日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

「前方後円墳終焉の意味するもの」(講演)

2015-01-24 22:47:13 | イベント
今週末は好きなことに時間が使える自由が確保でき、2週間前の大学スクーリングで刺激を受けたこともあり、今日は、とある遺跡の現地説明会に足を運びました。明日も一つ行きたかった遺跡に行って来ようかと思いましたが、飛ばしすぎて風邪でも引いたらなんだし、自重しようかなとも思っています。

今日は、まだ昨年の話題をアップします。12月に参加した講演会、白石太一郎先生の「前方後円墳終焉の意味するもの」についてです。

ちょうど、1月15日に明日香村の小山田遺跡で飛鳥時代の最大級の古墳(方墳)が発見されたというニュースも大きく取り上げられたところです。「最大」という言葉が紛らわしくて、話が大きくなっている感じもあるのですが、仁徳天皇陵(大仙陵古墳)より大きい古墳が発見されたわけではないですから・・・「飛鳥時代」の中で、ということですよね。
以前、千葉県の龍角寺古墳群について書きました。
ここにある岩屋古墳も方墳で、同じく7世紀のもので、一辺は78m。それに対して今回の小山田遺跡の方墳は50m弱くらい。千葉の岩屋古墳の方が大きいようなのですが・・・飛鳥地域で一番大きいということですかね。

まあとにかく、この「方墳」という墳形についても、この講演会のお話の中で出て来ますので、この後で紹介します。

12月10日の講演会は、「奈良歴史地理の会関東支部」が主催していて、年に何回か、「さいたま市民会館うらわ」を会場として行われているようです。「奈良歴史地理の会」は、奈良大学の同窓会的な組織らしいです。以前、ここにも紹介しましたように、白石太一郎先生(現在は近つ飛鳥博物館館長、かつて奈良大学教授)のお話がナマで聴ける(資料代1000円)という貴重な機会なので、行ってみたというわけです。

参加者はどのくらいなのかなと思いながら会場に着くと、400~500人くらいはいたのでは?やはり、ほとんどが年配の方々でした。しかし、平日の昼間によくこれだけの人が集まるなあと感心しました。こういう講座のニーズって、結構あるんですね。

私がこうしてここにアップするのも、聴きっぱなしだといただいた資料もどこか行ってしまったり、聴いてきたことも忘れてしまうから、自分の覚え用としての意味合いが大きいのです。

白石先生は、ご著書は何冊か読ませていただいていましたが、初めてナマで拝見しました。落ち着いた語り口でした。

すでに、1ヵ月以上が経過して、忘れているところも多いので、メモから思い出せる所中心になってしまいます。

前方後円墳は、ご存知のように、初期の最大のものとしては卑弥呼の墓か?といわれている奈良の箸墓古墳があります。
箸墓古墳は3世紀前半?といわれ、かなり早いですが、高校の日本史教科書的には、古墳時代の古墳の特徴は、一般的に、前期(4世紀)、中期(5世紀)、後期(6~7世紀)と大きく三つに区分されます。中期で前方後円墳も巨大化し、後期には小規模の群集墳が増えていき、前方後円墳も作られなくなっていきます。
(以上は私の解説です)
この前方後円墳が作られなくなったこと=前方後円墳終焉、の意味を、白石先生が語ってくださったというわけです。

以下は、白石先生のお言葉を中心に書かせていただきます。

前方後円墳はなくなっても、古墳は作られている時期を「終末期」といいます。

畿内の終末期大型方墳としては、桜井市赤阪天王山古墳があります。明日香村石舞台古墳も方墳です。白石先生によると、方墳は、蘇我系の大王の墓であると考えられているとのことです。太子町山田高塚古墳は現在の推古陵、太子町春日向山古墳は現在の用明陵、としてレジュメに図版があります。(※そして最近のニュースによると、明日香村で発見された小山田遺跡の方墳は、舒明天皇の初葬地ではないかと言われていますね。どの天皇も蘇我氏と確かに関係が深いですね。)

一方で、畿内の終末期大型円墳をみると、白石先生のお話によると、円墳は、非蘇我系・反蘇我系が作った墓だとのことです。「連系」の人達の墓が多いとのこと。例えば、天理市杣之内古墳群は物部氏と関係が深い。天理市峰塚古墳の例もレジュメにありました。

今度は東国に目を向けると、前方後円墳終焉の時期の代表的なものとして、群馬県前橋市の総社古墳群があります。その中で、総社二子山古墳は、6世紀末の最後の前方後円墳です。この古墳群の中の、総社愛宕山古墳、宝塔山古墳などは方墳です。ここ上毛野(群馬県 上野)は、6世紀の後期大型前方後円墳が多数分布しており、有力豪族が割拠していた様子がうかがわれます。
現在の前橋市にある総社古墳群では、7世紀になっても古墳が作られ、のちに国府ができます。

千葉県で有名なのは上にも書いたとおり龍角寺古墳群です。大きな方墳、岩屋古墳があります。
この古墳の被葬者は誰かということについて、従来は印旛(印波)郡の郡司(国造?)、丈部(はせつかべ)氏の墓とも考えられてきましたが、ここはかつては印旛郡ではなく、埴生郡(先生が「はにゅう郡」とおっしゃったようで私もひらがなでそうメモを取りましたが、埴生と書いて「はぶ」と読むらしく、昔、この古墳のある地域は下埴生郡と言ったようです。)であると先生はおっしゃいました。

そして、まず、印旛郡司が丈部直(あたい)であったことの根拠として、二つの史料を挙げました。
天平十年(738)の『駿河国正税帳』の
「下総国印旛郡采女丈部直広成」
という記事。この采女は郡司の娘であると。

そしてもう一つは、
『続日本紀』天応元年(781)正月条
「下総国印旛郡大領正六位上丈部直牛養」
という記事。

さらに、もう一つの史料を挙げ、
平城京左京二条大路北側溝出土木簡に
「左兵衛下総国埴生郡大生直野上養布十段」
とあり、これは「おおみぶべのあたい」を指し、大君家直属の直(あたい)だったそうです。

以上のことを踏まえて、岩屋古墳は、従来、丈部氏の墓と思われていたが、大壬生部直(おおみぶべのあたい)の墓と思われる、とのことでした。

栃木県の例として、壬生町壬生車塚古墳や壬生町桃花原古墳といった円墳がレジュメに載っています。

最後に、前方後円墳終焉が意味するものは、ということで、先生が語っておられたことをメモにもとづいてだいたいまとめますと以下のようになります。

近畿の前方後円墳の停止は、3世紀以降の首長連合(ヤマト政権)からの決別である。(←古くさい)
中国の情勢をみると、隋が3世紀ぶりに統一国家を建設した(589年)。
これに対抗して強い中央集権国家をつくるために、古い前方後円墳体制と決別した。

関東では7世紀初頭に前方後円墳が終了し、国造などの豪族だけが方墳を造るようになった。
前方後円墳の終了は、関東では国造制の成立に対応する。
大方墳などの被葬者は国造の勢力である。

古墳時代と飛鳥時代の線を引くのは推古朝。
戦後、文献批判によって『日本書紀』の推古朝の事蹟が疑わしい(大化改新も)という説が唱えられた。『日本書紀』がすべて正しいわけではないが、大きな道筋はそのとおりであったと考えるべきではないか。
考古学な研究成果は戦後の文献史学の変更を迫っている。

おおよそ以上です。
私は文献史学をやっていましたし、壬申の乱以降の天武・持統朝に比べ、大化改新や天智朝の事蹟については私自身も確かに否定的ですので、最後の結論は、ちょっと耳が痛かったです。推古朝については何とも思っていませんでしたが。

確かに推古朝に、前方後円墳体制の画期(終焉)があると思われます。そういう見方は、さすがに考古学的視点ですね。前方後円墳が古くさいからというのもあるのかもしれませんが、仏教が伝来し、浸透していく過程で、埋葬方法も変化して行ったのだろうと思います。持統天皇の頃から火葬が行われるようになったということですから、その頃になればさらにそうですね。

会場までの道の途中に、おもむきのある立派なお寺がありました。玉蔵院(ぎょくぞういん)といい、平安時代に創建された、真言宗豊山派のお寺です。歩きながらさっと撮ったのですが、後でネットで調べると、写真の左手に見えるのが、樹齢100年以上のしだれ桜のようです。桜の季節に訪れたいものですね。



この浦和会場の講座は、今後、3~4月に寺崎保広先生(奈良大)、5月8日に東野治之先生(奈良大)、6~7月に坂井秀弥先生(奈良大)の講演が予定されているようです。

それでは今日はこのへんで。

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震災で石垣が崩壊 白河小峰城の今

2015-01-18 21:41:36 | 日記
昨日今日はセンター試験でしたが、私の定時制高校では今年は誰も受験しないので、別世界の出来事のようです。教員になって初めての気分です。過去のセンター試験に関する記事へのアクセスがちょっと増えていたようですが、今年については予想も分析もできずすみません。これで二日目も終了、お疲れさまでした。

さて、私は、先週の3連休は大学通信教育のスクーリングで奈良に行っており、今日も、科目修得試験を受けに行くなど、年明けから自分の勉強で全く余裕がありませんでしたが、世の受験生と一緒に、試験を終えて、今やっと、解放感に浸っているところです。
このブログも少し書いていかないと、いろいろたまっております。

今日は、お正月に実家に帰った時の画像を中心に紹介します。
実家は、福島県白河市です。福島県の南端、栃木県那須町と県境をはさんで接しています。福島県は、先の震災以来、地震速報などでもおなじみになったかと思いますが、原発のある海沿いの地域を浜通り、新幹線が走っている県の中央部を中通り、そして西側の地域を会津地方といいます。白河は中通りです。
白河は、東日本大震災での被害は、浜通りや、中通りでも北部の福島市などに比べれば深刻なものではありませんでした。
しかし、震災後、原発からの距離が遠いわりに、放射線量がやや高めに出ました。中通りの福島市、郡山市、そして白河市と、北の方から風に乗って流れてきたようです。

白河において、震災の被害で衝撃的だったのは、お城の石垣が崩壊したことです。寛政の改革も行った松平定信も治めていた白河藩11万石のお城・小峰城は、日本百名城にも数えられている、石垣の美しい城跡です。
その、白河市のシンボルともいえるお城の石垣が、震災によって、見るも無残に崩壊したのです。
あまりにひどいので、二度と元のようには復旧できないのではないかと呆然としたものです。
白河の被害の中では、このお城の光景が、私にとって一番のショックでした。



これは2011年4月の画像。

復旧工事をするとはいうものの、3年経っても進展している様子がなかったのですが、このお正月に見たら、ちょっと進んだかな・・・?という雰囲気が。



石垣の石の色がところどころ白っぽくなっていて、新しい石を入れて復元したのでしょうか。そして、「クモの巣貼り」と言ったか、ちょっと違う言い方が正しいのかもしれませんが、クモの巣のように同心円状に美しく石を積んだ、このお城の特徴的な場所も、写真で見るとちゃんと復元されているようで、ああ、よく復元したなあ・・・と、しみじみ見入りました。



↑クモの巣状の石積みの部分がわかりますか?











まだまだの所もありますね。
しかし、全体として、復旧に向けて少しずつでも前に進んでいるようです。

ところで「ふるさと納税」を私もやってみました。まずは地元からということで。白河市は「ふるさとしらかわガンバレ寄附金」というらしいです。寄付の目的を選べるので、「小峰城復元支援事業」のために、という目的で寄付しました

このふるさと納税制度でその地域の特産品がもらえるというので、その特典をめあてに特定の自治体に寄付が集中しているようですね。日本には寄付文化があまりないということで、その定着のために一役買っているようですが、あまり特典という見返りを求めすぎてはいけませんよね。

白河の場合は、地元のお米とか、白河だるまのストラップとか、南湖のそばにある翠楽苑の招待券とか、でした。ありがたくいただきました。市長さんの直筆署名入りお手紙も入っていました。

まずは地元に、ということで、次は、奈良県桜井市に・・・と考えています。イベントで振込用紙をもらったというのもありますし、何しろ、あの箸墓古墳、纏向遺跡をはじめとして、多くの遺跡がある桜井市には、発掘事業をどんどん進めていただきたいですから、そのささやかな支援になればと・・・三輪そうめんもいただけるみたいですから(笑)

今日はこのへんで。

義民・佐倉惣五郎の菩提寺へ

2015-01-06 23:14:27 | 江戸時代
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

年末年始の休みも大学通信教育の試験準備などでがんじがらめな状態で、こちらに書く余裕もありませんでしたが、いい加減に更新しないとお正月も終わってしまいますので、とりあえず短く。
ちなみに私の出勤は明日から。

初詣にはこだわりがないので行かないことも(が)多いのですが、例外的に、1年の中で夏でも冬でも思い立った時に、ごあいさつに行く所があります。先日、行って来ました。
一般に「宗吾霊堂」とか「宗吾様」と呼ばれている、成田にある東勝寺です。
最寄駅は、京成本線「宗吾参道」駅です。

このお寺は、桓武天皇の時代に征夷大将軍・坂上田村麻呂が、房総を平定した時に戦没者供養のために建立されたのだそうですからかなり古いです。成田山新勝寺が有名ですが、新勝寺は東勝寺より新しい寺という意味で、この名がつけられているとのことです。

「宗吾霊堂」は、江戸時代の「義民」佐倉(木内)惣五郎=宗吾 を祀っています。佐倉惣五郎は、日本史の教科書にも出てきます。どういう人だったのかというと、おおよそ以下のようにまとめられます。

4代将軍徳川家綱の時代のことです。
 打ち続く凶作と過酷な重税に苦しむ農民たちを救うため、木内惣五郎(佐倉宗吾)ら6人の名主たちが幕府に農民の窮状を訴えました。
 しかし、その訴状は受入れられず、木内惣五郎は、当時禁じられていた将軍への直訴を決行。この直訴により、農民たちを苦しめていた重税が見直され、村々の願いはかなえられましたが、惣五郎は処刑されることに、惣五郎の家族までもがその対象となり、承応2年(1653年)8月3日、幼い子供らまで刑に処せられました。まさに命がけの直訴でした。
 それから100年後、宝暦2年(1752年)、佐倉藩はその失政を悔い、木内惣五郎の名誉を回復し、「宗吾道閑居士」の法号を諡号(しごう)し、以来「宗吾様」と呼ばれるようになりました。
今では江戸時代の義民・佐倉宗吾様が祀られているお寺として、全国の信者が参拝に訪れています。
(成田市観光協会オフィシャルサイト「FEEL成田」から引用させていただきました。)
http://www.nrtk.jp/contents/midokoro/07_sougorei/

福沢諭吉も、日本の歴史の中で、義民と呼べるのは佐倉惣五郎だけだと言っているそうです。

日本史の教科書・受験的には、代表越訴型一揆 → 惣百姓一揆 → 世直し一揆 と、江戸時代の一揆の形態が変わっていく、という所で出てくる名前です。佐倉惣五郎の直訴は代表越訴型一揆ですね。

私は、小さい頃に読んだ漫画日本の歴史で描かれていた佐倉惣五郎に感銘を受けて、大好きなものですから、こういう人にゆかりのある所なら、ということと、ここへ向かう道中がとてものどかで静かなので、時々ごあいさつに行きたくなります。

ということで、突然思い立って行って来ました。

今回は、本堂の建物にかかっている額をなんとなくぱっと撮ってきました。徳川家達さんの筆になるようです。煙の中にユーレイさんとか見えますか?



「宗吾父子の墓」も境内にあります。子供達も殺されちゃったんですよね。

高橋尚子さんもよくこのお寺にお参りにいらっしゃっていたようです。

ふと、ごあいさつに来たくなった時に、これからも来ると思います。

大学通信教育のスクーリングで今週末に奈良に行く予定です。その際、放課後、試験を一つ受けるつもりで、冬休みはその準備をしていました。その試験は自筆ノート持ち込み可なのですが、解答用紙の三分の二を埋めなさいということで、しかも10問分の答えを用意(出るのは1問)しなければならず、膨大な量の解答をまずPCで作り、夕食前に、手書きでノートに写し終わった所です。1万字・原稿用紙で25枚くらい。筆写だけで三日がかり・4時間以上かかったと思います。
何かしら得るものがあるはずだ、と、いつも、どの科目についても、そう信じて、一生懸命やっています。

今年は最終的に36~38単位修得の見込み。今3年生で、来年度卒業するのに、残り22~24単位(うち卒論8単位)修得を目指します。まあこんなもんかなあ。

今週末の試験の準備が終わったと思ったら、さらに1週間後に受ける予定の試験の準備にとりかかります。それらの科目名はというと、言語伝承論とか史料学概論とかです。

今年度は、無事に、いい卒論を完成させたいと思います。これが今年の自分の抱負かな。

その前に、目前に迫ってきた、自分の担任生徒の卒業式。無事卒業できるのが最終的に何人になるのか???冬休みが終わってまたドキドキする日々が始まります・・・

いつも、何事もハッピーエンドを願っています。
今日はこんなところで。