日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

「日本」という国号はいつから?

2012-01-03 03:26:47 | 飛鳥時代
卑弥呼が魏に使いを送っていた頃は、日本は「倭」と呼ばれていました。これは蔑称です。いつから「日本」と呼ばれるようになったかについては、山川の教科書では、大宝律令制定(701年)の注に、
「『日本』が国号として正式に用いられるようになったのはこのころのことである。」(p.35)
とあります。
「天皇」という称号は、天武天皇の時代に使われるようになったと教科書には書いてあります。(p.33)
私の大学での専門は、古代史、特に飛鳥・奈良時代。恩師が律令制度史の第一人者であったので、私も卒論のテーマはその分野で書きました。
特に、天武・持統天皇の頃の時代を、日本の古代国家形成の重要な画期と私は考えています。大化の改新よりも、大宝律令制定の時よりも、前後の変化は大きいと思っています。いろいろなことがはじまった時代です。

もう昨年になってしまいましたが、2011年10月23日の朝日新聞に、
「『日本』の名称最古の例か」
という記事が掲載されました。中国西安で発見された墓誌(個人の事績を刻んで墓に収めた石板)に「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表されたとのこと。
墓誌は678年の作と考えられるとのこと。
以下、記事より。

「日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼることになる。
 中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。
 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。 」

http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html

これまで、「日本」と記された実物史料としては2004年に西安で発見された遣唐使・井真成の墓誌(734年)が最も古いとされてきました。図説『新詳日本史』(浜島書店)のp.63に、その墓誌の写真があります。今回の論文によれば、それよりもずっとさかのぼることになります。

記事中の鈴木靖民・国学院大教授の話には
「今回の発見で、670年代に日本と呼ばれていたことは確認できたといえる。」
「高句麗や百済が滅亡するなど東アジアの政治状況が激変する中、『倭国』に代えて『日本』と名乗りはじめたことになる。大宝律令は後にそれを明文化したと考えることができるだろう。」
とあります。

670年代、といえば、日本では、672年に壬申の乱が起きて、大海人皇子が勝利、天武天皇になりました。天皇という称号を使い始めた天武天皇。他にも、天武・持統天皇の時代には、富本銭という日本初の銭貨も鋳造されていますし、暦も正式に使用を宣言しています。
今回の論文によって、「日本」という国号を使い始めたのも、天武天皇の頃から、ということが言えそうです。天武・持統天皇の時代を重視する私としては、今回の新聞記事は、そうだろうね、とうなずけるものでした。

このように、日本という国の、いろいろなことのはじまりは、天武天皇の時代から、ということがますます言えそうだ、というお話でした。もっと、教科書ではこのあたりを強調して、ページを割いて記述してもらいたいと、ずっと考えています。