flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

美濃 流し仁輪加

2008-04-15 23:30:47 | 民俗・伝承
(美濃まつり にわか 岐阜県美濃市 国選択無形民俗文化財)
 花みこし が終わり、町並みの喫茶店で一息つくことにした。やがて、通りからお囃子の音が聞こえ始めた。松の木に赤丸提灯を付けた仁輪加車を押し、お囃子をしながら十五の組が十五の町内を廻る。そして、各町内の辻において、仁輪加が始まるのである。
       
 美濃流し仁輪加は、江戸時代後期に始まった庶民芸能をルーツとし、その年の世相や時事、風刺として演じる即興劇である。
 美濃流し仁輪加を始めるときには口上があり、最後に落とし(オチ)を入れ、演者全員が「エッキョー」と掛け声をかけて締めくくる。そして、現代ではあまり使われなくなった、純粋な「美濃ことば」を聞くことができる。今年のお題には、北京オリンピック、冷凍ぎょうざ、温暖化問題、まちの財政問題や過疎化、合併に関するお題もあった。
   
  仁輪加には老若男女が参加し、コンクールも開かれるが、若人が一人前になるための通過儀礼的な要素があり、町内の結束と個人の度量、学習を高める役割も持っている。故に、笑いが起こる中にも、審査する耳と目がそこかしこで光っている。然し近年は、個人主義の波が押し寄せ始め、伝統の強い美濃町から去る者の数に対し、転入する者は少なく、過疎化が進んでいる。

 昼間は花みこし渡御のためしまわれていた提灯が現れ、町並みをより美しく引き立てていた。美濃の夜はまだ長いが、私は列車の時刻があるため早々に後にした。
  

(関連記事:哀愁のrailway 上有知宿 牧谷街道 長良川上有知湊 美濃橋 美濃小倉山城 美濃町平成十九年 美濃町線 港町岩陰遺跡
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安座真海岸

2008-04-15 00:00:17 | 海道・みなと
(沖縄県南城市知念字安座真)
 知念岬から再びバス停に戻り、バスに乗車しようとすると、「那覇方面には行きませんよ」と…私は方向を勘違いしていた。半島を一周するバスは無く、いわゆる「東御廻り=あがりうまーい」だと、途中の知念「志喜屋」で乗り換えとなるのだ。反対方向は出たばかりで、また時間ができてしまったので、今度は海岸に向かった。
 晴天なら美しいであろう青い海は、泳ぐには寒い気候であったが、一部にマリンスポーツ、そして海水浴をする家族が見られた。この場所からは、かつて行われていた通過儀礼イザイホーと、琉球開闢神アマミキヨの降り立った地として知られる、久高島への航路が結ばれている。
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明智 長山城

2008-04-14 00:00:07 | 城郭・城下町
(岐阜県可児市瀬田 市指定史跡)
 康永元年(1342)明智(土岐)頼兼が、標高175mの長山に築城したのが始まりである。ここでは、稲葉山城主斎藤道三の正室となり、後に織田信長の正室、濃姫を産んだ、「小見の方」が生まれている。
 斎藤道三の子ではなく、土岐頼芸の子ともいわれる斎藤義龍が、弘治二年(1556)道三と長良川で戦った際、明智氏は、道三に正室を嫁がせた関係上、道三側に味方し、そのため義龍は明智城を攻撃するに至った。城主明智光安は、一族870余人を集めて籠城したが、落城が間近となったため、光秀に光安の子光春と甥の光忠を託し、城を脱出させたと、元禄時代に書かれた『明智軍記』等に記されている。

 城郭南側は、標高が比較的高いにも関わらず、この辺りの急速な人口増加から「広眺ヶ丘団地・羽生ヶ丘団地」が造成され、北側の山林と対照的な姿となっている。その団地を見下ろす場所に、落城の際の武士達が眠る「七ッ塚」がある。
   (次郭跡)
(主郭跡付近)
 
(搦手郭跡)

 通称「桔梗坂」を下りると、大手口となる。
城の前には、築城の際創建(或いは再興)されたという天台宗太元山東栄寺があり、隣接して明智氏を祀る浄土真宗光蓮寺、曹洞宗天龍寺、そして鎮守の太元神社がある。天龍寺には、明智氏一族の墓と、184cmの高さのある光秀の位牌があるが、駐車場の傍らに集められた明智氏の墓は、少々場違いではないかと感じた。
「桔梗坂」
   (大手口跡)
(天龍寺)
(明智氏一族墓碑)
(明智光秀位牌)  (太元神社)

 光蓮寺西側の搦手口、「梅洞」と呼ばれる谷から改めて上る。
「搦手の支砦」と呼ばれる丘陵には、昭和48年(1973)にこの場所で発見された「六親眷属幽魂塔」と刻まれた碑が祀られている。この碑は、落城の際に討死した一族を供養するために、建てられたものという。
       

 搦手の支砦から主陵と分断された堀切を下り、水の手と呼ばれる谷を下りると、散策道を整備する光景がみられた。ウッドチップを敷いた足元は、程よいクッションとなり、足への負担も小さく感じた。更に稲荷洞の谷を下り、麓の居館跡の集落を抜け、広見東、伏見方面へと向かった。
   

 この後は、瀬田地区から化石株のある平貝戸地区に向かった。
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花みこし

2008-04-13 13:00:34 | 民俗・伝承

(美濃まつり 岐阜県美濃市 市指定無形文化財)
 「上有知:こうずち」へは、半年振りに訪れる。今回は当日になって訪れることを決めた。それは最近、前もって予定を立ててしまうと、天候やタイミングに恵まれないことが多いからであった。
 今回は家を出るのが少々遅く、9時過ぎであった。そして日中の列車本数の少ない時間にかかり、美濃市へは午後1時半の到着となったが、先日の沖縄の方が所要時間が少ないくらいであった。
 駅を下りると、遠くから掛け声が聞こえ始めた。そして視界に「花みこし」が入り、動く花みこしを初めて目にした。
 「花みこし」は、上有知八幡神社祭礼行事の一つである。江戸時代に起きた旱魃(かんばつ)の際に、雨乞いの飾り付けを特産の和紙で行ったのが始まりという。
     
(広岡町付近)

  (相生町付近)

 

 
 (泉町付近)

  

 (終りの近づく、花みこし)

(八幡神社)     (片付けの始まった花みこし)

(関連記事:哀愁のrailway 上有知宿 牧谷街道 長良川上有知湊 美濃橋 美濃小倉山城 美濃町平成十九年 美濃町線 流し仁輪加 港町岩陰遺跡
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知念岬

2008-04-13 00:00:53 | 海道・みなと

(沖縄県南城市知念字久手堅)
 斎場御嶽からバス停に戻る。まだ時間があったので、太平洋に面する知念岬へ向かうことにした。当初、予定には入れていた場所ではあったが、やや御嶽で時間を要してしまったようだ。
 体育館の向こうに、一段低くなっている岬が見えた。そこには灯台があるというわけではなく、海を望める公園になっていた。
(斎場御嶽御門口から)
(久高島を望む)

  次第に雲が厚くなり、見渡せる範囲が狭まっているように感じたが、安座真海岸の向こうに、久高島を辛うじて望むことができた。

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水都大垣 平成二十年

2008-04-12 00:00:29 | 水のほとり
(岐阜県大垣市)
 ほぼ毎年訪れる、西濃地域の中心地である大垣。市街地近くには大河はないが、豊富な湧水によって水門川の水を潤し、江戸時代は大垣城の外堀としても利用され、水運も発達した。
 今回も、西大垣から八幡神社及び「大垣の湧水」、大垣城清水口門跡を経て、新たに整備された「名水大手いこ井の泉」を漫ろ歩いた。
(水門川 八幡大橋下流)  
(清水橋下流 大垣市役所付近)
 
(名水大手いこ井の泉)

(関連記事:水都大垣昭和五十七年 美濃路大垣宿
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斎場御嶽

2008-04-11 00:00:35 | かみのやしろ

(せーふぁうたき 君ガ嶽 主ガ嶽ノイビ 沖縄県南城市知念字久手堅 世界文化遺産 国指定史跡 県指定名勝)
 那覇から南城市知念半島に差し掛かった。
旧知念村のこの付近は、元来は海洋観光の地であり、イザイホーで知られる久高島を除き、信仰の場は直接の観光対象ではなかった。また、私もそう理解していた。然し、今回訪れると、観光一色となっており、入場料を徴収する観光施設の一つとなっていた。
 本土では、斎場は葬儀場のことであり、神道では儀式の場を意味するが、沖縄では「せーふぁ:最高位」を意味する。また、御嶽は、本土では「おんたけ、みたけ」と呼び、山岳信仰を意味するが、沖縄では「うたき:聖地」を意味する。つまり、最高位の聖地を意味するのである。
 御嶽の入口を御門口(うじょーぐち)といい、かつては男子禁制であった。また、斎場御嶽では、王族関係者以外は、御門口より奥に入ることができなかったという。そして、国王でも女装して御嶽入りしたのだという。
(御門口)
 石畳の坂を上ると、岩陰に最初の拝所(うがんじゅ)の大庫理(うふぐーい)がある。この場所は、聞得大君(きこえおおぎみ:最高位神女)の御新下り(おあらおり:就任の儀)の儀式が行われた場所であった。そして、その奥には昭和20年(1945)沖縄戦の着弾によってできた丸い池があり、更に奥、先程の大庫理の裏手に当たる場所には、寄満(ゆいんち=台所)と呼ばれる拝所がある。
(大庫理)
(着弾跡の丸池)
    (寄満)
 
 一旦戻り、海側の方に向かうと、三庫理(さんぐーい)と呼ばれる拝所がある。手前には二つの鍾乳石が下がり、「あまゆだる」と「しきよだゆる」といい、「あまがぬぴー:天からの霊水」をそれぞれ下に置かれた壺が受け止める。この水は、聞得大君の御水撫で(うびなでぃー)の儀式に使われ、また、壺に溜まる水の量で、その年の豊凶を占ったという。現在は陶器の壺が置かれているが、往時は「黄金の壺」が置かれていたという。
 (座敷檀)
(あまだゆる、しきよだゆる)
 壺の向こうには座敷檀があり、更にその向こうには、自然が造り上げた洞門があって、くぐり抜けると拝所となっている。右側は「ちょうのはな」といい、岩の壁を通して天を拝み、左側は、「あまみきよ:琉球開闢神」上陸地とされる、久高島の遥拝所となっている。また、この拝所に水が溜まらないよう、当時の排水設備が残されている。
   
(中央溝は、排水設備)

(遥拝所)(久高島)
 訪れたこのときも、住民の方々が拝所にて参拝をされていたが、その最中、本土観光客が何気に遥拝所の階段を上ったり、供物の置いてある台に上がったりと、果たして世界遺産とな何か、観光とは何かと考えさせられる場面があった。然し、それとは反対に、神々しくて洞門をくぐれない人もいるのだという。私がこの洞門をくぐったときは、それまで曇天であった空に、広い青空が現れた。然し、御嶽を後にする頃には、再び雲に覆われ始めていったのである。
 (ちょうのはな 礼拝) 

(関連記事:知念岬 安座間海岸 安座間城 安座間港 久高島へ ピザ浜 久高の御霊 久高西海岸 屋久留川 クボー御嶽 カベールへ続く道 カベール岬 シマーシ貝塚 アゲ御嶽 伊敷浜 橋川

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養老 高田

2008-04-10 00:00:35 | 街道・宿場町
(九里半街道 牧田街道 岐阜県養老郡養老町)
 この日は「たき道」を歩き、江戸時代は中山道関ヶ原宿から養老郡牧田村(大垣市上石津町)を経て、東海道桑名宿へ至る伊勢東街道が通過していた竜泉寺集落を東に進む。そして、田園広がる平地を暫く歩くと、高田の町並みへと入っていく。
 高田は、隣接する濃州三湊(烏江湊、栗笠湊、船附湊:共に養老町)と呼ばれた、揖斐川支流牧田川の湊町としても栄えた町であり、伊勢東街道牧田、中山道今須宿を経て、米原及び北国街道長浜宿へ通じる九里半街道の終点であった。また、楽市楽座(近世の自由取引市場)の方策が布かれたことにより、商業も発展した。現在も、養老町の中心地となっている。
(高田祭が行われる、愛宕神社)
  
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沖縄へ

2008-04-09 00:00:11 | 漂い紀行

 約半年前の北の大地に続き、今回は南の島へ向かった。
私は通常、予定をあまり立てず、突然各地を訪れているが、予約を要する外出の際は天候に恵まれないことが多い。今日もそれまで晴天であった現地も、到着する頃から下り坂となった。そして、日程中は次第に雨に見舞われた。また逆に、沖縄を離れる日には、次第に晴天になっていったようだった。
 
 今回も大方の学習と予定はあったものの、細かな予定は立てていなかった。また、公共交通しか利用しない私にとって、現地に到着してから天候と利便性を合わせて判断する必要があった。
 午後1時過ぎ、少し遅れての到着。天候は曇天ながら、一部に薄日が差していた。その方向は東、南城市方面であった。
 今回の日程中は、好天は望めなかった。そこで、天候下り坂中ながら、その中で強いて天気が良いこの日の午後を、琉球王朝時代の信仰の場「斎場御嶽」を訪れる日とし、ライトアップされる琉球王城「首里城」を夕方から夜間、石垣等、跡形しか残らない「中城城跡」を、翌日の雨天時に向かうことに急遽決めた。それは撮影のためというわけではなく、その地の発するイメージを受け易くするためであった。
 沖縄都市交通「ゆいレール」を経由して、バスターミナルより路線バスである、東陽バス志喜屋線に乗った。現在の沖縄は、旅客鉄道網が無く、また、地形に平地が殆ど無いため、現在私が住む愛知以上に自動車社会が進行している。
  
 那覇市から与那原町(よなばる)、南風原町(はえばる)を経て、中城湾(なかぐすく)岸沿いを進むと、「ノッチ」と呼ばれるキノコ状に浸食した岩礁が時々見えた。そして間もなくすると、知念半島南城市旧知念村へ差し掛かっていった。

(関連記事:首里城 園比屋武御嶽石門 首里城平成二十五年 沖縄の古民家 那覇を後に 那覇の夜 崇元寺石門 真珠道 玉陵 金城の石畳 金城のアカギ 内金城御嶽 金城大樋川 旭橋 久茂地 識名園 ゆいレール 那覇バスターミナル 泊埠頭 久米 那覇埠頭 国場川と奥武山

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桜トンネル

2008-04-08 00:00:23 | ふるさとの木々
(愛知県豊川市諏訪)
 佐奈川の桜並木から、陸上自衛隊駐屯地前の佐奈川放水路(穂ノ原排水路の一部、現在は暗渠化)を経て、この桜トンネルまで桜並木が繋がっている。
 昭和14年(1939)豊川海軍工廠設置の際、正門前の通りから、現在の市役所及び市民プールまで、ソメイヨシノとヤエザクラが植えられたのが始まりである。
 近年、図書館の移転や青少年センターの解体撤去等により、光景は少しずつ変化しているが、この日も例年と変わりない花見客と、猿まわしの催しが行われていた。
      
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たき道

2008-04-07 00:00:03 | 街道・宿場町
(岐阜県養老郡養老町)
 菊水泉から東海自然歩道みゆき道を通り、北東へ向かう。道の脇には、養老の滝からの丁石が一丁(約109m)毎に置かれている。
 
 唐谷を渡り、元正天皇行幸遺跡である行宮神社を過ぎると、旅館の裏手辺りの養老白石の集落に差し掛かる。そして、道はここで突き当たりとなる。山手側は草木深く、道とはいえないようなものであり、下手側は、水が豊富に流れる溝の脇を、バラストを敷いた小道が続いていた。ここで私は、水の流れる小道を進んだのだが、これが当初考えていた道程とは、違ってくるのであった。
(突き当たり地点の建物)
  
 柏尾沢を越えると、柏尾の集落となる。予定では、この辺りで柏尾廃寺や、千体仏が現れる筈なのだが、それらしい対象が見当たらなかった。また、誰にも出会わず、確認のしようもなかった。「たき道」の道標を確認しながら、更に北東に進んだ。
 
 石畑集落の大桑神社に差し掛かり、更にその裏手から道を進む。勢至谷を越えると、勢至集落となる。ここには、「勢至鉄座之址」と刻まれた碑と共に、地蔵堂が建っていた。勢至鉄座とは、養老の滝の下流である、木曽川水系津屋川の水運を利用した製鉄所の跡であり、室町時代から江戸時代にかけて栄えたといわれている。
  
 勢至の集落を過ぎ、勢至北谷、行平谷を過ぎると竜泉寺集落に入り、県指定天然記念物のムクの木のある、六所神社辿り付いた。その横には、「健康ウォーキング起点」と書かれたボードが立っていた。このとき私は、自然歩道から外れていたことに気づいた。近くにある、総合体育館を訪ね、そこでお尋ねしたところ、自然歩道は私が歩いてきた道よりも上を通っていたということであった。つまり、途中の突き当たり地点から、草木の中を進むということのようである。そしてその現状通り、最近は草取り等整備は行なわれてはおらず、分かり難くなっているのかもしれないということであった。地図を見ても道程の詳細は出ておらず、現地(突き当たり地点)にも標識等は無く、全くもって縁の無い道程であった。然しながら、「たき道」という隠れた歴史の存在を感じる道に出会えて、それはそれでよかったと感じた。
   (伊勢東街道が通っていた上方集落)
 この後は、養老高田のまちへ向かった。
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佐奈川の春 平成二十年

2008-04-06 00:00:36 | ふるさとの木々

(愛知県豊川市)
 私の住む家のすぐ近くを流れる帯川の下流が、この佐奈川だ。
佐奈川は、前項でも触れたように水が地下に浸透してしまうため、旧工廠付近では、浸透後唯一合流していた小さな川「土々川」の水だけが、日常流れる水量であった。
 豊川海軍工廠設置の際に川幅、流路及び堤防が整備され、戦後になって、それまで松原用水という低地を流れる農業用水に注いでいた帯川の流れを、この佐奈川に付け替えて、治水と佐奈川の水量維持が図られた。そして、堤防上に桜が植えられた。
(帯川合流であい橋付近)
(日本車両引込線鉄橋下流)
(開運橋上流)
(四ッ谷橋下流)



 この時期は、菜の花の黄色と桜の桃色が、約4kmにわたってコントラストを描いている。また、佐奈川から市中心部諏訪地区「桜トンネル」にかけて、桜並木が広がっている。

(関連記事:2007年2月の佐奈川 2008年3月の佐奈川 佐奈川の春2009

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菊水泉

2008-04-05 00:00:31 | 水のほとり
(掬水泉 岐阜県養老郡養老町 名水百選47番)
 養老の滝近くには、菊理媛神(ククリヒメノカミ:白山比神)を祀る養老神社が鎮座する。その社殿の下からは、泉が湧き出ている。
 奈良時代、水がお酒になったという「養老孝子」によってこの地を行幸した、第四十四代元正天皇(日本根子高瑞浄足姫天皇・ヤマトネコタマミズキヨタラシヒメノスメラミコト・第四十五代聖武天皇の伯母)は、「醴泉(れいせん:酒)は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め養老元年と成すべし」という詔(みことのり)を出し、「養老」に改元したとされるのは、養老の滝ではなく、この菊水泉だという言い伝えもある。元正天皇は、滞在中この泉の水で沐浴し、この地に住む孝子、順孫、義父、節婦に褒美を授け、税を免除したのだという。
  
 この後は、元正天皇行幸遺跡(行宮神社)を通り、北へ向かった。
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長篠 天神山陣地

2008-04-04 00:00:37 | 城郭・城下町

(愛知県新城市長篠字碁石)
 医王寺山の南、大通寺山の西に位置する天神山は、天正三年(1575)長篠の戦いの際に、一条信龍、土屋昌次、真田信綱、昌輝兄弟ら兵二千人が陣を構えたところである。この戦いによって昌次、信綱、昌輝は戦死した。
 陣地跡に建つ、長篠荏柄天神社は、下総国木野崎城(千葉県野田市)の一色氏が、一色氏発祥に程近いこの地に移り、旧領地に勧請した荏柄天神社をこの地に移したのだという。また、現在の社殿は元禄十一年(1698)に建てられたものであり、市指定文化財となっている。更に、参道石段百二十三段の内、八十八段は木野崎から運んだものといい、鰐口(金鼓)は「下総国河辺庄大福田郷荏柄山天福寺天神宮御宝前、天文九庚子五月三日、作者太田右衛門二郎宣定」の銘がある。
 社伝には、一色数馬直興が元禄十一年に天神社を移した。と伝わっているが、直興は室町時代の人物であり、また、数馬は、天正十八年(1590)木野崎城落城の際、自害している。長篠の戦いの際、既に天神山と呼ばれていることから、鰐口の年代の頃には、既にこの地に移されていたとみるのが妥当ではないだろうか。
   

(関連記事:長篠城跡試掘調査 野牛郭 鳶ヶ巣山 姥ヶ懐 中山 君ヶ伏床 久間山 舟津

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養老の滝

2008-04-03 00:00:45 | 水のほとり
(木曽川水系滝谷 岐阜県養老郡養老町 日本の滝百選46番 名水百選47番)
 2004年11月に養老には訪れているが、先回は時間が無く、滝には訪れていなかった。今回は、聖武天皇行幸遺跡を通り、滝谷を渡って先ず、谷沿いの養老寺を参拝した。
  
 養老寺は、水がお酒になったという「養老孝子伝説」の、孝子源丞内が開いたといい、その後、法相宗の一大修業地となったが、永禄年間(1558-69)織田信長の兵火で焼失した。そして、慶長十二年(1607)美濃高須藩徳永寿昌によって再興され、浄土真宗となって今に至る。境内には、源丞内の墓所がある。
  (源丞内墓所)
 養老寺から滝谷沿いに上がって、標高約290mの養老の滝に辿り着く。落差は約30mあり、下流の滝谷の水量を上回るような水量に感じ取れた。
 奈良時代、この地を行幸した、第四十四代元正天皇(日本根子高瑞浄足姫天皇・ヤマトネコタマミズキヨタラシヒメノスメラミコト・第四十五代聖武天皇の伯母)は、「醴泉(れいせん:酒)は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め養老元年と成すべし」という詔(みことのり)を出し、「養老」に改元したとされる地である。
 あえて複数掲載するが、それぞれ違った趣があった。
       
 この後は、養老の滝と同じ故事伝説のある、菊水泉に向かった。

(関連記事:養老 たき道 養老高田
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