先日、東京藝術大学で開催されている興福寺仏頭展にやっと行ってきました。もう、明日24日で終了してしまいます。私は午後からの勤務形態なので、午前中の時間を使って見てきました。
東京芸大の美術館へは行ったことがなかったのですが、意外と大きかったです。
興福寺仏頭だけではなく、一緒に興福寺からやってきた国宝たちも展示されていました。
板彫りの十二神将と、木造の十二神将が勢ぞろいしていました。寺外でそろって展示されるのは初めてだそうです。
平日でもお客さんはたくさん。年配の人が中心でしたが、奈良の正倉院展の時よりは、若い人も多かったです(まだこちらには書いていませんでしたが、先日奈良に行ってきました)。
まず、国宝の板彫十二神将像を見ました。興福寺東金堂の薬師如来の台座を飾っていたようです。11世紀前半の作とのこと。厚さ3cmのヒノキの板に彫ってあります。ライティングの加減がとてもよくて、たった3cmの厚みなのに、そこに彫られている神将たちがとてもいきいきとして見え、奥行きさえ感じました。さすが国宝です。
地下3階から地上3階の展示室に移動すると、いよいよ興福寺仏頭との出会いです。かなり広い展示室があって、ああ奥に、仏頭が見えてしまった。後でゆっくり見よう、と、その周囲を守るように展示された木造の十二神将を一つ一つ見ていきました。13世紀に慶派の人々によって彫られた十二神将。今までにも何度か見たことはあったはずです。今回十二人を一挙に見て、体の一部に金箔が残っているのに気付きました。昔は金色に輝いていたのでしょうか。
そしてとうとう奥に鎮座していた興福寺仏頭の前へ。白鳳時代の作品で、私が大好きな仏像ベスト3の一つです。もう何度か見ていますが、今回はかなり久しぶり。
仏頭は、にこやかであたたかなオーラを発していました。周囲を圧倒するような存在感や崇高な雰囲気がはっきりとあって、お客さんたちも、もっと近くに寄れるのに、なんだかそばに近づくのを遠慮しているような感じも。
今まで興福寺などで見た時には、仏頭は低い位置に置かれていたように思いますが、今回は、ちょっと高めの台の上に展示してあり、見上げるような角度でした。
さすが東京芸大、ということなのか、ここも照明のかげんがよく、仏頭の表情がとてもよく見えました。
仏頭の前は、さっきも書いたとおり、お客さんも雰囲気に圧倒されて遠慮しているのか、極端に人が群がるということもなく、私は近くでじっくり、正面からも右からも左からも、また後ろからも、じっくり見ることができました。心の中で仏頭に話しかけたりもしました。
頬の肉づきが本当の人間のような質感を感じさせられました。そこは今回あらたに実感しました。若い人のほっぺたですね。
私が死んでこの世を去っても、この仏頭はずっと遠い未来まで、大切に保存されて残って行くのだなあ、たくさんの人々に見てもらって、感化を与え、すばらしいことだなあ、と考えたりもしました。
以前の記事でも紹介したように、山川の日本史Bの教科書では、7世紀後半から8世紀初頭の白鳳文化について、
「天武・持統天皇の時代を中心とする、律令国家が形成される時期の生気ある若々しい文化」
と記述されており、この興福寺仏頭についても、
「彫刻では興福寺仏頭などがおおらかな表情を伝え」
と記述されています。
同じ時代の文化財としては、高松塚古墳の飛鳥美人壁画や法隆寺金堂壁画や薬師寺東塔などがあり、どれも私は好きです。この時代の空気が好きなのです。
この仏頭は、数奇な運命をたどっています。
蘇我倉山田石川麻呂を供養するために造られ、天武14年(685)に開眼供養が行われました。当初は山田寺にあったのですが、興福寺の堂衆が文治3年(1187)に当時山田寺を所管していた仁和寺に無断でこの像を運び出してきて東金堂に安置しました。
応永18年(1411)に落雷で発生した火災のために、この像は頭部を残して焼失してしまいました。
その後行方不明となり、500年以上が経過した昭和12年(1937)10月に、東金堂の修理作業中に本尊の台座の中の木箱からこの仏頭が発見されたのだそうです。
頭部も損傷しているのは落雷の火災時のものだそうですが、顔の部分だけきれいに残ったのは奇跡的であり幸運でした。ミロのヴィーナスに腕がない方がかえって美を感じられるように、この仏頭も、胴体や頭部が完全に残っていなくてよかったと思います。頭部に「らほつ」があったかもしれないということですが、私としては(見られ)なくてよかった。
真正面を向いてにこやかに、おおらかにたたずんでいる仏頭から、ちょっとずつ離れながらおいとましました。何が起きても大丈夫、というような、安心を与えるような表情をしています。やっぱり見事な像です。
図録からこの仏頭の表現に関する記述を抜き出します。
「仏塔は、鼻筋から眉にかけての描線が非常にきれいで、全体の形は丸々として張り詰めた球体のようであり、青年のような若々しさが感じられる。古代的な品格のあるおおらかな表情である。」
「視線は遠方のかなたに向けられており、遠い理想をめざすような強い意志が感じられる。前述のように眼は上下の瞼がはっきりとした線でくくられているため、その表現には明瞭で理性的な一種近寄りがたい崇高さがある。白鳳彫刻でこれほど眼が強調される像は珍しい。」
「ここに追求されたのは、すがすがしい青年の姿を理想とする仏像の表現である。永遠を目指す眼差しと、衆生を包み込むようなおおらかさを同時にもっている。全体的に中国の隋から初唐彫刻の影響がみられるものの、それを日本的に十分に咀嚼し独自の新しい形につくりあげている。」
ホーソーンの「いわおの顔」の物語を、小学校の国語の授業でやったのですが、この話は、ある村の岩が崇高な人の顔に見え、いつかその顔そっくりの偉人が現れる、というお話でした。いつもその顔を眺めていると、それによって感化されていくということでした。『ホーソーン短編集』(岩波文庫)に「大いなる岩の顔」として収められている話です。
同じように、私もこの興福寺仏頭をいつも眺めて、感化を受けたいものだ・・・と、今回あらためて思い、絵はがきも買ってきました。どこかに飾っておきましょうかね。
奈良の興福寺に行けば、見られるものですが、今回の東京芸大の展示は、ライティングがとてもよく、崇高さやあたたかみが伝わるよい展示でした。
もう、明日しか東京では見られません。今頃のアップになって申し訳ありませんでした。
多分明日は猛烈に混むんでしょうね。平日でも結構なものでしたから。
またいつか、この仏頭に会いに行きたいと思います。
東京芸大の美術館へは行ったことがなかったのですが、意外と大きかったです。
興福寺仏頭だけではなく、一緒に興福寺からやってきた国宝たちも展示されていました。
板彫りの十二神将と、木造の十二神将が勢ぞろいしていました。寺外でそろって展示されるのは初めてだそうです。
平日でもお客さんはたくさん。年配の人が中心でしたが、奈良の正倉院展の時よりは、若い人も多かったです(まだこちらには書いていませんでしたが、先日奈良に行ってきました)。
まず、国宝の板彫十二神将像を見ました。興福寺東金堂の薬師如来の台座を飾っていたようです。11世紀前半の作とのこと。厚さ3cmのヒノキの板に彫ってあります。ライティングの加減がとてもよくて、たった3cmの厚みなのに、そこに彫られている神将たちがとてもいきいきとして見え、奥行きさえ感じました。さすが国宝です。
地下3階から地上3階の展示室に移動すると、いよいよ興福寺仏頭との出会いです。かなり広い展示室があって、ああ奥に、仏頭が見えてしまった。後でゆっくり見よう、と、その周囲を守るように展示された木造の十二神将を一つ一つ見ていきました。13世紀に慶派の人々によって彫られた十二神将。今までにも何度か見たことはあったはずです。今回十二人を一挙に見て、体の一部に金箔が残っているのに気付きました。昔は金色に輝いていたのでしょうか。
そしてとうとう奥に鎮座していた興福寺仏頭の前へ。白鳳時代の作品で、私が大好きな仏像ベスト3の一つです。もう何度か見ていますが、今回はかなり久しぶり。
仏頭は、にこやかであたたかなオーラを発していました。周囲を圧倒するような存在感や崇高な雰囲気がはっきりとあって、お客さんたちも、もっと近くに寄れるのに、なんだかそばに近づくのを遠慮しているような感じも。
今まで興福寺などで見た時には、仏頭は低い位置に置かれていたように思いますが、今回は、ちょっと高めの台の上に展示してあり、見上げるような角度でした。
さすが東京芸大、ということなのか、ここも照明のかげんがよく、仏頭の表情がとてもよく見えました。
仏頭の前は、さっきも書いたとおり、お客さんも雰囲気に圧倒されて遠慮しているのか、極端に人が群がるということもなく、私は近くでじっくり、正面からも右からも左からも、また後ろからも、じっくり見ることができました。心の中で仏頭に話しかけたりもしました。
頬の肉づきが本当の人間のような質感を感じさせられました。そこは今回あらたに実感しました。若い人のほっぺたですね。
私が死んでこの世を去っても、この仏頭はずっと遠い未来まで、大切に保存されて残って行くのだなあ、たくさんの人々に見てもらって、感化を与え、すばらしいことだなあ、と考えたりもしました。
以前の記事でも紹介したように、山川の日本史Bの教科書では、7世紀後半から8世紀初頭の白鳳文化について、
「天武・持統天皇の時代を中心とする、律令国家が形成される時期の生気ある若々しい文化」
と記述されており、この興福寺仏頭についても、
「彫刻では興福寺仏頭などがおおらかな表情を伝え」
と記述されています。
同じ時代の文化財としては、高松塚古墳の飛鳥美人壁画や法隆寺金堂壁画や薬師寺東塔などがあり、どれも私は好きです。この時代の空気が好きなのです。
この仏頭は、数奇な運命をたどっています。
蘇我倉山田石川麻呂を供養するために造られ、天武14年(685)に開眼供養が行われました。当初は山田寺にあったのですが、興福寺の堂衆が文治3年(1187)に当時山田寺を所管していた仁和寺に無断でこの像を運び出してきて東金堂に安置しました。
応永18年(1411)に落雷で発生した火災のために、この像は頭部を残して焼失してしまいました。
その後行方不明となり、500年以上が経過した昭和12年(1937)10月に、東金堂の修理作業中に本尊の台座の中の木箱からこの仏頭が発見されたのだそうです。
頭部も損傷しているのは落雷の火災時のものだそうですが、顔の部分だけきれいに残ったのは奇跡的であり幸運でした。ミロのヴィーナスに腕がない方がかえって美を感じられるように、この仏頭も、胴体や頭部が完全に残っていなくてよかったと思います。頭部に「らほつ」があったかもしれないということですが、私としては(見られ)なくてよかった。
真正面を向いてにこやかに、おおらかにたたずんでいる仏頭から、ちょっとずつ離れながらおいとましました。何が起きても大丈夫、というような、安心を与えるような表情をしています。やっぱり見事な像です。
図録からこの仏頭の表現に関する記述を抜き出します。
「仏塔は、鼻筋から眉にかけての描線が非常にきれいで、全体の形は丸々として張り詰めた球体のようであり、青年のような若々しさが感じられる。古代的な品格のあるおおらかな表情である。」
「視線は遠方のかなたに向けられており、遠い理想をめざすような強い意志が感じられる。前述のように眼は上下の瞼がはっきりとした線でくくられているため、その表現には明瞭で理性的な一種近寄りがたい崇高さがある。白鳳彫刻でこれほど眼が強調される像は珍しい。」
「ここに追求されたのは、すがすがしい青年の姿を理想とする仏像の表現である。永遠を目指す眼差しと、衆生を包み込むようなおおらかさを同時にもっている。全体的に中国の隋から初唐彫刻の影響がみられるものの、それを日本的に十分に咀嚼し独自の新しい形につくりあげている。」
ホーソーンの「いわおの顔」の物語を、小学校の国語の授業でやったのですが、この話は、ある村の岩が崇高な人の顔に見え、いつかその顔そっくりの偉人が現れる、というお話でした。いつもその顔を眺めていると、それによって感化されていくということでした。『ホーソーン短編集』(岩波文庫)に「大いなる岩の顔」として収められている話です。
同じように、私もこの興福寺仏頭をいつも眺めて、感化を受けたいものだ・・・と、今回あらためて思い、絵はがきも買ってきました。どこかに飾っておきましょうかね。
奈良の興福寺に行けば、見られるものですが、今回の東京芸大の展示は、ライティングがとてもよく、崇高さやあたたかみが伝わるよい展示でした。
もう、明日しか東京では見られません。今頃のアップになって申し訳ありませんでした。
多分明日は猛烈に混むんでしょうね。平日でも結構なものでしたから。
またいつか、この仏頭に会いに行きたいと思います。