日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

日本のインテリにきらわれた空海?

2013-02-21 04:03:10 | 平安時代
ちょっとブランクができてしまいましたがお元気でしたか?この間、合格発表が連日あって、連絡が来なければ、落ちたのか?と心配になり、合格した、と連絡があれば、本当にうれしくなって私も元気になり・・・という、一喜一憂の日々でした。こういう日々は、まだ続きます。これから試験に挑む人もいます。
補習に熱心に参加していた生徒も、しっかり志望大学の合格を勝ち取ったことを知り、うれしいです。例えば、英語が苦手なので国語と日本史で勝負し、それで高倍率の競争をくぐり抜けて第一志望に合格した人も。
ここまでまだ思うような結果が出ていない人も、まだリベンジの機会は残されています。最後まであきらめないで努力を続けてください。努力は必ず報われます。

さて、自分のクラスの学級だよりでも、空海の言葉について少し取り上げ、注目したところだったのですが、ここにも書いておきたくなりました。

空海は、真言宗の開祖で、日本史では弘仁・貞観文化で最澄とともに出てきます。お習字も上手で、三筆の一人ですし、庶民のための私的な教育施設「綜芸種智院」も作ったり、嵯峨天皇から教王護国寺(東寺)をもらったりと教科書的にみてもさまざまな事績が挙げられます。弘法大師ともいい、「弘法も筆の誤り」ということわざもあります。
空海は、魔法使い・スーパーマンと言ってもいい人です。魔法対決に勝ったりもしています。
いろいろと興味深い人なのですが、意外と、空海自身の著作物や、関連書籍が世間一般にあまり出回っていないのが不思議です。簡単に読める本を探したのですが、なかなかありません。
例えばこういう本が手元にありますが。梅原猛『空海の思想について』(講談社学術文庫)
これを改めて読んでいたのですが、一部紹介します。本文ではなく、簡潔にまとまっている解説の部分から。

「<日本のインテリにきらわれた空海>(章のタイトル)では、俗に『大師は弘法にとられ』といわれるように、空海は宗派を越えて一般庶民大衆の信仰と尊崇の的であったことを著者は指摘する。しかも加持祈祷の本領において空海は霊威をもった超自然的な絶対者として仰がれてきたのである。少なくとも江戸時代までは空海は聖徳太子とともに庶民にとっては霊威の人物であり、救済主であった。
近代人は霊威の存在、万能の天才に懐疑の目をむける。近代人は個別的な天才をたたえる。
このようなわけで、親鸞・道元・日蓮は近代の知識人の好むところであったが、空海は全く疎外されていた、と著者はいう。事実、今日でも知識人のなかには体質的に空海を嫌悪するひともいるようである。」(p.121)

確かに、日蓮は日蓮宗や創価学会などの組織でその教えを広め、信仰する人々の存在感がありますし、道元は、「只管打坐」の言葉が有名で、永平寺をはじめとして座禅修行がポピュラーになっています。親鸞も、悪人正機説によって有名ですし、倉田百三が『出家とその弟子』という本を書きベストセラーになったりしています。

空海も、弘法大師という呼び名で親しまれてはいます。近いところでは西新井大師、川崎大師など人々の信仰を集めていますが、空海その人自身について、知識人が取り上げ、高く評価するという扱いはあまりされてこなかったかもしれません。魔法使いという部分も信じられないのかもしれませんし、あまりに天才すぎて、すべてを把握できないのかもしれません。
そもそも、岩波文庫に空海関連の本がないようです。岩波文庫が悪いというわけではないのですが・・・

安藤昌益による「万人直耕」の思想

2013-02-07 05:29:40 | 江戸時代
みんな、元気で受験に挑んでいるのかな?吉報はまだか?と、皆さんの姿が見えない、動きがない、今日この頃、待つ身はつらい・・・と思っているところです。きっと、これから合格発表が佳境に入って、続々と吉報がやってくることを期待しています。

今朝は雪が降って大学によっては試験開始時間を遅らせたりいろいろあったようです。まだこれから本命の試験の人が多いでしょう。平日の電車のラッシュは激しいですし、予定通りの時間で運行できないことが多いですから、本当に、早めに余裕を持って家を出発してください。

さて、今日もZ会『テーマ史』の「豆ちしき」から、江戸時代の思想家、安藤昌益についての文章を使わせていただきます。

「安藤昌益の名が知られるようになったのは、1899(明治32)年にその著『自然真営道』101巻93冊が発見されてからである。関東大震災でその大部分を焼失したが、その後『統道真伝』が発見され、戦後にE.H.ノーマンが『忘れられた思想家』で紹介したことから注目されるようになった。昌益は強固な身分制社会の江戸時代にあって、すべての支配階級を「不耕貪食」の存在として否定し、いっさいの学問や宗教は搾取を合理化するためのものであるとして排撃した。その理想とする社会は万人直耕の自然世、すなわち働く農民だけの平等な世界であった。それは、皇国史観が中心の戦前にあっても、そのまま公表することが憚られる大胆な反封建・反権力思想であった。昌益の詳しい人物像は不明だが、陸奥の八戸で町医者を開業し、その学問は医学・本草学の他に儒・仏・神の三教にも及んだという。また、長崎に遊学し、海外事情にも明るかったといわれる。」

確かに、江戸時代の学問や宗教は搾取を合理化するものであるという指摘は当たっている所もありますね。朱子学も、身分社会を維持していくのに好都合な学問でした。
『自然真営道』は93冊もあったのか、と驚きます。『統道真伝』もどちらも、史料問題として出ることがありますので、史料問題集などでこの有名な文章にあたっておいてほしいと思います。

「万人直耕」は、大事な考え方ですね。働かないで搾取するばかりの人がいてはいけないし、現代でも、農業は大切にしていかなければならないし、土と親しむ仕事は、大変な面もありますけれども、サラリーマンとして満員電車に揺られて9to5でデスクワークをするより、人間的で、心が安らぐ仕事かもしれません。

江戸時代の思想家の名前と業績を覚えるのは大変ですが、覚えておけば、差のつく所ですので、がんばって覚えてください。覚えにくいのは確かで、そういうものは、とにかくしつこくしつこく繰り返し覚える。覚え方を少しでも知りたい、という人は、私に聞いてください。

では、引き続き健闘を祈っています。


鎌倉―京都の旅人

2013-02-02 04:42:58 | 鎌倉時代
今日(昨日)から、学校があるのに3年生の姿だけが見えなくなって、なんだかさびしく感じていました。今日も皆さんは勉強に励み、また多くの人が受験の日でもあったでしょう。

さて、私も皆さんを応援する気持ちを込めて、できるだけ更新したいと思っているのですが、今日もZ会の『テーマ史』の「豆ちしき」から。

「鎌倉時代、京都と鎌倉を結ぶ東海道の交通量は多く、幕府や朝廷の使者、番役勤仕(ごんじ)の御家人、訴訟人らが往来した。当時の東海道を旅した紀行文としては、『海道記』(作者不詳)、『東関紀行』(源親行か?)、『十六夜日記』(阿仏尼)があげられる。それらによると、当時の一般旅行者は15日前後で京都・鎌倉間を歩き、鎌倉幕府の飛脚は7日、至急の場合で5日程度を要したようである。幕府は、宿駅や橋などの整備・管理を守護・地頭の務めとした。宿駅は河原に作られることが多く、宿長者(しゅくのちょうじゃ)に統轄されていた。そこは市が開かれたり、遊女や傀儡(くぐつ)と呼ばれた芸能民なども大勢いて、賑わう場でもあった。」

『十六夜』は「いざよい」と読むこと、作者は阿仏尼、このくらいはわかりますね?さらに、その内容はというと、お母さんが息子の所領問題の訴訟のために京都から鎌倉に向かう紀行文です。
私自身も読んだことはないのですが、大体そういう内容ということは知っておいた方がいいでしょう。

宿駅は河原に作られることが多く、芸能民も多かったということですが、「」という言葉もこういうところからきているのでしょう。「」とは河原乞食ともいいます。実際に乞食のこともいいますが、芝居関係者や大道芸人などもこう呼ばれたようです。

では、日々、健康に気をつけてがんばれ!