「ラジオ・プラハ」の2003年発行のベリカード、「チェコの飛行機シリーズ」からの1枚です。
「レトフ (Letov) Š-16」の写真です。プラハのレトニャニに工場があった、レトフ社で造られました。

1920年代中頃になると、飛行機の性能がかなり上がってきました。Š-16は、長距離偵察用や攻撃用機として開発され、1926年11月に完成したそうです。

この飛行機を使って、チェコスロバキア・プラハから日本の東京までの、長距離飛行がなされました。(実際に使われたのは、ベリカードに写っている機体です)
(翌年、1927年5月には、チャールズ・リンドバーグが、スピリット・オブ・セントルイス号で、ニューヨーク・パリ間5,810kmを33時間29分で飛び、大西洋単独無着陸飛行に成功しました)

そんなことがあってか、同じ年 (昭和2年) の8月8日、午前9時、空軍パイロットのヤロスラブ・スカラ (Jaroslav Skála) (左側) と、整備士のマティ・タウファー (Matěj Taufer) が、プラハ ・クベリ飛行場から日本に向けて飛び立ちました。Š-16は優秀な飛行機だ、との世界に向けたPRを兼ねた理由もあったのかも。
当初の計画では、総飛行距離は11,200 km、8セクションに分け、1日の最短は約800 km~最長は約1,700 km (約9時間半) のフライトでした。Š-16の航続距離は1,045 kmほどでしたが、1,000ℓまで入るタンクを追加していたようです。
ただ、有視界での飛行は、天候や気流に左右されやすいし、当時はまだまだ、「フライング・マシーン」なので、不都合や故障の可能性が大で、パイロットだけでなく、ナビゲーター兼整備メカニックの同乗も必要でした。
モスクワ、オムスク、クラスノヤルスク、チタ、奉天、平壌、大邱、大阪などを経由して、9月4日に、東京 ・所沢飛行場までのフライトに成功しました。

(奉天飛行場での様子と、所沢飛行場に到着した時の写真(=所沢航空発祥記念館所蔵)です)

(日本に到着した2人は大歓迎を受け、(芸者さんを呼んでの宴会?) 当時の東郷平八郎・海軍大将から勲章を授与されました)

その後、9月12日には、プラハに向けて逆ルートで帰国の途につきましたが、途中のクラスノヤルスク付近でクラッシュ。2人は無事でしたが、破損した機体を放棄。尾翼の舵だけは、シベリア鉄道でプラハに運ばれ、現在は、クベリ (Kbely) 航空博物館に展示されています。

この飛行により、スカラ中佐は大佐に、タウファー整備士は、チェコスロバキア航空に勤務しました。

(富士山らしき山の上空を飛んでいる、Š-16の想像イラスト。実際の飛行は9月でしたので、積雪はないでしょう)
(ベリカード以外の画像は、ネットから取ってきたものです。また、別ブログ「ベリカードとBCLの楽しみ」(2018年7月17日) に書いた文章を補足して、大盛りにしたものです)
「レトフ (Letov) Š-16」の写真です。プラハのレトニャニに工場があった、レトフ社で造られました。

1920年代中頃になると、飛行機の性能がかなり上がってきました。Š-16は、長距離偵察用や攻撃用機として開発され、1926年11月に完成したそうです。

この飛行機を使って、チェコスロバキア・プラハから日本の東京までの、長距離飛行がなされました。(実際に使われたのは、ベリカードに写っている機体です)
(翌年、1927年5月には、チャールズ・リンドバーグが、スピリット・オブ・セントルイス号で、ニューヨーク・パリ間5,810kmを33時間29分で飛び、大西洋単独無着陸飛行に成功しました)

そんなことがあってか、同じ年 (昭和2年) の8月8日、午前9時、空軍パイロットのヤロスラブ・スカラ (Jaroslav Skála) (左側) と、整備士のマティ・タウファー (Matěj Taufer) が、プラハ ・クベリ飛行場から日本に向けて飛び立ちました。Š-16は優秀な飛行機だ、との世界に向けたPRを兼ねた理由もあったのかも。
当初の計画では、総飛行距離は11,200 km、8セクションに分け、1日の最短は約800 km~最長は約1,700 km (約9時間半) のフライトでした。Š-16の航続距離は1,045 kmほどでしたが、1,000ℓまで入るタンクを追加していたようです。
ただ、有視界での飛行は、天候や気流に左右されやすいし、当時はまだまだ、「フライング・マシーン」なので、不都合や故障の可能性が大で、パイロットだけでなく、ナビゲーター兼整備メカニックの同乗も必要でした。
モスクワ、オムスク、クラスノヤルスク、チタ、奉天、平壌、大邱、大阪などを経由して、9月4日に、東京 ・所沢飛行場までのフライトに成功しました。

(奉天飛行場での様子と、所沢飛行場に到着した時の写真(=所沢航空発祥記念館所蔵)です)

(日本に到着した2人は大歓迎を受け、(芸者さんを呼んでの宴会?) 当時の東郷平八郎・海軍大将から勲章を授与されました)

その後、9月12日には、プラハに向けて逆ルートで帰国の途につきましたが、途中のクラスノヤルスク付近でクラッシュ。2人は無事でしたが、破損した機体を放棄。尾翼の舵だけは、シベリア鉄道でプラハに運ばれ、現在は、クベリ (Kbely) 航空博物館に展示されています。

この飛行により、スカラ中佐は大佐に、タウファー整備士は、チェコスロバキア航空に勤務しました。

(富士山らしき山の上空を飛んでいる、Š-16の想像イラスト。実際の飛行は9月でしたので、積雪はないでしょう)
(ベリカード以外の画像は、ネットから取ってきたものです。また、別ブログ「ベリカードとBCLの楽しみ」(2018年7月17日) に書いた文章を補足して、大盛りにしたものです)