々が、白河駅をめあてに来てくださっているのです。団体客というのではないです。

そうやって、外からの人の流れによって、新しい風が入り、白河もよりよく、観光地として洗練されていくのではないかなと思います。

あまりたくさん押し寄せてもらっても、風情がなくなるので、今くらいでいいので、「旅人」さんが、白河駅に降り立って、静かな城下町の空気を感じてくれたらいいかなあと思います。

だるまとか白河ラーメンの話は書いたような気がするので省略。
地元にいると気付かないのですが、城下町なのでおいしい和菓子屋さんがまあまあ何軒かあるかな?私は買いに行ったことはない(なんか入りにくい)のですが、「玉家」という江戸時代からの和菓子屋さんの「うば玉」とか、以前いただきもので食べたら上品でおいしかったので、もうちょっと自分でも食べておきたいかなと。「清寿」というお店の栗むしようかんは、かなり以前に何の気なしに親に持たされて職場に持って行ってみんなで食べたら、ある人がとても気に入って、電話番号を控えて、電話して注文しちゃおうかなと言っていたということもありました。

福島県も、「福が満開 ふくのしま」キャンペーンなどで観光に力を入れ始めているということもありますが、原発事故で放射線量の問題があるにもかかわらず、やさしい心で福島に観光で訪れてくださる方が増えていることを実感します。
職場にも、福島旅行をしてきた先生が複数いらっしゃいますし、実は私は春から某道場に通っているのですが、そちらでも「磐梯山大爆発」?という福島みやげのお菓子を見かけましたし・・・

元県民として、本当にありがたい、うれしいことです。災い転じて福となす、とでもいいますか、いろいろな形で外から人がたくさん入って来てくださることによって、福島がよくなっていくきっかけとなっていくことと思います。

震災・原発事故からまだ数年のこの時分に、福島県を訪れてくださる方々の、心のやさしさに、その数の多さに、なんとはなしに心を動かされ、感謝したくなりましたので、書いておくことにしました。
福島県人の血としては4分の1・クォーター程度で、あまり福島県を好きではない私なのですが、それでも、訪れる方に感謝申し上げます。

「戦後70年」に寄せて その2 ヴァイツゼッカー大統領演説「水に流してはならない」

2015-08-23 15:45:35 | 授業
前回の続きで、日本の戦後70年にちなんで、ドイツ大統領ヴァイツゼッカー(1984~94年在任)の、もう一つの演説について紹介します。

これも、前回の記事と合わせて、授業で配布したものです。
敗戦50年の来日時のものとのことですが、70年の現在にもあてはまる、深い言葉が述べられています。
自然にこのような考え方に行きついているか、それとも、生理的に受け入れがたい話であるのか、人によって、全く異なるものなのでしょうか?
以下、お読みください。感想などあればおきかせください。

以下、授業プリントの後半部分。


・・・・・

水に流してはならない――ドイツと日本の戦後50年

ドイツ大統領退任後の1985年、来日。日本の敗戦50年に合わせた演説旅行を行った。
「荒れ野の四十年」同様に、歴史を直視するべきことを力説している。英語に訳された「水に流す」という日本語の言い回しを引いて・・・また口先の「謝罪」が不信の解消には役立たないと述べるなど、日本での「歴史」論議に明確かつ率直な態度を示している。


・・・過去は歴史です。しかし過去はただの歴史でしょうか。それとも現在でもあるのでしょうか。過去を解釈するのは歴史家の仕事で、ドイツでも日本でも歴史家たちはそのことで論争をしています。

しかし、過去の解釈は歴史家だけのものでしょうか。われわれ政治家や精神的指導者たちも参加する責任があるのではないでしょうか。

私は「ある」と確信しております。

仮に責任ある立場のドイツの政治指導者が

――自国の戦時中の行為を歴史的に評価する用意がなかったり、あるいはそうできないとすれば、
――戦争を始めたのがいったい誰であり、自国の軍隊が他の地で何をしたのかについての判断を拒むようなことがあれば、
――さっさと戦利品に手をだしておきながら、他国に対する攻撃を自衛だと解釈するようなことがあれば、


そんなことがあると、道徳的な結果はまったく論外としても、現在のわれわれにとって外交上の重大な結果をもたらすことになるでしょう。隣国から政治的・倫理的判断力に欠けるという評判をとったり、まだまだ何をするのか分からぬ危険な国だとみなされる――そんなことを望んだり、したりする余裕がドイツにあるものでしょうか。
・・・自らの歴史と取り組もうとしない人は、自分の現在の立場、なぜそこに居るのかが理解できません。そして、過去を否定する人は、過去を繰り返す危険を冒しているのです。
・・・
このような経験や報道から結論を出すとすれば、こうです。もし仮に、われわれドイツ人が「過去を川のように流してしまえ」Let the past flow away like the river (=水に流す)という原則に従っていたならば、何も解決できず、外交面での孤立を長引かせ、内政面では硬直状態を助長していただろう、ということです。

われわれの経験では、過去の出来事について広く公に議論することは不可欠であり、結局は有益なものであります。議論の結果、より誠実になれるからで、これは国の内外にとって大きな価値があります。人間同士の個人的な付き合いの上での経験が、国と国の関係にも当てはまります。ときには謝罪が必要ですが、嘘偽りのない謝罪でなければ効果がありません。信じてもいない謝罪なら、むしろ止めておくべきでしょう。本気でなければ、謝罪などしない方がましです。ドイツでの経験では、謝罪と償いの行動には特段の意味があり、ときには単なる言葉よりも大切であり効果的でさえありました。

・・・人間が歴史から学べるという証拠はありません。しかしながら、誠実かつ率直に過去と向かい合うことは、遠近の隣人との、信頼にみち、国民としての利害にもっとも役立つ協力関係にプラスの作用をもたらすもので、このことをわれわれは経験で知っております。
日本とドイツは、地理的にはずいぶん距離がありますが、そうした協力関係を結ぶにあたって、実りのある・有効的な共同作業をすることができます。これが日本とドイツの両国の今後の課題であると確信しております。

以上 プリント部分終わり

以下、本日8月23日記す そういえば、今年1月に、亡くなったヴァイツゼッカー氏のお葬式があり、各国の首脳級が参列したようなのですが、日本から誰が行ったのか、報道ではわからず、もしかして、誰も行っていないのか?と気になりました。ネット上では少数ですが、同じように気になった人もいたようでした。日本はお呼びでないのか、日本政府がスルーしたのか、わかりませんが、本物と偽物と区別した場合、今の政府は本物に近寄ることができない次元にいるのかもしれません。

首相の言葉は役人の作文が基調であるという話は前回書きました。そういえば、70年談話の直後、新聞を見たら、読者の「声」欄が、教員(現役も引退後の人も両方)の投稿ばかりで埋め尽くされていた日がありました。主に、「作文」に対するダメ出しの声でした。やはり、全国の先生たちの多くが、そんなふうに受け止めたんでしょうね。

一方で、天皇陛下のお言葉は、ご自分で考えられることも多いという話をどこかで読みました。どんな人であっても公平に見た場合、天皇陛下のお言葉は、深い配慮が行き届いていて、仮に宮内庁のお役人が書いている部分があるにしても、天皇陛下また皇后陛下自身の思いが含み込まれていることが感じられます。

天皇は、現在の憲法下では日本国の象徴ということになっていますので、政治には口出しをすることはできません。現在の日本の社会・政治状況について、本当にもどかしい思いで、ご自分の思いを明確に表に出すことを押し殺し、折々の行事、お誕生日その他の機会でのお言葉に、ひそかに思いを込めていらっしゃるようです。
時々、マスコミがそれをくみ取って解説を加えたり、逆に、某放送局が現政権に不都合な部分をカットして放送した、と指摘されたり、ということがあります。

過去には、昭和天皇に叱責された首相(誰でしょう?)もいましたが、現代の憲法下ではそんなことはありえませんから・・・
それにしても、言いたいことがあっても自由に言えない、窮屈な立場では、体にも悪いでしょうね。
両陛下のご体調を悪くするような、政治のかじ取りは、やめてほしいですね。

心ある人たち、学校でしっかりと、国語をはじめさまざまに学び、教養を高めた人たちは、いろいろな人が公に発する言葉の真意(真贋)を、しっかり受け取る・見極めることができますように。

このくらいでやめておきましょう。



写真は、なら燈花会より。興福寺にて。字を表しているのですが、画像を小さくした方が、なんて書いてあるかわかりますね。現地ではわかりませんでした。



「戦後70年」に寄せて ヴァイツゼッカー大統領演説「荒れ野の40年」・・心に刻むことなしに和解はない

2015-08-15 20:09:20 | 授業
日本は、戦後50年、60年と首相が談話を発表してきて、今年は70年の談話が14日に発表されました。いろいろな立場の人がそれぞれに突っ込みたい所はあるでしょう。

私は教員になる前に10年以上役人をやっていたので、上の人が読むあいさつ文なども書いたことがあり、議会の答弁、役所のさまざまな実施計画書のたぐいも書きました。

ですから、14日に首相が発表した談話も、四つのキーワード(「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「おわび」)が盛り込まれているかというのがポイントだったそうですが、結局はそのキーワードをうまく盛り込んで仕立てたお役人の作文だったなと、まずは端的に思います。それで、目をくらまされた人がたくさんいると思います。

ああいった長文を100%首相が自分の言葉で考え、伝えたという印象は残念ながらありません。
細かい内容についてはここではパスします。

そもそも、日本の首相が、このような談話を発表するようになったのが、戦後50年、60年、70年とのことで、ドイツのヴァイツゼッカー大統領のドイツ敗戦40年の演説「荒れ野の40年」をまねて、まず村山さんが50年の談話を発表したのではないでしょうか?

キリスト教的には「荒れ野の40年」の「40年」に深い意味があるのですが、それを「まねて」、日本で50年、60年、70年と、単に10年ごとの節目で談話を発表する慣習ができたのだとしたら、本来の始まりの趣旨と違うだろうになと思います。ドイツで10年ごとであるのかは知りません。

そのヴァイツゼッカー大統領の演説というのが非常に格調高く、心を揺さぶられるもので、私は、前任校の日本史Bの授業で、その内容を要約して、生徒に配ったことがあります。歴史を学ぶ意味を考える材料としてもよいのではないかと思ったのです。

前任校の生徒には、なかなか、理解してもらえないかもしれないだろうと予測しながらも、当時持っていた二つのクラスのうち、一つのクラスには、チャレンジしてみようと思い、プリントを配ったうえで、説明をし、心にとどめてもらいたいという趣旨の話をしました。

すると、その授業の終わりに、自主的にそのプリントに関する感想のメモを書いて、私に渡してくれた男子生徒がいました。とても真摯な内容でした。一人でも、心にとどめて、何か考えるきっかけになってくれたとしたら、うれしいな、と思っていましたので、これは本当にうれしいできごとでした。

もう一つのクラスは私の担任クラスで、そちらでは、授業でやるのはちょっと無理かも、とややくじけて(前者のクラスよりも全体的に精神性が少し幼い感じがしたもので)、確か、日本史Bの最後の授業の時に、プリントを配布し、各自で最後まで読み、考えてほしいという話をしました。その版が最終的に残っていましたので、ここで、少しそれを省略しながらも、紹介したいと思います。

ドイツが降伏したのは5月8日で、日本にとっての8月15日と同じです。


以下、授業プリントのやや省略版

・・・・

日本史B ・・・1年間の最後に
未来の日本を背負って行く皆さんに  最後まで読んでいただければさいわいです

ドイツ大統領ヴァイツゼッカー(1984~94年在任)の名演説から  歴史を学ぶ意義を考える
『言葉の力  ヴァイツゼッカー演説集』
(岩波現代文庫  2009年)より

※日本にもこのような格調高い演説ができる政治家を求む。

荒れ野の四十年

ドイツの統一が実現する4年前の1985年5月8日、第二次大戦でのドイツの敗戦40周年にあたって西ドイツの国会で行われた演説。
当時、東西ドイツの分裂状態は続いており、戦後の四十年をどう評価するのかの甲論乙駁が沸騰していたが、大統領は「捕囚」からの「救い」をもたらすのは「心に刻む・記憶する」ことだとのユダヤ教の格言を引いて、一つのヒントを提供している。


5月8日(※日本にとっての8月15日)は心に刻むための日であります。心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを誠実かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには真実を求めることが大いに必要とされます。

われわれは今日、あの戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
・・・
戦いが終わり、筆舌に尽くしがたい大虐殺(ホロコースト)の全貌があきらかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。

一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたのもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方々、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関わり合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。

今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自らが手を下してはいない行為について自らの罪を告白することはできません。
・・・
罪の有無、労幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。(以下太字はブログ筆者ツツコワケによる)
・・・
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。
ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでしょう。われわれは人間として心からの和解(フェアゼーヌング)を求めております。

まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はない、という一事を理解せねばならぬのです。何百万人もの死を心に刻むことは世界のユダヤ人一人びとりの内面の一部なのでありますが、これはあのような恐怖を人びとが忘れることはできない、というだけの理由からではありません。心に刻むというのはユダヤの信仰の本質でもあるのです。

  忘れることを欲するならば捕囚は長びく
  救いの秘密は心に刻むことにこそ

これはよく引用されるユダヤ人の格言でありますが、神への信仰とは歴史における神のみ業(わざ)への信仰である、と言おうとしているのでありましょう。
・・・
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。かつて起こったことへの責任は若い人たちにはありません。しかし、歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。

・・・人間は何をしかねないのか――これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。


道徳に究極の完成はありえません――いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。これからの人間として危険にさらされつづけるでありましょう。しかし、われわれにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております。

ヒトラーはいつも、偏見と敵意と憎悪とをかきたてつづけることに腐心しておりました。
若い人たちにお願いしたい。
  他の人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。

  ロシア人やアメリカ人、
  ユダヤ人やトルコ人、
  オールタナティブを唱える人びとや保守主義者、
  黒人や白人、
  これらの人たちに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい。
  若い人たちは、たがいに敵対するのではなく、たがいに手をとり合って生きていくことを学んでいただきたい。
  民主的に選ばれたわれわれ政治家にもこのことを肝に銘じさせてくれる諸君であってほしい。そして範を示してほしい。

 自由を尊重しよう。
 平和のために尽力しよう。
 公正をよりどころにしよう。
 正義については内面の規範に従おう。
 今日5月8日にさいし、及ぶかぎり真実を直視しようではありませんか。

※この演説の4年後の1989年11月10日、ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一された。
 戦後、ドイツや朝鮮半島などが二つの国家に分断されてきた中で、日本は国を分割されることもなく、急速に復興を果たし、先進国の一つとなった。この奇跡や幸運を理解し、また、ドイツがユダヤ人に対して行ったことを、この演説で「心に刻もう」と呼びかけているように、日本人としても、同様に、戦時中、アジアの人々に対して行ったことを、戦争を知らない世代としても「心に刻む」ことの大切さを認識してほしい。
(以上この※ツツコワケ記)


以上が、私の授業プリントのやや省略版です。文中の「※ツツコワケ記」は本名の名前を入れて配布しました。

このような演説は、お役人の作文としては決して書けない内容です。

昨日の談話の案を練るにあたっては、この頃の内閣支持率低下も気にしながらであったとか(マスコミ報道ですから本当かわかりませんが)・・・そんなことを気にしているようでは、格調高い、高邁な内容など、望むべくもありません。

このいみじくも『言葉の力』というタイトルの本を、ぜひ、読んでいただきたいと思います。政治家の方々も、手遅れかもしれませんが・・・バイアスをかけないで、素直な心で読んでほしいです。

まだもう一つの演説について、紹介したいのですが、今日はこれで終わりにします。

写真は、先日の「なら燈花会」より。


薬師寺東塔のてっぺんが目の前に・・・奈良国立博物館「白鳳-花ひらく仏教美術-」

2015-08-12 23:21:14 | 飛鳥時代
現在、奈良国立博物館では、「白鳳-花ひらく仏教美術-」(開館120年記念特別展)を開催中です(9月23日まで)。私も6日に見て来ました。
http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2015toku/hakuhou/hakuhou_index.html

白鳳文化といえば、頭に浮かぶのは、興福寺仏頭です。普段、興福寺にいらっしゃいますが、8月18~27日までこの特別展にお出ましになるそうです。期間中いつもいらっしゃるのは、薬師寺金堂の、高さ3m以上もある月光菩薩立像(一度東京にも来ました)をはじめとして、たくさんの白鳳仏です。

ちなみに、「白鳳」という言葉は、「白雉」という年号(650~654年)の別の言い方だという説明がされている古文書が展示されていました(正確なことを書けていなくてすみません 暑くて注意力が散漫に)。

「なら燈花会」に合わせて、15日までは、19時まで開館しています。しかも、17時以降は、一般の入場料が1500円→1300円と大幅に安くなってとてもお得です(他に毎週金曜日)。なら燈花会は、興福寺以外は19時から始まり、しかも、19時過ぎてもなかなか空が暗くならないので、出かけるのは遅くてもいいのです。それまでの時間つぶしに、この奈良国立博物館を観覧するのもいいですよ。

実際、私もそんな感じで入りました。奈良大学の学生の場合、キャンパスメンバーズということで、なんと400円で入場できました。かなりお得です。学生のうちに何度か行きたいものです。

白鳳仏は、そのポーズなどがどれもかなり似通っています。私も白鳳の時代、つまり飛鳥時代、天武・持統天皇の時代は好きです(好きでしたと過去形にしそうな今日この頃)から、おなかいっぱいになりました。

特に印象に残ったのは、薬師寺東塔のてっぺんについている、水煙と相輪が、現在解体工事中のため、この目の前に下ろされて、間近で見ることができたことです。
「檫銘」といって、この塔を建てることの由縁が刻まれたものも横にありました。
これらは、工事をしていなかったら、天高く塔の上に据えられていて、こんな近くで見ることのできないものですから、自分が生きている間に二度とない貴重な機会かもしれません。まじまじと見てきました。

この日も近畿地方は猛暑で、昼間、秋篠寺と薬師寺を見てすでに疲労困憊だったため、一つ一つをじっくり見る体力がなく、駆け足で、およそ40分で一回りしました。
全体に、展示内容はすばらしいものでしたが、暑くて疲れ切った状態でしたので、じっくり見ることができず残念でした。

見終わった後、燈花会にはまだ時間がありそうだったので、地下のカフェで夕食にしました。私は疲れて喉を通らなそうだったので、シンプルなパンケーキにしたのですが、たっぷりの生クリームが載っていて、とてもおいしかったです。上に飾ってある小さい板チョコレートを見ると、「La Pause」(ラ・ポーズ)の文字。これは、冬に宿泊したホテルの1階にあった、おいしいことで有名なケーキ屋さんのだ、と気が付きました。以前、校倉クーヘンの記事をここでも書きました。それを作っているお店です。紅茶もおいしくいただきました。おすすめです。

こうした、地下のカフェとミュージアムショップは、入場料を払わなくても入れますので、奈良公園散歩に疲れたら、休憩に使えます。椅子・ソファもたくさんあります。

というわけで、奈良国立博物館について今日は書きました。旅の全貌は、なかなか紹介しきれませんので。そして、同じ日の昼間に見た、秋篠寺と薬師寺の画像を少しお届けします。
秋篠寺は、私もだんなも見たことがなかったため、薬師寺は、だんなが見たことがなく、東塔が工事中で見られないといっても、だんながそれでもいいというので、行きました。まあ、珍しい風景ではありました。本当は、他に、唐招提寺や垂仁天皇陵、菅原道真さんの神社、西大寺など計画していたのですが、この炎天下では、全くムリ。でした。


秋篠寺は、秋に行くのがよさそうです。ただし、この炎暑の季節は逆に、お客さんが少なくてゆっくり心静かに見られるかも。とても落ち着いた、よい雰囲気のお寺でした。

中は撮影禁止なので外観だけですが、伎芸天は、一般に言われているとおりのイメージでした。首をかしげ、ほほえんでいるような表情は、独特の個性的なものでした。衣服に色が残っているのも印象的でした。


解体工事中の薬師寺東塔は、このようにすっぽり覆われていました。


東塔の代わりに西塔。

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