日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

巨大古墳を見に行こう・・・古墳時代中期

2020-05-30 18:42:13 | 古墳時代
東京も緊急事態宣言が解除されましたが、日に日に電車は密っぽくなってきています。
私も従来の時間に出勤して仕事をして、慣らしていますが、職場で一日動いた日は疲れてすぐ寝ました。やはり在宅が長いと、体力も落ちているようで、少しずつゆるゆると再開していかないとですね。生徒の皆さんも、少しずつ慣らしていかないと、疲れると思います。

コロナ前は50分授業×6時間でしたが、今から思うと、それだけの長時間、しかも人数的にも教室にぎっしりの状態で、よくやっていたなと思います。コロナ後はもうそういう状態に戻らないでもらえたら、生徒も教員も助かると思います。特に、地歴公民科のような科目は、国数英のように習熟度別の少人数ではないので、かなりエネルギーを使うのです。ここで立ち止まって、これまでとこれからを考える時間が取れたことは、貴重でした。
少子化時代であることも生かして、40人学級はやめて、ゆったりと学べる環境に変えていってほしいですね。私は定時制高校で勤務したこともあるのですが、その経験から、学力には関係なく、少人数であるに越したことはない、少人数であればあるほどよい、と思うようになりました。

さて、3年生の日本史Bの授業の補足を続けます。来週から登校日はありますが、授業はまだもう少し先になります。

今日は古墳時代中期についてです。教科書はまず、p.25~28まで。

太字にしてあるのは、試験でも大切な部分なので、よく理解してください。
古墳時代中期は、5世紀を中心とします。とにかく古墳が巨大化します。
具体的な例は、少し前に世界遺産に登録された、大阪・堺市にある「仁徳天皇陵」=大仙陵古墳を含む「百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群」です。仁徳天皇陵と一般に呼ばれている大仙陵古墳は、日本最大の古墳です。
墳丘の大きさ486m。エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられます。古墳の陵域は濠を含めて約47万㎡で、甲子園球場が12個も入る広さ。古墳を造るには、1日最大2,000人の人々が働いても15年以上かかったといわれています。(堺市ホームページを参照)それだけの人を動かす強い権力者が存在したということですね。

私も3年前の2017年に、仁徳天皇陵=大仙陵古墳を見て来ました。地上からは本当に山にしか見えません。エリアも広く電車の駅も二駅くらいに及んでいます。過去の記事をご覧ください。

そうだ、堺に行こう! その1(「仁徳天皇陵」へ)

そうだ、堺に行こう!その2(百舌鳥古墳群バーチャルリアリティーツアー体験)

堺には、千利休や豊臣秀吉、織田信長などにもゆかりの場所が残っていますので、一度行ってみてください。与謝野晶子の生まれた地でもあります。写真も載せてありますが、前方後円墳型カレーを、堺市役所最上階の展望コーナーで食べて来ました。私が行ったのは、まだ世界遺産登録前でしたから、今はもっといろいろな場所で古墳にちなむ食べ物やグッズが出ているものと思われます。

そうだ、堺に行こう!その3 前方後円墳型カレー、さかい利晶の杜など、堺探索


そして、中期の古墳の特徴としては、もう一つ、副葬品に武具や馬具が多くなるということです。前期は鏡や玉といった呪術的要素が強かったのですが、中期では戦いに使われた道具が多くなります。こうしたことから被葬者は武人的性格をもつといわれています。


乗馬の風習もこの頃日本に入ってきて、「騎馬民族征服王朝説」も教科書の注に記載されています。華やかな馬具の副葬品は確かに大陸の香りを感じさせます。この写真はさきたま古墳群にあった展示です。

大陸からの人々も多く渡ってきて、5世紀のこの頃にやってきた人達を渡来人といいます。渡来人は日本にさまざまな文化を伝えました。漢字も伝わってきました。

5世紀頃から漢字が使われていたことを示す文化財としては、教科書にも当然載っていますし受験でも覚えるべきものですが、まず、熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀です。これは、東京国立博物館で見ることができます。
もう一つ、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣です。これは、行田市のさきたま古墳群にあり、そこにあるさきたま史跡の博物館で見ることができます。関東に住んでいる人は両方とも電車で行ける所で見ることができますので一度現物を見てください。
「鉄刀」と「鉄剣」の違いは、刀は「反り」がありますが、剣は「まっすぐ」という点です。
そして、そこに刻まれている文字に同じ王の名があるわけですね。「ワカタケル大王」と。これについては実際の授業でやりましょう。

5世紀は、今の私にとっても興味深い時代です。最初の大学で律令制度をやっていた頃は、飛鳥・奈良時代、つまり、7~8世紀に興味があったのです。国家としての始まりはいつなのかを考えるために、当時は律令というものに着目していたのですが、考古学の発展、発掘調査の進展などにより、より古い時代のこともいろいろなことが解明されてきました。5世紀あたりのこともよりわかるようになって、ここ数年は、私が興味を持っている出雲のこと、その出雲の痕跡を奈良に見つけるということをやりたくなり、その手掛かりが三輪山のあたりに漂っている、と考え、この地域を中心としてよく訪れるようになりました。

教科書に、石製模造品のことが簡単に記述されています(p.31)。こうした石製模造品を使って5世紀頃の祭祀がとり行われていました。この石製模造品の一つが、私が奈良大通信教育の卒論で取り上げた子持勾玉です。勾玉に、勾玉の子供がくっついたような形で、ちょっと見には気持ち悪いかもしれません。これは、10㎝前後と大きく、大体が1個ずつしか見つかりません。しかも古墳の中からはほとんど見つかりません。副葬品ではないのです。まだ全国で400個くらいしか見つかっていません。
これが、奈良県の三輪山周辺で多く見つかっている、そして、それがどちらかというと東日本に多い、ということに着目しました・・・でもあまりここで書くとネタバレ(笑)になるのでもうやめておきましょう。

とにかく、こうした石製模造品を使って祭祀が行われた跡も多く発見されていて、その付近に今も神社が存在している例があります。教科書には、三輪山のふもとの大神神社(奈良県)、沖ノ島の宗像大社(福岡県)などの例が挙げられています(p.31注①)。以前の教科書には、ここに出雲大社や住吉大社も入れてあったのですが、今は抜かれています。あまり根拠がないということになったのでしょうか。まあそれも納得です。

大神神社は本殿がなく、三輪山自体が御神体ということで、この時代は三輪山のような円錐形の整った形の山や、巨大な岩=磐座(いわくら)ですね、や、絶海の孤島などに神がやどる所と考え、祭祀の対象とした、と教科書にも書かれています(p.31)。

私は神社はあまり好きでなかったのですが、こうして、5世紀頃を起源として1000年以上もずっと祭祀が続いている場所(神社)もあるんだ、と知り、そういった起源の古い神社についてはとても興味を持つようになりました。
平安時代にまとめられた『延喜式』には、当時の神社(式内社)名が記録されています。「延喜式神名帳」といわれます。これに載っている神社も少なくとも平安時代から存在していたことがわかります。
高校の日本史では、こんな式内社だとかいう話は私も教わりませんでしたし、あまり知る機会がないと思います。私も数年前に知ったくらいです。
神社もいろいろあるということを知るとよいですね。また『延喜式』の神名帳を見てみると何か発見があるかもしれません。ネットでもある程度知ることができると思います。

子持勾玉が近くで出土している神社は結構あって、それがその国の一宮またはそれに次ぐ古社であることも多いのです。私のハンドルネームのツツコワケの元になっている陸奥国一宮の都々古別神社(福島県白河市)、大和国一宮の大神神社(奈良県)、この二つは円錐形の山のふもとにあります。関東では武蔵国一宮の小野神社(東京都多摩市)があります。小野神社なんて知らないよ?という人がほとんどだと思います。意外と一宮はもう今の時代ではあまり有名でない神社も多いんですね。このあたりも謎といえば謎です(笑 卒論では書いていますが)。私もツツコワケ神社は地元なのに、奈良大通信に入って勉強をしている中で知ったくらいです。

東京の小野神社を訪れた記事は以下です。

武蔵国一之宮 小野神社を知っていましたか? その1

起源は古い・・・武蔵国一之宮 小野神社を知っていましたか? その2

閑散としていて寂しい感じさえ漂う神社ですが、天皇家の菊の紋が神社の入り口にあったりします。神社の位置には諸説あるようですが、多摩川の近く、神奈川県との境界に近いです。

次に紹介する古墳は、これも中期・5世紀頃の前方後円墳、五色塚古墳です。
復元されてあまりにも整った古墳で、付近で子持勾玉が出土している古墳でもあるので、奈良大の学芸員の実習で来たついでに足を延ばして明石にあるこの古墳を見て来ました。
行く価値あり、です。

明石へ。五色塚古墳見学記 (2016年10月)

淡路島・明石海峡大橋を見はるかす絶景! 五色塚古墳見学記 その2

海を見下ろす、すごく景色のいい場所に古墳が造られています。交通の便も悪くないので訪れてみてください。そして、明石焼も食べてください。本場はおいしかったです。

関東の中期古墳として、ブログに書いたのは、野毛大塚古墳です。関西の古墳に比べたら、小さくてかわいい古墳です。大井町線等々力駅から歩いて行けます。帆立貝型古墳といわれます。


野毛大塚古墳(東京都世田谷区)


ブログには記事にしていませんが、埼玉県行田市のさきたま古墳群も関東の人にはお勧めです。ちょっと交通の便がよくないですが。ピクニック気分で行かれるとよいと思います。


のどかでいいでしょう?毎年ゴールデンウィーク頃に「火祭り」をやっていて、そののぼりが立っています。


鉄剣が発見された稲荷山古墳の前方部


後円部。

なんだか古墳の紹介ばかりになってしまいました。今回は中期の古墳限定です。
緊急事態宣言も解除されたので、古墳探訪もよさそうです。古墳は大きいので、「密」になる心配はないと思います。

今日は電車に乗って外出し、カフェにも入りましたが、座席が一つおきになっていて、お店としてはお客さんを本当はたくさん入れたいのでしょうけれども、客側としてはゆったり座れて、とても快適です。
今日は、日比谷に移転した島根県のアンテナショップ、日比谷しまね館に行きました。前は日本橋にありました。出雲が好きなので島根のアンテナショップはよく行きます。
アンテナショップで買っていたものが自粛中に在庫が切れそうになって、早く行きたいなと待ち構えていたところでした。行きたいのは奈良と青森のアンテナショップです。アンテナショップだけでなくて現地にももちろん行きたいですけどね。
マスク着用、手洗い励行、夜遊び禁止(笑)、で、なんとかコロナを食い止め、自由にどこでも行ける生活に早く戻りたいですね。

邪馬台国の時代からヤマト政権成立の時代へ・・・古墳時代前期

2020-05-23 15:19:54 | 古墳時代
ずっと在宅とはいえ、やはり土日は格別に開放的な気分になって、休息できているなと思います。そういうこともあってか、土曜日に更新することが続き、これで4週目です。
コロナも東京では感染者がひとケタになってきて、緊急事態宣言も解除が見えてきました。やっと、学校も少しずつ始まっていくのかなという所まできました。少しずつですね。
関西3府県も緊急事態宣言解除で、ほっとされているところでしょうか?

さて、3年生の日本史Bの授業代わりの補足を続けます。本校でも、オンライン授業はいずれ実施する方向ですが、当面は紙ベースで自習の形です。

卑弥呼の話は前回でおしまいにしまして、教科書p.23から、古墳時代に入ります。
教員になった最初の頃は、古墳時代が嫌いでした。もともと、最初の大学では飛鳥・奈良時代の律令制度などの文献史学を専門にしていたので、文字のない時代のことなど、確かなことはわからない。しかも古墳なんて要するにお墓のことなのに、どうして教科書ではこんなにお墓のことに延々とページを割いてあるのだ(10ページもある)?それより自分が研究していた、天武天皇や持統天皇の律令国家の形成のあたり(1ページしかない)にページを割いてよ。と思っていました。

ところが、奈良大の通信教育に編入学した6年前くらいから、自分で勉強するようになって、古墳時代が面白くなってきてしまいました。教科書に書いてあることだけの勉強では面白くない、ということを如実に感じたのがこの古墳時代でした。

奈良大の文化財学においては、「現地主義・現場主義」というポリシーがあり、私もスクーリングの講義で「現地に行って来てください。」という言葉を聞いて、いたく感銘を受けました。
文献だけで完結していた自分の学生時代とは大違いです。考古学を専攻する各大学の学生さんは、夏休みに何日も泊まり込んで、古墳の発掘などをやったりするとのこと。私も、奈良大で勉強して、考古学にも足を突っ込んだわけですが、本格的にやるにはもう若くないし、体力がありませんから、発掘までは難しいです。やはり、考古学者はアウトドア派で体力がなければなりません。
私の教え子が、考古学の道に進み、発掘作業をしている所に差し入れを持って行くのが夢です。誰か、お願いします!(笑)

授業では、古墳時代を前期・中期・後期に分けて、まとめて特徴を整理しています(プリントの表参照)。それを覚えるだけでもかなり問題は解けると思います。
大雑把に分けると、4世紀が前期、5世紀が中期、6~7世紀が後期です。4C,5C,6Cと100年単位です。覚えやすいですね。

ここでは、前期・中期・後期でブログの記事を1個ずつ書くことにします。

まず、古墳時代前期ですが、

教科書p.23に写真もあるように、卑弥呼の墓ではないかとも考えられている箸墓古墳が、出現期の前方後円墳として最大規模ということになっています。箸墓古墳はヤマトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫命)という、孝霊天皇の娘の墓ということになっているので、宮内庁が所管しています。ですから、立ち入り禁止です。被葬者がどういう人だったのかといったことは、ほとんど調査できません。出土したという土器を調べることによって、いつ頃古墳が作られたかが推定されています。卑弥呼が死んだ頃とすると、3世紀の後半です。一応、このあたりも古墳時代と重なるということになります。

私が箸墓古墳を見学した時の記事はこちら。大きさを見てください。

卑弥呼さんの墓なのだろうか?―箸墓古墳(学外授業から)

とにかく巨大です。東京に住んでいると、古墳はあまり身近にありませんし、この箸墓古墳は大きくて、古墳というより山というイメージで、その大きさに驚きます。鍵穴の形をした前方後円墳だなんていうことは、地上から見ても全くわかりません。上記記事の写真を参考にしてください。くびれはちょっとわかるかな、という程度です。

古墳時代前期を3~4世紀と考えると、この時代に関係するブログ記事は以下です。教科書は、p.23~24。

卑弥呼の鏡か?黒塚古墳見学記

1997年ですから平成時代のこと、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面という大量の鏡がここで発掘されました。黒塚古墳は、奈良県の天理市にある古墳時代前期(4世紀初~前半)の古墳です。ここから大量に発見された三角縁神獣鏡が、卑弥呼が魏からもらった鏡ではないかと考え、ここが卑弥呼の墓であるという説もあります。箸墓でも黒塚も、奈良ですから邪馬台国畿内説の方になります。

この古墳の三角縁神獣鏡のように、前期の古墳から出土する副葬品は、鏡や玉など呪術的な要素が多いことから、この時期の被葬者は、司祭者的性格をもつ、と教科書にも記述されています。卑弥呼などがそのイメージですね。

そして、上に書いた、箸墓古墳の被葬者と考えられているヤマトトトビモモソヒメですが、これが卑弥呼ではないかという説があり、『魏志』倭人伝に出てくる「男弟」を崇神天皇にあてる説もあります。孝霊天皇は7代天皇、崇神天皇は10代ですので、ありえないことはないです。私もちょっと、同じように考えています。そして、前回書いたように、崇神天皇の時代に疫病が流行し、オオタタネコを探し出して祀らせたのが大神神社につながるということ、またヤマトトトビモノソヒメは、『日本書紀』に三輪山の神様・大物主と結婚するという話がありますので、卑弥呼の時代・古墳時代前期の頃の話なのだろうと考えることにします。

前回の記事も参照してください。
崇神天皇の時代の疫病退散方策は・・・

卑弥呼の死後、後を継いだのは、トヨ(壱与)という女性だと考えらえれていて、トヨの墓ではないかといわれているのがホケノ山古墳です。奈良大の学外授業で行った時の記事がこれです。

トヨの墓なのか?―ホケノ山古墳(学外授業から)

この古墳の被葬者は「豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)」と考えられていて、崇神天皇の皇女です。「とよ」という文字が入っているので「トヨ」かもしれないと思わされます。
こちらは、古墳の頂上まで簡単に登ることができます。古墳の裾に畑が作られていたりして、とてものどかです。奈良大のスクーリングの時には雨で上に登れなかったのですが、後で自分でレンタサイクルで回った時に登った時の写真はこちらにあります。
オオタタネコの神社・若宮社の写真もこちらです。あちこちに散らかっていて恐縮ですが、お時間がありましたらどうぞ。

お彼岸に太陽を追いかける女・・・2015春彼岸奈良弾丸ツアーC

以上、前期古墳の記事の紹介でした。前期(出現期)の規模の大きい古墳は、奈良(大和)に多いため、この大和地方を中心とする政治連合が形成されていたと考えられ、これをヤマト政権といいます。前方後円墳は、ヤマト政権の権威の象徴と考えられています。この形のお墓を作っていいと許された人だけが作ることができたという考え方があります。

どうしてあのような形をしているのか、古墳の向きには何か意味があるのか、など、解明してみたい謎はいろいろあります。皆さんも考えてみてください。

適当な写真がなくて、1年前の5月12日に、奈良大通信教育の同窓会の遠足で山の辺の道を歩いた時の写真から。



大神神社を後にして、歩いていくと、狭井川を通過しました。その橋のたもとで、ガイドをしてくださった方が、勢夜陀多良比売の絵を掲げながら丹塗矢(にぬりや)伝説の話をしてくださいました。


その狭井川のほとりで、大神神社のささゆり奉献神事(6月16日)、奈良市内の率川神社の三枝祭(さいくさのまつり)(6月17日)に使うささゆりが育てられているとのことで、写真にはそのお世話をしている方が写っています。ささゆりはまだ咲くのは先で、支柱がたくさん立てられていました。

三枝祭は世にも美しいお祭りということで、私もいつか見に行きたいと憧れるお祭りです。
http://isagawa-jinja.jp/omatsuri/saikusa/

ああこんなふうにささゆりは大切に育てられているんだなあと感銘を受けました。
とてもよいお天気で、写真のように、空気がきれいで、緑も、空もとても鮮やかな色をしていました。本当にすばらしい5月の一日でした。
今度はささゆりが咲いている季節に行ってみたいものです。

今日はこんなところで。

崇神天皇の時代の疫病退散方策は・・・

2020-05-16 15:18:24 | 古墳時代
東京もコロナの感染者数が目に見えて減ってきました。しかし、緩むとまたあっという間に増えてしまうでしょう。もし日本国内で新規感染者がゼロになったとしても、「鎖国」でもしないことには、海外から入り込んできてしまいますね。台湾では、コロナを完全に撲滅できたので、元の生活に戻って、夜市などで全然「密」を気にせず食事などを楽しんでいる様子を昨日テレビで見ました。なんともうらやましい。今の日本から見ると楽園のようです。台湾は、SARSの経験もあって、それを生かして今回、うまく対応できたのですね。日本も、今回の経験を生かして、次はよりよく対応できなければなりません。
・・・というわけで、同じ失敗を繰り返さないためにも「過去の歴史に学ぶ」ことは大切です。日本史もしっかり学び続けましょう。

ちょっと今日は、教科書の続きは一休みして、コロナ=疫病に関して、日本の歴史ともからめて少し現状で気が付いたことを整理しておきたいと思います。

日本史の教科書では、疫病のことは、藤原四子の死であるとか、そもそも奈良の大仏ができたきっかけであるとか、コレラ(当時コロリといった)のことなど、いくらかは記述されていますが、約100年前のスペイン風邪については記述されていません。今後の教科書改訂の際に、記述が付け加えられるのではないでしょうか。

疫病との戦いは歴史を振り返ってもたくさんあって、神社やお寺の神事・お祭りは、そういった疫病退散を目的としたものも多いのです。私が関心を持っている三輪山・大神神社にしても、崇神天皇の時代に疫病が流行り、どうしようもなくて困っていたところ、三輪山の神様、大物主神が、自分の子供であるオオタタネコに自分を祀らせればおさまるであろうと夢の中で告げられて、そのとおりにしたところ、おさまった、という話が、『日本書紀』『古事記』にあります。

『日本書紀』の方は、過去に引用した記事があるので、そちらを参照していただくとして、

今日は、『古事記』の方の該当箇所を紹介します。現代語訳でいきます。

崇神天皇の時代に、次のような話があります。

「この天皇の御代に、疫病が大流行して、国民が絶滅しそうになった。そこで天皇は、これをご心配になりお嘆きになって、神意を請うための床にお寝みになった夜、オホモノヌシノ大神が御夢の中に現れて、『疫病の流行はわたしの意志によるものだ。だから、オホタタネコという人に、わたしを祭らせなさるならば、神の祟りは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう』と仰せになった。そこで急使を四方八方に分かち遣わして、オホタタネコという人を訪ね求められたところ、河内国の美努村にその人を見いだして朝廷にさし出した。そこで天皇が、『そなたはだれの子か』とお尋ねになると、オオタタネコが答えて、『私は、オホモノヌシノ大神が、スヱツミミの命(みこと)の女(むすめ)のイクタマヨリビメを妻としてお生みになった子の、名はクシミカタノ命という方の子の、イヒカタスミノ命の子のタケミカヅチノ命の子が、わたくしオホタタネコなのです』と申し上げた。
すると天皇はたいそう喜んで、『これで天下は穏やかになり、国民は栄えるだろう。』と仰せられた。そして、ただちにオホタタネコを神主として、三輪山にオホミワノ大神を斎(いつ)き祭られた。(中略)これによって疫病がすっかりやんで、国内は平和になった。
(次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社学術文庫)

ということで、オホタタネコ(オオタタネコ)は、『日本書紀』ではオオモノヌシの子ということになっていますが、こちらの『古事記』ではちょっと違います。私はこのオオタタネコにも興味があります。そのへんは飛ばしまして、要するに、国民が絶滅しそうなくらいに疫病が流行して天皇が困っていたところ、夢のお告げによって、オオタタネコを探し出して神主にして、三輪山の神様・オオモノヌシをまつったら、疫病もやんで、世の中が平和になったというのです。『日本書紀』はまた書いてあることがやや違いますがおおむね一緒です。

実は、今年の3月20日のお彼岸の日に、奈良に日帰りで行って来たのです。後から振り返れば、その三連休に国民が緩んで外出してしまったので、コロナ感染が拡大してしまったという時であったのです。その時、東京では感染者112人、奈良では4人。奈良は4人だし、大丈夫だろうと思ったのですが、東京から来た私が感染させるリスクの方が問題でした。5月14日現在、感染者は東京5,027人、奈良90人ですので、それぞれ3月20日と比較して約45倍・23倍に増加しています。

どうして奈良に行ったかというと、まず、お彼岸にいくつかの地点から二上山に沈む太陽を撮りたいということは以前からの私の課題であり(過去記事あり「春分の日 二上山に沈む夕日」)、晴れれば行きたい、ということはコロナ拡大より前から考えていました。また、コロナ退散を願って、疫病に関わる奈良の神様にお参りして来ようと思ったこと、それから、奈良公園のシカさんたちが、観光客が激減しておなかを空かせているのではないかと思って、少しでも鹿せんべいをあげて来たいと思ったからです。
シカさんたちがエサを求めていつもと違う場所に出没しているといったネット記事も見ましたが、実際の所は、鹿せんべいはおやつであって、観光客がいなくてもちゃんと食糧は足りているとのことです。最近は外国人の観光客も多かったので、鹿せんべいをたくさんもらいすぎておなかいっぱいだったのか、あげようとしても見向きもしないシカさんも多かったのですが、お彼岸に行った時は、やはり観光客が少なかったので、今までよりもシカさんたちの目の色が違って、鹿せんべいを持っていると見るや多くのシカさんが突進してきて、後ろから頭突きされたり、やや恐かったです。やっぱり、いつもよりはおなかを空かせているのだろうと感じました。飢えているというほどではないにしても。

上の引用文で省略した部分に出てくる墨坂の神(今の墨坂神社)も行ったことがないので、行って、コロナ退散のお願いをして来ようかとも思ったのですが、思うところあってやめました。3月20日には結局、大神神社には行き、コロナ退散を祈ってきました。それにしても、こういった記紀の世界は、日本全国というより、大和の国=奈良限定の話かな、と思って、国内が平和になった、とあっても、大和国が平和になっただけかな?疫病退散も大和限定の効果なのかな・・・と思ったりもしました。が、気にしないことにして、今なら日本全国をカバーしているはずだと思うことにして、そして、私は三輪山や大神神社を訪れるのが好きなので、ごあいさつをしてきました。オオタタネコを祀った若宮社にもごあいさつしてきました。若宮社については以前のブログでも写真と共に話題にしています。
「お彼岸に太陽を追いかける女・・・2015春彼岸奈良弾丸ツアーC」


写真は、昨年の5月の今頃、奈良大通信教育の同窓会の遠足で、山の辺の道を歩き、大神神社で正式参拝した時のもの。すばらしくよい天気・よすぎて夏のような暑さでした。

3月に、コロナが蔓延しつつあった東京の人間が奈良に行くということは軽率でした。当分、奈良には行けないな、ということで、しかし、行けなくても、シカさんたちの食事に少しでも足しになれば、と、「奈良の鹿愛護会」に入会することにしました。
入会金の他、エサ代も一緒に送ることができました。皆さんもいかがですか?
会員特典は、いくつかの美術館、春日大社国宝殿、興福寺国宝館、東大寺大仏殿などへの入場割引がある他、子鹿公開や鹿の角きり行事の入場無料などです。会員証が届きましたが、今年はコロナのために子鹿公開は中止との連絡も入っていました。
今年度の後半くらいにでも、一度は奈良に行きたいものです。年明け頃には、世の中はどうなっているでしょうか?また寒い季節にコロナ第二波が来ているのでしょうか?


写真は、奈良の鹿愛護会の会員証とともに届いたシールです。PCに貼ってみました。何の気兼ねもなく、奈良を訪れ、シカさんともたわむれることができる日が早く来ることを願って、今できること、今しかできないことをやっていきたいと思います。このブログも比較的たくさん更新できているのも今ならではだと思います。
おそまつさまでした。

卑弥呼の実像に思いをはせて

2020-05-09 21:03:50 | 弥生時代
緊急事態宣言が延びてしまいました。6月1日には、次こそは・・・気を抜かないで過ごしましょう。

さて、3年生の日本史Bの教科書(自習)の補足を続けます。
p.21~邪馬台国と卑弥呼についてです。

これは書き尽くせないほどいろいろな論点があります。
実際に授業が始まったらそこで話もしますが、この場では、受験では直接関係ないかもしれない、まだ謎のままで答えがはっきり出せない、皆さんにも考えていただきたいテーマとして、挙げておきたいと思います。

例えばですが。
① 邪馬台国はどこにあったのか。近畿説九州説があります。
② 卑弥呼が魏に遣いを送った239年のことが『日本書紀』『古事記』では記述されていない。
③ 卑弥呼が魏からもらった銅鏡100枚は、三角縁神獣鏡なのか?
④ 卑弥呼の墓はどれなのか?箸墓古墳か、黒塚古墳か、または?
⑤ 纏向遺跡は邪馬台国と関係があるのか?
⑥ 卑弥呼は天皇家の祖先なのか。
⑦ 卑弥呼の死と日食
⑧ 卑弥呼とアマテラスオオミカミ

これらについて、すべて最近の研究成果や私自身の考えなどを網羅してあるわけではないのですが、一応、既存の記事で卑弥呼に関係あるもののリンクを挙げておきます。
丸数字の番号は、上の論点の番号と対応するものという意味合いで入れました。

唐古・鍵遺跡 絵画土器の楼閣はお神輿の原点?(学外授業から) →①

60年ぶり大遷宮 出雲大社 高層神殿の証拠 →③

卑弥呼さんはここにいたのか?―纏向遺跡(学外授業から) →①④⑤

卑弥呼さんの墓なのだろうか?―箸墓古墳(学外授業から) →①④⑤

トヨの墓なのか?―ホケノ山古墳(学外授業から) →①④⑤


纏向出現―邪馬台国東遷説を考える― 纏向学研究センター東京フォーラム その1
→①⑤

邪馬台国東遷はあったのか? 纏向学研究センター東京フォーラム その2 →①⑤

邪馬台国はキビの影響のもとに・・・?纏向出現―邪馬台国東遷説を考える その3
→①⑤

「三角縁神獣鏡は国産」と初めて表明した大塚初重氏の講演!(埼玉県 ほるたま考古学セミナーにて その1) →③

鏡作部の神を祀った神社・・・石見鏡作神社(奈良県・三宅町) →①③⑧

倭迹迹日百襲姫命(=ヒミコ?)を祀る 神御前神社(2015春彼岸奈良弾丸ツアーB)
→①②③④⑤

お彼岸に太陽を追いかける女・・・2015春彼岸奈良弾丸ツアーC →①④⑤

卑弥呼の鏡か?黒塚古墳見学記 →①③④⑧

平成から令和へうつりゆく今思う 天皇の祖先神・アマテラスオオミカミは・・・
→⑥⑦⑧

結構あるんですよ。卑弥呼や邪馬台国に関する記事は。

私自身は、邪馬台国が九州でも近畿(大和=奈良)でもそんなに興味がなかったのですが、考古学的な研究成果が少しずつでも進展してくる中で、私もどんどん興味を持つようになり、教員になったばかりの頃は九州説の肩を持っていましたが、今では大和=奈良かなあ、と思うようになりました。ヤマタイ=ヤマトと音が似ていますしね。
その他、私の考えについては、それぞれの記事を読んでいただければと思います。

一つ新しく書きますと、「天照皇太神」という掛軸をかけているおうちが結構あるのだな、と大人になってから気が付きました。アマテラスオオミカミのことですが、どうして男尊女卑であった日本において、天皇の祖先神は女性で、こうやってその女性の神様が一番偉い神様のように扱われているのかな?と素朴な疑問を持っていました。今の皇室典範では男性しか天皇になれないというのに、祖先神は女性だったというのは?じゃあ女性が天皇でもいいんじゃないの?と思いませんか?男性の方が偉いと思ったら実は女性の方が偉い・強いのか?
職場で話をしていたら、結構年配の先生でも、アマテラスオオミカミは女性だということを知らない先生がいらっしゃいました。偉い神様は男だ、という思い込みがあったりして?
天皇の祖先神は女性であるということの不思議。その女性とは・・・

教科書には、卑弥呼は247年かその直後に亡くなった、と妙に具体的な年号が入っています。しかも、今気が付いたのですが、「死んだ」ではなくて「亡くなった」と妙に丁寧な言い方をしています。他の箇所でも「亡くなった」などという言い方をしている箇所があるのかどうか。にわかに気が付いたことなので、今後確認してみます。
247年には、皆既日食があったことがわかっています。アマテラスの天岩戸隠れは、皆既日食がモチーフになっているといわれます。卑弥呼は皆既日食の年に死んだ、いや亡くなった。日食と関わりがあるということではアマテラスと卑弥呼は共通点があります。アマテラスは太陽神といわれています。アマテラスを祀っている伊勢神宮のご神体は鏡です。卑弥呼が魏からもらったものは鏡です・・・

きりがないので、このくらいにしておきます。
箸墓古墳の中を調べるわけにもいかないので、本当のこと、真実のことは永久にわからないのかもしれません。しかし、自分で空想したり?推理したりするのは自由です。
皆さんも、自由に考えてみてください。



写真は、過去の記事にも使用したもの。唐古・鍵遺跡にある楼閣です。『魏志』倭人伝には楼閣があったという記述があり、この遺跡から楼閣が描かれた土器が出土したことから、邪馬台国の候補地といわれています。ここも興味深い遺跡ですが、最近の研究で、纏向遺跡の方が、邪馬台国の候補として有力になりつつあります。

金印から、東大寺大仏さまリモート参拝まで・・・話題が散らかってますが・・・

2020-05-02 11:48:03 | 弥生時代
緊急事態宣言が延長される見込みとなり、学校で普通に授業ができる日がいつ来るのかも不透明な状況です。とりあえずゴールデンウィーク=ステイホーム週間もここで教科書の補足を続けます。

詳説日本史Bの教科書p.19~<小国の分立>では、日本(倭国)の様子がわかる中国の史書の記述が出てきます。p.21にある『漢書』地理志、『後漢書』東夷伝です。『漢書』地理志は、紀元前後の日本の様子がわかる史料。『後漢書』東夷伝は、まず57年に倭の奴国王が光武帝から金印を授けられるという記事、続いて107年に「生口」つまり奴隷を倭国の王が中国に献じた、という記事があります。

これらの史料は、暗記するくらい、何度も音読しましょう。重要な史料です。
『後漢書』東夷伝に出てくる金印は、現在福岡市博物館にあり、私も一度、東京に来た時に見ました。本当によく残っていたなあと感心します。ここに記されている「漢委奴国王」をなんと読むか、諸説あるようですが、教科書では、「かんのわのなのこくおう」と読むことになっています。
本当に57年に贈られた当時の金印なのか?というニセモノ説もありますが、金の含有量などを調べると、当時の他の金印と同じであるなど、本物であるという説の方が有力であると私も理解しています。
金印については、過去に書いた記事があります。金印の他にも国宝展で見てきた多数の展示物について書いてあります。それを最後まで全部読んでみてください。

金印 東京にお目見え―日本国宝展

博物館も図書館もやっていないというのは、つらい状況ですね。お天気がよいのは気持ちよいです。
明けない夜はない、と信じて、今、自分のやれることをやっていきましょう。普段やれないことにも取り組めます。
私は、毎日やることのルーティン化ができてきました。運動ももちろんです。体重が増えてしまいますし。もうちょっと読書ができるといいのですが。
高校時代は、ほとんど読書はしませんでした。現代文の問題を解く中でいい文章には触れていたと思いますが。天文雑誌と音楽雑誌は結構読んでいたなあとふと思い出しました。
もしかしたら、企業活動がかなり休眠状態ですので、夜は星がよく見えるかもしれませんね。

そういえば、こんなものがあるのを知りました。
公式
【リモート参拝】通常参拝停止中の東大寺から国宝・盧舎那仏像(奈良の大仏)生中継【479時間〜】
東大寺の大仏様を24時間インターネット生中継するというもの。ニコニコ動画でやってくれています。「リモート参拝」ですね!
こちらです。

東大寺のホームページからも行けます。
私もあまり見ていませんが、時々お寺の方?が通るのを見かけました。
毎日正午に、コロナウィルス終息と罹患された方々の早期回復、亡くなられた方の追悼のために読経されているようです。そろそろ正午です。見てみましょうか!?ともに、心を合わせて祈るひとときとしましょうか。
※追記:結構音を大きくすると聞こえます。12:12現在、お経が聞こえますね。

以下、東大寺HPより

東大寺では毎日お昼12時から大仏殿壇上に於て、新型コロナウイルスの早期終息と罹患された方々の早期快復、並びに感染により亡くなられた方々の追福菩提を祈る勤行を4月1日から開始致しました。僧侶が交代で『華厳経』偈文と『如心偈』を唱えます。皆様におかれましても、感染予防には重々ご留意いただくとともに、その時間に気持ちを合せて共にお祈りいただければ幸いです。 華厳宗管長・第223世東大寺別当 狹川普文

他にもリモート参拝いろいろありそうです。
不自由さの中でもさまざまな方法で楽しみましょう。



一度載せた写真ですが、再掲します。大仏殿の窓が開け放たれて、大仏さまのお顔が見えます。通常は、お盆やなら瑠璃絵の期間中だけですが、今般、参拝が不自由なので、最近も見られるようになっていたようです。