工房八重の部屋

京都の紹介、日々の出来事や思いを綴ってます

アスニー山科講座  維新の女性たち~新島八重と大山捨松~

2013年02月09日 | Weblog
アスニー山科講座 6日(水)

635回 維新の女性たち~新島八重と大山捨松~

講師 中国・歴史系フリーライター 川合 章子 さん

今、大河ドラマの「八重の桜」が人気で、この幕末維新を生き抜いてきた勇気ある

女性達が注目されています。

今回の講演は八重さんのことはドラマで解るので、八重さんが初めに結婚した夫の

川崎尚之助や、八重をめぐる人達に焦点をあてた講演でした。

ユーモアある語り口の講演に魅せられました!

川崎尚之助は、八重の兄・山本覚馬に招かれて会津藩校日新館で西洋学の教授を務めて

いた人物です。

戊辰戦争の鶴ケ城籠城(ろうじょう)戦後は藩の人たちの飢えをしのぐために

奔走した様子などが明らかになってきて、戦いに敗れた会津藩士達は、

現在の青森県東部にあった斗南藩に移住したが、斗南藩は米の収穫量が少なく、

寒さと飢えから生活は困窮し、川崎尚之助は、藩のための食料をめぐったトラブルで、

米の取引を巡って訴えられ、責任をかぶった川崎尚之助は、

1875年3月訴訟継続中に慢性肺炎となり、東京の病院で死亡したとのことです。

多くの藩士が鶴ヶ城開城の際に離婚しました。

その後多くの妻たちが自由の身になり、裕福な商家などと再婚できています。

離婚は汚名を着せられ、将来の夢が消え去った会津男子の妻に対する思いやりで

あり、愛だったのではないか、と言われています。

八重は、離婚歴を隠そうとしたことなど1度もなく、尚之助との結婚を失敗とは思って

おらず、誇りと感謝をもって生きてきたからだと思われています。

以上の資料は、講師の話や、インターネットを検索して分かりました。

大山捨松は、大山巌と結婚した人物ですが、会津藩の家老の娘で、養女に行き

11歳から11年間アメリカに留学した人です。

兄2人は東大総長、衆議院に後になりました。八重の兄の覚馬も政府の要人と

なりましたが、疑問だったのが、戊辰戦争で会津藩が負けたのですが、旧会津藩

であった人物達が、なぜ、のちの明治政府で重要な役をになったのか?が疑問でした。

大山捨松の文字をクリックすると、くわしいホームページにリンクできます)