工房八重の部屋

京都の紹介、日々の出来事や思いを綴ってます

京都国立近代美術館近くの京のたたずまいの店でランチ

2017年10月22日 | Weblog
京都国立近代美術館の「絹谷幸二展」を見た後で

ランチしました。ネットを見て京都国立近代美術館近くに、

京都のおばんざい(おかず)の店をさがしあてたので、そこに行きました。

友人は西陣に生家があり、京都の伝統ある建物が好きなので

行ったおばんざいカッフェの「卵sagiの一歩」が気に入り、次は家族ときたい!

と店のカードをもらっていました!

ランチは、日頃食べている内容ですが、味も美味しく、室内も友人に昔からの

京都の家のたたずまい!と喜んでいただきました!

「卵sagiの一歩」の文字をクリックすると食べログにリンクできます!


あす23日に南アフリカのビクトリアの滝などを見るツアーに参加するので
10月31日までブログを休みます! 明日23日は関西に台風が上陸する日です!
無事に飛行機が飛ぶのでしょうか! なんとか関空までは行く予定です!



おばんざいカッフェの「卵sagiの一歩」の店


おばんざいカッフェの「卵sagiの一歩」の店


玄関




1500円のおばんざいセット


庭を見ながらのランチです




室内


奥にも庭があります




デザート
ゆっくりとくつろげました。
観光シーズンではないので、予約なしでも入れました!





京都国立近代美術館の「絹谷幸二展」にまた行く

2017年10月21日 | Weblog
1か月前に友人に京都国立近代美術館の「絹谷幸二展」に行って

個性的な絵にびっくりして「面白かった!」と電話したら

「今、日本で評判高い画家です!私も行きたい!」ということなので

「ウズペキスタンの旅行から帰ったら、行きましょう!」

と返事しました。10月15日が最終日なので、13日に友人宅まで

車で迎えに行き、京都国立近代美術館の「絹谷幸二展」に又行きました。

友人は時間かけてみる人なので、私もゆっくり見ました!

最初行った時は気がつかなかったのですが、入口近くの第9章という部屋で

皆さんが絵を写真に撮っています!

この部屋だけ写真撮影を許可しているとのことで、写真撮影をしました!

絹谷幸二さんの絵はエネルギーに満ち、元気が出るような絵です!

とくに感動したのは、仏画の絵でした!

お付き合いで2回行ったのですが、絵の素晴らしさをまた、味わえて良かったです!



入口の部屋のみ撮影できました!























ウズペキスタン民族舞踊とウズペキスタンの印象

2017年10月20日 | Weblog
ウズベキスタンに旅行したと言うと、どこなの?と尋ねられます!

中央アジアに位置し、1991年のソビエトの崩壊の時に独立しました。

日本の1,2倍の面積で人口は3000万人近くです!

旅行したのはシルクロードとして栄えた、首都のタシケント、サマルカンド、シャフリサーブス

ブハラで歴史も古く、モスク、イスラムに関する高等教育するメドレセ、廟など毎日

見学すると、同じような建物に見えてきます。建物ばかりの見学でツアーで行った方は

もうウズペキスタンには1回で十分と言ってました。風光明媚な景色がありませんでした。

ソビエトに70年間なっていたために、工場や会社などできて近代化されたとのことで、

ロシア系の風貌をした若い女性ガイドはソビエトが崩壊し、ウズペキスタン共和国として独立

したときはお金がすべて無価値となり、生活が困窮をきわめた!と言ってました。

ソビエトのおかげで近代国家になったとのことで、ソビエトに感謝しているとのことです。

主要産業は綿花栽培で天然資源に恵まれ、莫大な天然ガス、手付かずの石油、金、銀、

銅、鉛、ウランなどあります。

資源のない日本は2012年までに有償資金協力金1430,42億円、無償資金協力金

223,32億円、技術協力実績144,50億円の実績があります。

ウズペキスタンはテロを警戒して空港で出国するときは、3回の荷物チエックあり

特急列車に乗るときもパスポートや荷物チエックがあります。

住民はつねに外出した時もパスポートを持参して、時々ある身元チエックにも備えるとか!

駆け足旅行でしたが、1番心温まり記憶に残ったのは、住んでいる方達の

親切や、やさしさでした! 近年復興し、ヨーロッパからの観光客が多いようです。

シルクロードのオアシス都市なので、モロッコのようなところと思っていたのですが

ソビエトになった70年間の間に近代都市となり、ガイドの方はソビエトおかげで

ウズペキスタンは近代国家になった!と思っているようです。

ソビエトに対する日本人の印象は、50万人を超える抑留者や5万人を超える

抑留者の死亡、日本の領土だった北方領土にソビエトは日本人を追い出して

勝手にソビエトの領土にして、いまだに返還していないなど、

よくはありません。

タシケントのソビエトに抑留された日本兵のお墓にお参りしたときに

そのことを言うと、ソビエトびいきの若いロシア系のガイドは

「日本は原子爆弾を落とされ、各都市を爆撃されて、終戦になったのに何でアメリカと

仲が良いのか理解できない!」と言われました。ショックでした!

終戦になってからは、アメリカの援助があり、いちはやく復興ができたのですが、

そのガイドさんが言っていることは、世界で日本に対する一般の考えのようでした!

そのことが今回初めてわかり、ショックでしたが、

マスコミなどで、アメリカに対する好意的考えになっていたのかもしれません!

ソビエトは日本の復興になにをしてくれたのでしょうか?

シベリア抑留は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した

50万人を超える日本軍捕虜らが、ソ連によっておもにシベリアなどに労働力として

移送隔離され、長期 にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じたのです。

厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられ たことにより、

5万人を超える多くの抑留者が死亡しました。

ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯 などの囚人に過酷な強制労働が課せられたが、

これは労働力不足を補う側面もあったとのことです。

日本軍捕虜の抑留も同じように労働力不足を補うためです。

終戦になっても帰国させなかったことは、

捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ条約や、日本軍隊の『家庭復帰』を明記し

ソ連も署名をしたポツダム宣言に違反する行為でした.

韓国がいまだに慰安婦問題で日本の責任を追及している現状を見れば

アメリカに原爆を落とされ、今回の戦争で300万人を超す死者を出す

戦争で、戦後アメリカと友好関係を結んでいることをガイドの方に批判された

ことには考えさせられました!

ウズペキスタンの若い女性のガイドは、大学の日本語学科を卒業してガイドに

なったとのことです。最初に言われたのは「ガイドして説明しているときは

写真撮らないで、説明をきいてください!わかりましたか?わかったら返事してください!」

というように、上からの目線でものをいう人で、皆さんからは評判が悪かったです!

ほんとは優しく思いやりもあるのですが、彼女の言い方は生徒に対する言い方で

観光客をお客とは思っていないようで、日本語の相手を立てながら、自分の言い分を通す

ということのむつかしさを感じました!

トルコやチエコ、ロシアなどで現地の人のガイドの優秀さになれていましたので

彼女のガイドのとしてのモスクなどの説明は完璧ですが、

ツアー客に対する話し方は、観光客はお客という日本人の考え方がわかっていないのが残念でした!


ウズペキスタン民族舞踊の動画







































































































タシケントの独立広場、ナヴォイ劇場、チョルスー・バザール

2017年10月19日 | Weblog
7日目は首都タシケントの最後の観光の日です。

独立広場、ナヴォイ劇場、チョルスー・バザールと観光し

9月26日の22時29分のタシケントの飛行場からアシアナ航空でソウルに

飛び立ちました。

ソウルの飛行場で5時間の乗り変え便待ちです!

疲れもピークの状態で、時間あるのに買い物する元気もなく

空港内のレストランで、ラーメンを食べてから発着便のベンチに座って時間待ちしていました。

ソウルから1時間45分のフライトで、関空到着は16時50分です!

関空快速で大阪駅まで行き、自宅に買ったのは夜の10時近くでした!

関空から時間がかかったのは、MKや、やさかの家まで行ってくれる

乗りあいタクシーで帰宅したかったので、関空の乗り場の受付まで行ったのですが

満席であらかじめ予約しないとダメなので、JRでやむなく帰宅したので

帰るのに手間どりました!



独立広場
タシケントの街の中央に位置する、独立広場。政府や議会などの施設も多く建つこの広場は、
タシケント市民の憩いの場として親しまれています


独立広場


独立広場


回りは官公庁の建物が多い




噴水




歩いてナヴォイ劇場まで行きました!


ナヴォイ劇場
中央アジア内で随一の舞台芸術(バレエ・オペラなど)レベルを誇る、ナヴォイ劇場。
第二次世界大戦中に建てられ、ソ連時代には政府から,Grand(グランド)の称号を与えらえた、
由緒正しき劇場です。


ナヴォイ劇場を建てたのはなんと、第二次世界大戦後にタシケントに連行された日本人捕虜の人たちです。
1966年の大地震でタシケントの街は壊滅的な被害を受けましたが、
ナヴォイ劇場だけはびくともしなかったそうで、住民の避難所などとして使われたのだそうです。


ナヴォイ劇場の外には、日本人捕虜がナヴォイ劇場の建設に携わったことを記すプレートが飾られています。


設計はソビエトの人ですが、日本人捕虜がナヴォイ劇場の建設に携わったことを記すプレートがかべに
あります。
先日ウズペキスタンに出発する前にNHKが特集した番組がありました。
日本人捕虜達は建築の専門家ではなかったのですが、作るなら最高の建物と頑張った感動の番組
でした。ウズペキスタンに行ったらぜひ見たいと思っていた劇場です!


ナヴォイ劇場の側面


チョルスー・バザールの入口


チョルスー・バザールの円形の建物






ピクルスの店


チーズの店


干し果物のお菓子を購入しました


最後の夕食






ソウルの空港で5時間の待ち時間は長かったです。
待ち時間にラーメンを食べました。900円位です。

タシケント、地下鉄に乗り、ハズラティ・イマーム広場のイスラム建築

2017年10月18日 | Weblog
7日目のタシケントは午前は自由時間でした。

午前の自由時間は隣にあるスーパーなどで買い物しました。

タシケントのホテル、グランドミール・タシケントは最初にタシケントに

夜遅く着いて泊まったホテルですが、次の日は朝7時30分にロビ―に集合して

サマルカンドに特急列車でサマルカンドに出発というハードスケジュールで

このホテルには最後にゆっくりとできました!

ランチはウズペキスタン名物のプロフ・炊き込みご飯でした!

地下鉄に乗りましたが、地下鉄は写真撮影が禁止でした。

タシケント旧市街の北縁に位置するハズラティ・イマーム広場に行きました。

敷地内にはいくつかの壮大なイスラム建築が集合しています。



タシケントのホテル、グランドミール・タシケント


タシケントのホテル、グランドミール・タシケントのロビー
ウズペキスタンで泊まったホテルのなかで1番良かったです。


お昼に行ったレストラン


ランチはウズペキスタン名物のプロフ・炊き込みご飯でした
作っているところを見学できます。


前菜


ランチはウズペキスタン名物のプロフ・炊き込みご飯
美味しいです!


串焼き


このレストランの壁紙はトランクの壁紙でした!


タシケント旧市街の北縁に位置するハズラティ・イマーム広場に行きました。
広場のメイン施設であるハズラティ・イマーム・モスクは、
8世紀に活躍したタシケント出身のイマーム(モハメドの後継者)の名のついた、
たいへん神聖なモスクです。




墓です










バラク ハン メドレセ






バラク ハン メドレセ

内部はお土産屋さんがあります!
外側の青い屋根やモザイク画とは対照的に、モスクの内部は茶色のレンガや木でできた柱などで
造られていています。




ハズラティ・イマーム広場でもう1つ注目するべき観光施設が、コーラン博物館です。
ここには、7世紀に伝わったといわれる世界最古とても大きなのコーランが保管されています。






ミナレット


ミナレット


参拝する地元の信者 ウズぺキスタンの人達は親日的で親切です。

タシケント、日本人墓地とアミール・ティマール広場、工芸博物館

2017年10月17日 | Weblog
6日目はブハラからウズペキスタンの首都のタシケント

に特急列車に3時間50分間乗り、行く日です!

朝4時に出発なので、3時半にモーニングコールとのことですが、

ブハラで3泊したグランドブハラホテルはスタッフの質が最悪で、部屋の設備も

風呂の天井がぼろぼろなど、外観のビルから想像できないひどいホテルでした!

日本人観光客が多いホテルです。朝なんと2時45分にモーニングコールがなりました!

前日はショーと食事があり、ホテルに帰るのが遅く3時間ぐらいしか寝ていないのです。

持っていた時計がくるっている恐れがあるか?と思いました。

45分遅くなっている可能性も考えられます!

1人参加なので1人料金支払っていますので、部屋には私だけなので、3時半モーニングコール

4時にロビー集合なのですが、万一を考えて、3時15分に集合場所のロビーに行きました!

ロビーにはだれもいなくて、フロントは無人です。部屋に帰るのも荷物持っていかなくては

ならないので、そのまま薄暗いロビーで待ちました。

3時45分ごろからツアーに参加している人が集まってきました!

皆さんに聞くと、皆さんも2時40分や45分のモーニングコールで起こされたとのことです!

モーニングコールが添乗員が依頼した時間になかったのも、海外旅行で初めてでした!

お弁当を持ってきた現地の人から、朝ご飯のお弁当を受け取り、ブハラ駅に行き

特急列車に乗り、8時15分にタシケントに着きました。

タシケントで最初に行ったのは、日本人墓地です。ソ連に抑留されて、タシケントで働かされた

人達がなくなった日本人墓地にお参りしました。日本人の観光客がお参りするのが慣例とか!

そのあとは工芸博物館を見学し、アミール・ティマール広場に行き、ティムールの騎馬像を見て

から、ランチしたあとに、ホテルに行きました。

夕食時間まで3時間ちかく自由時間とのことで、その日の前日は睡眠時間が少なかったので

ホテルの部屋で夕食まで寝ました! 今思うと、なんでそんな朝早く出発しなければならなかった

のか? 夕食までの自由時間があったのに? 列車の予約があらかじめ取れなかったのでしょうか?



タシケントの駅に着きました。


タシケントの街並み
ソ連になった時からタシケントは首都になりました!


日本人抑留者の墓! 日本人観光客はこの墓にお参りするとのことです!


日本人抑留者の墓はイスラム教徒の墓の中にあります!


工芸博物館


クジャクがいました


工芸博物館の入口
1937年にオープンした工芸博物館は、現在4000点以上の展覧品があり、
博物館の建物自体が最大の美しさを持つ展示品として考えられる。
ウズベキスタン各地の職人によって彫刻された建築装飾は、伝統的な建築工芸のレベルを観覧させる。
1907年にロシア公使の私邸として建てられたこの建物内部には 13部屋に広がる19世紀の伝統的な建築工芸、
壁が装飾鉤刺しの刑で装飾された中央部屋、それ以外の手芸品やさまざまな展示品が楽しめる


タイル装飾が見事です!


入口天井


工芸博物館






















タシケントの街並みは近代的です!


アミール・ティマール広場のティムールの騎馬像は独立後に建てられました!




ランチしたレストラン ソ連時代からの物なのでしょうか?
豪華なレストランです!


レストラン内部


レストラン内部


トイレの洗面所の内部の装飾にびっくり


トイレの洗面所の内部の装飾


ランチ


スープ 


デザートはアイスクリームです!







ギュジュドゥバン陶器工房と民族音楽や民族舞踊を見ながらの夕食

2017年10月16日 | Weblog
5日目のブハラの最後の観光の午後はブハラから40キロにある

ギュジュドゥバン陶器工房の見学とブハラにもどり、

ナディール・ディヴァンベギ・マドラサの中庭で

民族音楽や民族舞踊、ファションショーを見ながらの夕食でした。

夕食は連日、炎天下の下、1万歩を歩くような日々でもう疲れて

食欲がわきませんでした。

翌日は首都のタシケントに早朝特急列車でもどるのですが、

なんとホテルのロビ―の出発が早朝の4時というハードなスケジュールです。

ショーを見ての夕食を終えてから、ホテルに帰るのが9時頃になりそうです!



ランチのためのレストランに歩いて行きます。


レストラン


前菜


メインはチキン


スープ


ギュジュドゥバン陶器工房の見学


ギュジュドゥバン陶器工房の見学


ギュジュドゥバン陶器工房では陶器は重たいので購入しませんでした


お茶とおつまみでもてなしてくれました


マドラサの中庭がショーと夕食会場です。


マドラサの中庭がショーと夕食会場です。


着いた時はまだ空席が多かった!


夕食の前采




焼きうどんのようなメイン ほとんど食べられなかった!


ファションショーが始まるころは、ほとんど満席です!







民族舞踊






観客はほとんどが外国の観光客でした!


バスに戻る道でメロンを売っていた店


バスに戻る道でスイカを売っていた店 スイカもメロンも1個100円位の値段にびっくり!
都市での給料所得は公務員で3万円位 高級取りで10万円位だそうです。
夫婦2人働いてもゆとりある生活ではないとのことでした!
物価は安いようです!

ブハラのスィトライ・マヒ・ホサ宮殿,チャル・ミナルモスク

2017年10月15日 | Weblog
スィトライ・マヒ・ホサ宮殿は市街中心部の北約4キロのところにあります。

ブハラ・ハーン国の最後のハンであるアリム=ハンにより夏の離宮の夏の離宮として

1911年に建てられました。アリム=ハーンはロシアで教育を受けさせられたので、

ロシア文化に心酔していたハーンの趣味で建物はロシア人建築家と地元の職人30人が手掛け

ブハラ・ロシア折衷方式で建てられていて、内部は豪華絢爛の部屋になっていました。

1920年10月、労働者の蜂起が起こり、赤軍が首都を攻撃した。

蜂起後、ハンであるアリム=ハン国王は逃亡し、

1920年にボリシェビキがブハラを併合し、ブハラ人民ソビエト共和国を宣言したとき、

アリム=ハン国王はドゥシャンベに逃げ、その後アフガニスタンに亡命した。

彼は1944年、カーブルで死去した。

革命委員会が権力を掌握し、独立国家と承認されたが、

1924年、民族派共産党員の大部分が更迭され、ブハラ人民ソビエト共和国となった.

ソ連崩壊により、1991年に独立し、今のウズペキスタンになっています。

スィトライ・マヒ・ホサ宮殿のあとはチャル・ミナルモスクを見学しました。

チャル・ミナルとは4本のミナレットという意味で、その名の通り4つのミナレットが美しい!



スィトライ・マヒ・ホサ宮殿 外観はロシア風


スィトライ・マヒ・ホサ宮殿
お月様とお星様の宮殿という美しい名前を持つ


スィトライ・マヒ・ホサ宮殿
ブハラ・ハーン国の最後のハンであるアリム=ハンにより夏の離宮の夏の離宮として
1911年に建てられました。
チャル・ミナルとは4本のミナレットという意味で、その名の通り4つのミナレットが美しい!





ロシア文化に心酔していたハーンの趣味で建物はロシア人建築家と地元の職人30人が手掛け
ブハラ・ロシア折衷方式で建てられていて、内部は豪華絢爛の部屋になっていました。












ブハラ・ハーン国の最後のハンであるアリム=ハン










天井




内部は博物館になっています!
ハーンの衣装














ハーレムの建物だったところ
ハーレムには300人の女性を住まわせたといわれています!


ハーレムの建物だったところと池
池にはハーレムの女性が泳いでいたとのことです!


ハーレムの建物だったところの内部は博物館になっています!


刺繍の店 娘さんが刺繍の実演していましたが、スマートホンで話し中


チャル・ミナルとは4本のミナレットという意味で、その名の通り4つのミナレットが美しい!


チャル・ミナルは1807年にマドラサの門番小屋として建てられたそうです。
インドの金持ち商人が4人の娘の事を思って建設したため、4本の美しいミナレットになったそうです。
娘たちの容貌が4者様々だったので、ミナレットのタイルの装飾もそれぞれ違うものにしたということです。


ブハラ、ナディール・ディヴァンベギ・マドラサやナクシバンディ複合体

2017年10月14日 | Weblog
タキバザールの周辺を散策し、メドレッセの中がバザールになったところで

買い物したり、チャイハネでお茶を飲んだりして休憩しました。

最後に行ったのはナディール・ディヴァンベギ・マドラサです。

ナディール・ディヴァンベギ・マドラサは1622年にブハラ・ハーン国の大臣

ナディール・ディヴァンベギによって建てられたマドラサで、オアシス、ラビハウズの

前にあります。

ハウズとは石垣でキレイに四角く取り囲んだ『池』のことです。

夕食後はホテルに戻り、1日に1万2000歩を歩いた日なので

もう疲れて、ホテルに戻ってからは寝るのみの日でした。

5日目はナクシバンディ複合体に行きました。

ナクシバンディ複合体は市内から20kmほど郊外にあるイスラムの神秘主義者のお墓や

モスクなどがある聖地です。

地元の参拝者や海外から観光客でにぎわっていました。



マドラサの中がバザールになっていました!


天井


マドラサ


タキバザールの建物


ナディール・ディヴァンベギ・マドラサ


ナディール・ディヴァンベギ・マドラサ


中庭 
夏はこの中庭で夜食事をしながら民族音楽、ファッションショー、民族舞踊のショーが、
開催されています。次の日の夜にショー見学と夕食に行きました。


ナディール・ディヴァンベギ・マドラサの前の銅像の前が地元の人で騒がしい!


なんと銅像の乗っています!


5日目はナクシバンディ複合体に行きました。
入口の門


門を中から見たところ


門の前にあった通りの建物前のカンナの花


ナクシバンディ複合体


地元の参拝者や海外からの観光客でにぎわっていました。






祈る地元の参拝者




















世界遺産ブハラの旧市街の散策

2017年10月13日 | Weblog
4日目は世界遺産ブハラの旧市街の散策で1日中歩いての観光で、

1万2千歩を太陽が照り付ける暑い中、歩いた日でした!

アルク城のあとマコギ・アタリ・モスクの前を通り、丸屋根で覆われたタキバザール

を見学し。カラーンミナレットやカラーンモスク、ミル・アラブ・メドレセなど

見学しました。


4日目ブハラでのランチ






デザート




マコギ・アタリ・モスクの前を通りました。
砂に埋まれていたモスクで1936年ロシアの考古学者が発見掘り出しました。
今でも周囲の地面よりも5mほど低い位置にあります。
マゴキとは『穴の中』という意味です。
モスクの中ではブハラで最古だそうです


遺跡があります


遺跡があります


丸屋根で覆われたタキバザール


バザールの中


バザールの中


バザールの中


カラーンミナレット


ミナレットは高さ46,5mとブハラで1番高く,土台部分は10mも地下に埋められています。
1127年にカラハーン朝のアルスラン・ハーンに建てられたミナレットです
このミナレットは見張り台、上から囚人を袋に入れて突き落とす死刑台、また本来の目的のコーランを
町中に告げるミナレットの役目などに使われていました。


広場に展示されていた人形


ミル・アラブ・メドレセ
このメドレセは16世紀に建設された、ブハラで最も優れたメドレセのひとつであり、
すばらしい建築様式と装飾が際立っています。
過去には損壊した経験を持ちながらも、現在はほぼ完全な姿で見ることができます


ミル・アラブ・メドレセ






カラーンモスク
カラーン・モスクは、1514年のシャイバニ朝時代に建造された、ブハラで最大のモスクです


















ブハラのアルク城

2017年10月12日 | Weblog
ブハラ観光の4つ目はアルク城観光です。

ブハラの旧市街に位置しているアルク城の門をから入ります。

このアルク城辺りが古代ブハラの発祥の地だと言われ、

少なくとも紀元前4世紀頃から存在していたようです。

アルクというのは『城塞』を意味し、歴代ブハラ・ハーンの居城でした。

7世紀にはフタ・ハウタンという女王が、このアルク城砦でアラブと戦ったそうです。

モンゴル軍が襲来してきた時は、多くの住民がアルク城に立てこもって抵抗しましたが

結局チンギス・ハーンによって大虐殺され、城も破壊されてしまいました。

その後も外敵に襲われては 修理 ⇒ 建築 ⇒ 修理 ⇒ 建築…を繰り返してきましたが

1920年のソビエト赤軍による爆撃でほぼ崩壊し、現在は石造りの部分が残るのみです。



城門が見えてきました!


城門から入ります!


ジュマ・モスクはカラフルな天井が彫刻された柱に支えられています。
玉座の間ではに背中を向けることは不敬とされていたため、
王の謁見を受けた人々は入口近くに設けられた壁のところまで後ずさりしてから退出したそうです。




城の1部は博物館になっています!


生活の様子が展示されています!


詩集や染の布


衣装


城内部
1部のみ残っていますが、大半は破壊されてしまっています!






城内はお土産やさんが多い! 絨毯を売っています!


お土産や


ウズペキスタンの若い女性の観光客


博物館内の展示
歴代ブハラ・ハーンの写真






市内が見渡せる!
城壁の上から素晴らしい眺めです!






観光客がラクダに乗っていました!


城壁は修復されています


城壁

ブハラはシルクロードの 十字路、文化的中心地として 栄えたところ

2017年10月11日 | Weblog
シャフリサブスを午前、観光し、ランチはウズぺキスタン風ケバブを食べました。

午後からはバスで275キロを5時間かけてブハラにむかいます。

道路は舗装しているのでしょうか? バスは振動がきつく疲れました。

途中、シルクロードの隊商宿として栄えたエルクルガン遺跡観光をしましたが、

今は小高い山位しかなにも残っていません!

3日目に泊まるブハラは500年以上の歴史を持ち、シルクロードの

十字路として中央アジアにみならず、イスラム世界全体の文化的中心地として

栄えたところです。

最初に訪れたのは、イスマイール・サーマニ廟です。

イスマイール・サーマニ廟は892年から943年にかけて作られた

中央アジアに現存する最古のイスラム建築です。

砂にうもれていたのを発見されましたが、掘り出したらそのままの姿で残って

いました。

その近くにあるチュシュマ・アイユブ廟とバラハウズ・モスクを見学しました。

バラハウズ・モスクは1718年、アルク城の前に建てられた

ハーン専用のユニークなモスクです。



シャフリサブスでのランチ




メインはウズぺキス風タンケバブ


レストランの周辺はウズペク系住民が多く住んでいる地区とのことです!


エルクルガン遺跡の看板


エルクルガン遺跡はシルクロードの隊商宿として栄えたところですが
今はなにも残っていません!


エルクルガン遺跡


途中でトイレ休憩した場所
水鳥が水遊びしていました!


ブハラに3泊したホテル グランド ブハラ ホテル
夕食はこのホテルでしましたが、味は今まで食べたウズペキスタン料理の中で1番まづかった!
レストランやロビ―の設備はしっかりしたホテルで、3泊したのですが
部屋の設備が最悪のホテルでした。
トイレットペーパーや、浴槽のせんがなく、電話は故障中や、テレビがなんとブラウン管で
故障中や、浴室がペンキはげ落ちボロボロなど!
外見は高層の立派なホテルなのに、室内の設備がこれだけ不備のホテルも珍しい!


ホテルのある場所の前にある国会議事堂? 場所はよいところにあるのですが・・・・


イスマイール・サーマニ廟


イスマイール・サーマニ廟
イスマイール・サーマニ廟は892年から943年にかけて作られた
中央アジアに現存する最古のイスラム建築です。
砂にうもれていたのを発見されましたが、掘り出したらそのままの姿で残っていました。


イスマイール・サーマニ廟の内部
外壁の日干し煉瓦による模様や意匠など、その様式に世界中の考古学者や
建築家が注目する建築だそうです!


イスマイール・サーマニ廟の内部


チュシュマ・アイユブ廟


チュシュマ・アイユブ廟


チュシュマ・アイユブ廟


おじいさんが植木をせんていしてました!


バラハウズ・モスク
1718年、アルク城の前に建てられたハーン専用のユニークなモスクです。


前面に彫刻されたクルミの柱が20本も並ぶテラス上の空間がある
建築もブハラでは他にみられないアイワンという独自のスタイルです1


祝いの日にはハーンはアルク城から絨毯の上を歩いてこのモスクまで来たとのことです


バラハウズ・モスク内部


バラハウズ・モスク内部


ブハラ独特のはさみを売っています。




バラハウズ・モスク前の池


池に写るバラハウズ・モスク

シャフリサブスはティムールの生まれた場所

2017年10月10日 | Weblog
2日目はサマルカンドのホテルに泊まり、

3日目はにバスで2時間の距離にあるはシャフリサブスに行きました。

シャフリサブスは古都で、ティムールの生まれた場所として有名です。

ティムールはサマルカンドにも劣らない雄大な建築物をシャフリサブスに建てましたが、

16世紀後半にブハラのアブドゥール・ハーンによってほとんどの建物が

破壊されてしまったそうです。

ティムールの像を見た後、アク・サライ宮殿跡を見学しました。

そのあとはシャフリサーブスにはドルッティロヴァット建築群と呼ばれる、

ティムールゆかりの建築物が3つあり、

コク・グンバス・モスク、グンバズィ・サイーダン廟、シャムスッディン・クラル廟を

見学しました。ドルッサオダット建築群も見学!

ドルッサオダットとは『大いなる力の座』という意味だそうです。



2日目に泊まったサマルカンドのホテルの庭


サマルカンドのホテル


サマルカンドのホテルからの景色


シャフリサーブスのティムールの像


周辺は公園になっています。


公園からアク・サライ宮殿跡の門が見えます


アク・サライ宮殿跡の門
もとはアーチ型の門だったとのことです.
ティムールが夏の離宮としてたてさせたとのことですが、
現在残っているのはアーチ型の門の一部のみになっています。


花婿、花嫁の写真撮影がありました


城壁


城門は巨大です!


シャフリサーブスにはドルッティロヴァット建築群と呼ばれる、ティムールゆかりの建築物が3つあります。
コク・グンバス・モスク、グンバズィ・サイーダン廟、シャムスッディン・クラル廟です。




天井


彫刻のドア


ドルッサオダット建築群の一つに、ジャハンギール廟があります。
ティムールが戦死した長男ジャハンギールのために建てた廟ですが


青のドームが美しい! ドルッティロヴァット




































千畳敷カールの遊歩道を歩き秋の雄大な景色満喫!

2017年10月08日 | Weblog
60人乗りのロープウェイに私たちツアー全員の47名が乗り込みました!

頂上近く紅葉しているくらいのところから霧がなくなり、千畳敷カールに着くと

青空で駒ヶ岳の山々が見えます! すごい雄大な景色!

雲は眼下で、その素晴らしい景色に感激でした。

千畳敷カールを1周する遊歩道は1時間で周遊できるとのことです!

遊歩道は石がゴロゴロした道で、登りや下りの道で歩きにくい!

やっと剣ケ池まで到着! 千畳敷カールは紅葉は終わりかけとのことでしたが。

雄大な景色に見とれながら、写真を撮って歩いたので、ロープウェイ乗り場まで

1時間半かかりました。観光客が多く、

ロープウェイの整理券もらってから、2時間待ちとのことですが

添乗員の方が整理券を先にもらってくださったので、集合時間から15分の待ちでロープウェイ

に乗れました。

帰りは山科に下車できるので、帰宅は8時過ぎでしたが

雄大な紅葉の山の景色が見れて満足のツアーでした。



千畳敷カールに着くと、晴れていて、
青空の空のなか、駒ヶ岳の山々は見えます! すごい雄大な景色!


遊歩道を歩きます!










剣ケ池が眼下に見えます!






ナナカマドが紅葉しています


真ん中のくびれまで登山している人が登っているのが、下から見えます!












やっと剣ケ池まで到着




雄大な景色に感嘆!


ロープウェイの建物が見えてきました!




ロープウェイの建物前からの景色








中央アルプス、駒ヶ岳のバスツアー

2017年10月07日 | Weblog
10月4日京都新聞旅行の中央アルプス、駒ヶ岳のバスツアーに参加しました。

連日雨や曇りの天候のなかで、4日のみ晴天とのことでした。

山科の西友前にバスが7時20分に停車します。

家から西友前まで10分の距離なので、今回参加することにしたのです。

中央アルプス、駒ヶ岳は20代のころに友人と,また30代の頃は父親と

2925mの宝剣岳まで歩いて登った思い出があります!

父親は東京工業大学の機械科を卒業後は、紡績メーカーに就職して

全国にある工場と東京本社を2年ごとに転勤する生活のため

私は小学校6年間で3回の転勤のために3回小学校を転校しました。

働き始めてからパリに留学したりして、色々経験すると、

60歳まで働いた父親の苦労が理解できるようになりました。

私のほうは20代は山岳部に入り、山に、はまっていましたので、父親も60歳で

退職してから、影響をうけたのでしょうか? 山歩きを始めました。

私のほう、30代にパリ留学から帰国して、また働き始め、父が山歩きはじめたので、休み利用して

初めて父親と山に行ったのが、駒ヶ岳の2925mの宝剣岳です。

2612mの千畳敷まではロープウェイでのぼりましたので、登りはゆっくりと登り

2925mの宝剣岳まで、3時間位かかったでしょうか! 

父を見送ってから何年になるでしょう!

父とは北アルプスを歩いたりと、山に一緒に行った思い出は今は宝物です!

その思い出の千畳敷まで、今回のツアーではロープウェイで登り、2時間の自由時間あるので

千畳敷カールをハイキングする予定です。

下から見ると、山は雲に隠れていて、ロープウェイはたくさんの団体客が待っていました。

ロープウェイのあるしらび平駅周辺は霧でなにも見えません!

ロープウェイを待っていて、もう千畳敷カールは霧でなにも見えず、山々も見えない

と思い、待っている間に駅で、駒ヶ岳周辺の四季の写真が画面に次々と映し出される

ので写しました。今日記載する写真はその時に写した写真です!



駒ヶ根でランチしました。 豚鍋です。団体専用の食事処でバスは10台が停まっていました。
添乗員の方が紅葉の時期なので、多分ロープウェイで登るのに観光客が多く
かなりの時間がロープウェイ待ちにかかるでしょう! と言われました!


ロープウェイの終点! 千畳敷の高度


駒ヶ岳周辺の四季の写真
プロの写真なので素晴らしいです!
















































次々と移される写真眺めて、ロープウェイの順番が来るまでの時間つぶしました!
60人乗りのロープウェイに私たちツアー全員47名が乗り込みました!
頂上近く紅葉しているくらいのところから霧がなくなり、千畳敷カールに着くと
青空で駒ヶ岳の山々は見えます! 雲は眼下で、その素晴らしい景色に感激でした。
明日は千畳敷カールの散策した景色の写真を記載します。