日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

義民・佐倉惣五郎の菩提寺へ

2015-01-06 23:14:27 | 江戸時代
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

年末年始の休みも大学通信教育の試験準備などでがんじがらめな状態で、こちらに書く余裕もありませんでしたが、いい加減に更新しないとお正月も終わってしまいますので、とりあえず短く。
ちなみに私の出勤は明日から。

初詣にはこだわりがないので行かないことも(が)多いのですが、例外的に、1年の中で夏でも冬でも思い立った時に、ごあいさつに行く所があります。先日、行って来ました。
一般に「宗吾霊堂」とか「宗吾様」と呼ばれている、成田にある東勝寺です。
最寄駅は、京成本線「宗吾参道」駅です。

このお寺は、桓武天皇の時代に征夷大将軍・坂上田村麻呂が、房総を平定した時に戦没者供養のために建立されたのだそうですからかなり古いです。成田山新勝寺が有名ですが、新勝寺は東勝寺より新しい寺という意味で、この名がつけられているとのことです。

「宗吾霊堂」は、江戸時代の「義民」佐倉(木内)惣五郎=宗吾 を祀っています。佐倉惣五郎は、日本史の教科書にも出てきます。どういう人だったのかというと、おおよそ以下のようにまとめられます。

4代将軍徳川家綱の時代のことです。
 打ち続く凶作と過酷な重税に苦しむ農民たちを救うため、木内惣五郎(佐倉宗吾)ら6人の名主たちが幕府に農民の窮状を訴えました。
 しかし、その訴状は受入れられず、木内惣五郎は、当時禁じられていた将軍への直訴を決行。この直訴により、農民たちを苦しめていた重税が見直され、村々の願いはかなえられましたが、惣五郎は処刑されることに、惣五郎の家族までもがその対象となり、承応2年(1653年)8月3日、幼い子供らまで刑に処せられました。まさに命がけの直訴でした。
 それから100年後、宝暦2年(1752年)、佐倉藩はその失政を悔い、木内惣五郎の名誉を回復し、「宗吾道閑居士」の法号を諡号(しごう)し、以来「宗吾様」と呼ばれるようになりました。
今では江戸時代の義民・佐倉宗吾様が祀られているお寺として、全国の信者が参拝に訪れています。
(成田市観光協会オフィシャルサイト「FEEL成田」から引用させていただきました。)
http://www.nrtk.jp/contents/midokoro/07_sougorei/

福沢諭吉も、日本の歴史の中で、義民と呼べるのは佐倉惣五郎だけだと言っているそうです。

日本史の教科書・受験的には、代表越訴型一揆 → 惣百姓一揆 → 世直し一揆 と、江戸時代の一揆の形態が変わっていく、という所で出てくる名前です。佐倉惣五郎の直訴は代表越訴型一揆ですね。

私は、小さい頃に読んだ漫画日本の歴史で描かれていた佐倉惣五郎に感銘を受けて、大好きなものですから、こういう人にゆかりのある所なら、ということと、ここへ向かう道中がとてものどかで静かなので、時々ごあいさつに行きたくなります。

ということで、突然思い立って行って来ました。

今回は、本堂の建物にかかっている額をなんとなくぱっと撮ってきました。徳川家達さんの筆になるようです。煙の中にユーレイさんとか見えますか?



「宗吾父子の墓」も境内にあります。子供達も殺されちゃったんですよね。

高橋尚子さんもよくこのお寺にお参りにいらっしゃっていたようです。

ふと、ごあいさつに来たくなった時に、これからも来ると思います。

大学通信教育のスクーリングで今週末に奈良に行く予定です。その際、放課後、試験を一つ受けるつもりで、冬休みはその準備をしていました。その試験は自筆ノート持ち込み可なのですが、解答用紙の三分の二を埋めなさいということで、しかも10問分の答えを用意(出るのは1問)しなければならず、膨大な量の解答をまずPCで作り、夕食前に、手書きでノートに写し終わった所です。1万字・原稿用紙で25枚くらい。筆写だけで三日がかり・4時間以上かかったと思います。
何かしら得るものがあるはずだ、と、いつも、どの科目についても、そう信じて、一生懸命やっています。

今年は最終的に36~38単位修得の見込み。今3年生で、来年度卒業するのに、残り22~24単位(うち卒論8単位)修得を目指します。まあこんなもんかなあ。

今週末の試験の準備が終わったと思ったら、さらに1週間後に受ける予定の試験の準備にとりかかります。それらの科目名はというと、言語伝承論とか史料学概論とかです。

今年度は、無事に、いい卒論を完成させたいと思います。これが今年の自分の抱負かな。

その前に、目前に迫ってきた、自分の担任生徒の卒業式。無事卒業できるのが最終的に何人になるのか???冬休みが終わってまたドキドキする日々が始まります・・・

いつも、何事もハッピーエンドを願っています。
今日はこんなところで。

シーボルト『日本』

2014-04-03 00:28:23 | 江戸時代
4月に入って、東京は桜が満開です。
学校はまだ春休みなので生徒の姿はありません。
新生活がスタート、という人も多いでしょうね。張り切っていきましょう。

さて、今日はシーボルトが書いた本『日本』からの話題です。
シーボルトは、1828年のシーボルト事件で有名です。出島のオランダ商館で鳴滝塾を主宰していたドイツ人医師です。
毎年のように、授業でNHK「その時歴史が動いた」のシーボルトのビデオを見せていますが、毎回生徒は感動の嵐です。

シーボルトが日本で結婚した奥さんは日本人で、おタキさんといいます。シーボルトは、アジサイの花に「ヒドランゲア・オタクサ」という学名をつけました。オタクサ=おタキさん、で、奥さんの名前をつけたのですね。

シーボルトは国外退去させられてドイツに戻っても、愛する妻と娘の住む日本を愛し続け、『日本』(Nippon)という大部の本を著しました。日本の地理・歴史・国家制度・経済・文化などについて詳細に記述している、博物誌のような本です。

私も、生徒と一緒にビデオを見る中で、この『日本』という本に興味を持ち、図書館で読んだ上で、その中の1冊を購入しました。おタキさんや通訳を務めた武士の肖像などが載っている図録の巻を、授業で回覧したりしています。

そして、ひょんなきっかけで、この『日本』の中に、ある記述が書いてあるらしいことを知り、どこに書いてあるのか、再び図書館で借りて探していました。全部で6巻まであるうち、4巻目で見つけました。

ある記述というのは、この頃私が興味を持っている、「勾玉」(まがたま)について、シーボルトが言及しているというものです。
ネット上では、勾玉について、シーボルトが
「教養ある日本人が好んで思いを馳せるもの」
と書いている、という紹介をしているサイトがいくつかあり、実際にどういう文脈で出てくるのか、その他の部分も読みたいと思ったのです。
いやー、シーボルトがそう言っているなら、その勾玉に興味を持った私も教養ある日本人ってことかなあ(笑)、とちょっと傲慢なことを思ってしまったのです。すみません。

そして、『日本』の第4巻の冒頭に、その文章はありました。
やはり、ネット上の文章とは少し違っていました。

「教養ある日本人が好んで思いを馳せる古代の遺物のひとつに、古代日本人の宗教である神道の著名ないくつかの社殿にも納められている宝石がある。これはいろいろな形に造られており、神官や古代研究家のもとでは勾玉という名で知られている。」
(シーボルト『日本』第4巻 雄松堂書店 1978年 p.3)

この文章は、「第六編 勾玉」という項目立ての中にあり、第4巻のトップに出てきます。
「考古学――古代日本住民の宝物である勾玉」というタイトルがついています。

このシーボルトの勾玉に関する記述の中には、学術的には正しくない記述も含まれていますが、日本のおびただしい文物の中で、よく、勾玉などにシーボルトが着目し、かなり詳細に調べてまとめられているものだな、と驚きます。しかも、この本は全部で6冊・12編に分かれている中の「第6編」という、かなり大きな位置づけなのです。文章自体は10ページ程度の短いものなのですが。

勾玉は、不思議な形をしています。何をかたどったものかという考え方も諸説あります。
私は、少し前まではこの勾玉に全く興味がありませんでした。前にも書きましたが、古墳時代以前にはそもそもあまり興味がなかったのです。文字が使われるようになった時代以降だけに価値を置いていました。しかし、今では文字のなかった時代についても、解明できることがあるのではないかと考えるようになりました。

このあたりの話は、簡単にして、今は、借りて来て手元にある『日本』という本について、自分の覚書としても、ここに整理しておきたいと思います。今後また、読みたくなることもあるかもしれませんので。何しろ、ものすごい分量の本です。全部買って手元に置いておくほどの余裕もありませんから、図書館から必要に応じて借りる形になるでしょう。
ここでは、何巻にどういう内容のことが書かれているのかというその構成を載せておきます。

シーボルト『日本』全9巻構成

第1巻 第1編 日本の地理とその発見史
     第2編 日本への旅
第2巻 第3編 日本民族と国家
     第4編 1826年の江戸参府紀行(1)
第3巻 第4編 1826年の江戸参府紀行(2)
     第5編 日本の神話と歴史
第4巻 第6編 勾玉
     第7編 日本の度量衡と貨幣
     第8編 日本の宗教
     第9編 茶の栽培と製法
     第10編 日本の貿易と経済
第5巻 第11編 朝鮮
第6巻 第12編 北辺地域と琉球諸島
     シーボルト伝
図録第1巻
図録第2巻
図録第3巻

こういう構成の中での「勾玉」の扱いの大きさが意外です。私はもっと、文章の中に埋もれているのかと思って、1巻から順にぱらぱらと探していました。
ネット上でも、「教養ある日本人が好んで思いを馳せるもの」という文章は見かけるのですが、それぞれがどこかの「コピペ」らしく、原典と少し文章が違うし、その文章の引用元の紹介もないので、自分で探して書いておくことにしました。

しかし、どうして「教養ある日本人が」と言えるのか、具体的にその文章中に書いてあるかというと、よくわかりませんでした。

この『日本』という本は、ペリー来航前の頃の欧米諸国で、多くの人に読まれた日本紹介の書です。本当に詳細に日本のことが書き残されているので、興味を持ったら、図書館などで読んでみてください。

八重の桜と白河だるま

2013-06-22 11:08:40 | 江戸時代

先日16日の大河ドラマ「八重の桜」は、二本松少年隊の悲劇のお話でした。
いやー泣ける演出でした。私の地元の白河だるまも出てきました。

会津は白虎隊が有名ですが、二本松少年隊は、中学生くらいの年齢の少年たちが同じように戊辰戦争で戦いました。

以前のドラマの中で、八重(綾瀬はるか)とだんなさんが、白河でだるまを買い、それを二本松少年隊の、目をあけて銃を撃てない子に、だるまのように目を大きくあけて撃つんだよといってプレゼントした、という話が、16日の物語の伏線になっていたのでした。

二本松少年隊も壊滅し、死にかかった少年のふところから、ぼろぼろになった白河だるまが出てきて、八重に手渡されるのですが、そのだるまには両目が入っていた・・・・
つまりは、だるまには願い事がかなったら両目を入れるわけですが、銃を撃つ時に目をつぶってしまっていた少年が、その後の訓練で、目をあけて撃てるようになった、ということです。しかし、その少年は新政府軍との戦いの末、落命してしまう、という結末でした。

だるまの話は全くのフィクションですが、感動させられました。うまいですねえ。その少年の演技のすばらしさもネットでは話題になっていて、福島県民はもちろんですが、見た人はみんな、心を動かされたと思います。今日、再放送ありますか?

私も思わず、家にあるだるまをあらためて見ました。いつ何のために買ったのか記憶にない、片目だけが入っただるまがあったので、両目を入れました。たぶん、願い事はかなっています。



白河だるまは、江戸時代、寛政の改革を行った松平定信が白河藩主の時に、産業振興の意味合いも込めて、当時の有名な画家、谷文晁にデザインをさせ、旧正月の市で売るようになったものです。白河だるまは、眉が鶴、ひげが亀、両脇の耳ひげが松と梅、あごひげ?が竹を表している、めでたいデザインです。大河ドラマでもご丁寧に説明してくれていました。白河市民ならだいたい知っています。
現在は、毎年2月11日にだるま市が開かれていて、約15万人の人出があるとのこと。確かに、この日は白河が一番寒いけれども一番にぎわう日で、出店の数も延々と連なっていてすごいです。

全国的には高崎だるまの方が有名かもしれませんが、白河だるまは、品の良さでは日本一、と言われています。私も、ハンサムなだるまだと思います。他のだるまは、鼻はのっぺりして描いてあるだけですが、白河のだるまは鼻が高い。

市内には2軒のだるま屋さんがあって、顔にやや違いがあります。私はここに載せた写真のだるまの顔の方のお店のだるまが好きかな。口に特徴があります。

実家では、毎年少しずつサイズの大きいだるまを買っていました。母親は、値切るのがうまかったです。

去年、担任していた生徒のために、合格祈願のだるまを用意してもよかったのに、すっかり失念していました。だめですねえ。
しかし、少なくとも自分のクラスは、ほぼ全員が、自分で納得のいく進路を自分で決めることができたので、ほっとしています。

ハンサムで品がよい白河だるま、2月11日のだるま市のにぎわいを見に来るのもよいかと思いますし、または、今では年中、だるま屋さんで売っていたり絵付け体験ができたりするようですし、新幹線の新白河駅などでも購入できます。合格祈願その他に、いかがでしょうか?
私に、買って来いとお申し付けいただければ、帰省した時に買って来ますよ?

大河ドラマも、まだまだ鶴ヶ城の戦闘場面や、そもそも新島襄もこれから登場ですし、期待して見ていくことにしましょう。

生麦事件の現場を訪ねて

2013-06-09 11:57:02 | 江戸時代
先週、時間をうまく使って、生麦事件の現場を見学してきました。
職場からも近く、また、授業でもちょうど生麦事件にさしかかってきたので・・・
前の学校の周辺にも、教科書の歴史にも関わりが深い史跡がたくさんありました。今度も、調べ始めるといろいろわかってきました。意欲的に調べ、現地を訪ねてみたいと思います。

さて、生麦事件は、1862(文久2)年、神奈川宿に近い生麦村で、文久の改革を行って薩摩に帰る島津久光の大名行列に遭遇したイギリス人が非礼をとがめられ、殺傷された事件です。
この事件が原因で、翌年1863年に薩英戦争が起こっています。

簡単に下調べしただけで出かけたのですが、まず、京浜急行・生麦駅で下車、生麦小学校の方向を目指して歩きました。方向としては品川方面。
大名行列も行き交った旧東海道は、第一京浜と一致している場所と、そうでない場所があり、生麦のあたりは、第一京浜とは別の、あまり交通量の多くない、住宅地の中にある普通の道、という雰囲気です。小学校のグランドからさらに東よりの道に出ると、それが旧東海道。
そして、注意深く道を歩いて行くと、イギリス人が切りつけられたその現場に説明板が掲示されているのが見つかりました。住所は、生麦3-16付近。駅から10分もあればたどり着けます。



ここで外国人4人、うち女性1人が大名行列通過の際に下馬しなかったために切りつけられたという説明が書いてあります。
道は、こんな感じです。150年前、ここを大名行列が通過し、ここで事件が起きたのか、と、その騒擾を思い浮かべてみたりして。



さらに、ここからイギリス人一行は傷を負いながらも神奈川宿(今の横浜)方面へ馬で逃げるわけですが、そのうちの一人、リチャードソンが絶命した場所に石碑が立っています。
ただし、この石碑は、横浜環状北線建設工事のために、現在は、実際の場所からもっと川崎寄りに移設されています。平成22年8月から平成28年末までここにあって、後で戻されるようです。
発生現場から10分くらい旧東海道を歩くと到達します。



石碑には、スマイルズの『西国立志編』を訳した中村正直の詩(撰文)が刻まれていました。明治16年(1883)に建てられていますから、事件から20年以上経っています。
石碑は、「文久二年」という文字からはじまり、それらの文字はクッキリとして読みとることができます。
内容は、死亡したイギリス人リチャードソンにささげる詩の形になっています。説明板に活字でその内容が記されています。



その中の一文、

「万国に史(ふひと)有り君が名を伝う」

とあります。世界中に歴史家(歴史の記録者)がいて君の名前を伝えるだろう、と。
私も、こうしてここに書くことで伝えたよ、という気分です。

発生現場から石碑までのちょうど道半ばあたりに、キリンビールの工場の入り口があります。無料で1杯は飲ませてくれるらしいですが。そして、石碑の近くに、キリンビールのレストラン、キリン横浜ビアビレッジの入り口がありました。工場見学もできる施設らしいです。私はこういう施設があるのをこれまで知りませんでした。今度改めて来てみようかな。ビールはせいぜい1杯くらいしか飲めませんが。



ちなみに、どうしてこの地域を「生麦」というのかですが、江戸時代、2代将軍秀忠の行列が、この地域を通りかかった時に、道に水がたまっていて、通行できなかったそうです。そこで、村の人たちが、街道の脇の生麦を刈り取って道に敷いて、通れるようにしたとのこと。秀忠は感謝として、この一帯に生麦という地名を与え、村人に漁業を営むに関して特別な権利を与えた、と書いてあるのを見かけました。いずれにせよ麦畑があったようですね。
キリンビールの工場も麦にひっかけてここに建てたのでしょうか?

ペリー来航のゆかりの地 浦賀・久里浜を訪ねて

2013-05-12 21:57:14 | 江戸時代
本当にいい季節です。ベランダのバラも満開です。
今日は、前回も予告した、ペリー来航の浦賀、久里浜を見てきた話です。レンズだけじゃなくてだんなも一緒に行きました(笑)。
職場を異動して、毎日「浦賀」「久里浜」行きの電車を見ながら(乗って)通勤しているので、日本史の教員としては、一度ペリー来航の浦賀に行かねば!と思ったわけです。他にも、「生麦」も気になる・・・そのうち、大森貝塚も行きましょう。

浦賀駅は京急線の終点です。少し歩くと、浦賀ドックが見えてきます。ここは、2003年に閉鎖されるまで、1世紀以上にわたって約1000隻の艦船を建造してきた場所です。昔のクレーンが残されたままになっているのをフェンス越しに見ることができました。戦中の1943年に作られたものだそうです。



ここで、青函連絡船や大型タンカーなどが作られました。咸臨丸も浦賀から出航したそうで、航海の無事を願って、勝海舟が断食をした場所もあるそうですが、そこまでは行きませんでした。
熊本や徳島からの船が停泊していました。



浦賀は、入り江の奥深くまで船が入り込める構造をしていて、江戸時代には浦賀奉行が置かれ、江戸湾に入る船のチェックをしていました。

ペリーは、浦賀には上陸しませんでしたが、この浦賀沖にまずやってきたわけですね。1853年(嘉永6年)6月3日のことでした。今から160年前ですね~。その雰囲気を感じてきました。今はのどかな港町です。かすかに潮の香りがしました。

家を出た時間も早くはなかったので、あまり浦賀をくまなく歩く余裕はなく、途中の道でバスに乗り、ペリーが上陸した久里浜を目指しました。
ペリー記念館のある浜までは、歩いても行けます。



ここは、波打ち際まで行くことができる砂浜があります。久しぶりに波と戯れました。

ペリーは浦賀に現れて6日後の6月9日にこの久里浜に上陸、浦賀奉行に大統領の親書を手渡し、開国の要求をしたとのことです。

ペリー上陸記念碑。伊藤博文が書いたんだそうです。



ペリー記念館。小さいですけどまあ、ペリーの娘あての手紙などがありました。





帰りに「くりはま花の国」に寄って来ました。あまりに広いので、途中のハーブガーデンくらいまでしか行きませんでしたが。そこの小高い場所から撮った、東京電力の横須賀火力発電所。



原発が停止しているので、この休止していた火力発電所を再稼働させたというのですが、そんなに大きくないし、なんかぼろっちい感じがしました。大丈夫なのかな???と思ってしまいました。
原発もいけませんが、代替エネルギーも難しいですね。原発のないドイツを見習うと、どうなるんでしょうか。私も、今年度は時間に余裕があるので、そういう方面についても考えてみたいと思います。

今回撮った写真は、全部、新しく購入したCANONの28mm f1.8で撮りました。ボディは、EOS60Dです。去年の金環日食のために準備して以来、一眼レフを使っています。