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BCLとベリカードの楽しみ

海外短波放送や国内放送を聴き、放送局からいただけるベリカードなどを紹介。近頃は、自分が楽しいと思える事柄も書いています。

プラハの風景写真  5月のプラハ

2025-05-18 | チェコ・プラハの風景
チェコ・プラハに住む友人から送られてきた、5月の「プラハの風景写真」です。

先週は、気温は14度くらいで、晴天に恵まれた1週間となり、金曜日には、アイスホッケー世界選手権が開幕した、とのことです。
また、5月8日はチェコの「戦勝記念日」なので、80年前の第2次世界大戦終結を記念する、様々なイベントが催されたようです。

プラハ2区の「平和広場」では、第2次世界大戦中の写真展が開かれました。





「聖リュドミラ教会」 (St.Ludmila) 前での、ドイツ軍装甲車が写っています。ドイツ軍がプラハから撤退した日の、1945年5月8日に撮影されたようです。



1940年代にドイツ軍向けに製造された、「プラハRN型トラック」が展示されていました。1945年3月にアメリカ軍の爆撃によって工場が破壊されるまで、製造が続けられていました。







ヴィノフラツカー通り(Vinohradská) にある「チェコ公共ラジオ局」の外では、戦勝祝賀式典の準備が整えられていました。来賓や兵役体験者が集まり、1945年当時の警察官制服とヘルメットを身に着けた男性たちも、並んでいました。



旧市街の「旧市庁舎」の外でも、パネル展が開催されました。ちょうど、テレビクルーが、プラハ前市長の「ズデニェク・フジブ」(Zdeněk Hřib) 氏に、インタビューしているところです。



街中の写真です。

プラハ4区の「ブジェヨヴィツカー (Budějovická) 地下鉄駅」の通路に描かれた、アート作品です。故「ヴァーツラフ・ハヴェル」(Václav Havel) 大統領を追悼する絵で、「真実と愛」をテーマに、サングラスをかけた彼はまるでロックスターのようです。



アートとして市の許可を受けていない、落書きも多くあります。



小さな発電所の建物には、自然をテーマにした、アート作品が描かれています。



「犬の糞を片付けましょう」キャンペーンの、看板です。



旧市街のお店で、「居酒屋」、「宝石・時計店」、そして、「ゴールデン・ライオン・パブ」と、「道化師が目印のおもちゃ屋」の看板です。





「ネイルサロン」と、「ヘアサロン」の看板です。



プラハの公共バス輸送を祝う写真展が、街頭で開かれました。初期の、1908年の「乗り合いバス」の写真が飾られていました。



ヴァーツラフ広場に、「メラノーマ皮膚がん(悪性黒色腫)撲滅デー」にあわせて、皮膚検査が無料で受けられる、大きな特設テントが設置されました。



この日の空は、青空が少し見える、曇りでした。







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プラハの風景写真  オルシャニ墓地とイースター・マーケット閉店

2025-05-04 | チェコ・プラハの風景
チェコ・プラハに住む友人から送られてきた、「プラハの風景写真」です。

まずは、プラハ3区・ジシュコフ地区 (Zizkov) にある、プラハ最大の墓地「オルシャニ墓地」(Olšanské hřbitovy) の墓標の写真になります。
(この墓地については、23/11/4・5にも書いていますが、今回は別のです)

さまざまな彫像や彫刻で飾られている墓標が、多くあります。







裕福な家では、所有する邸宅と同様に、こうしたもので墓を飾ることが好まれました。





墓地には、約65,000基の墓標があるとも。天使や十字架の彫刻が、数多く置かれています。





かなりの時が経っているため、いくつかの彫像は損傷したり、故意に破壊されたりしています。







位が高かった金持ちの人のでしょう。屋根の上や、正面のところに多くの彫像が。





19世紀の墓で、家のような造りになっています。内部です。



カトリックの司祭で、作家「ユリウス・コシュナール」(Julius Košnář、1862-1936)の墓です。



子供の墓は、写真がはめ込まれています。下は、1911年10月12日に7歳で亡くなった「マジェンカ・グルンドヴァー」(Mařenka Grundová)のです。





教会や棺を模したりしたのも、あります。



プラハでは、墓は賃料を10年ごとに支払う必要があり、普通の墓で約6,500コルナ (42,000円)、村の墓地では、その4分の1ほどの費用、とのことです。
中には、無縁墓になっていて、放ったらかしにされているのもあるのでしょうね。

次は、イースター期間中に開いていた「マーケット」が、閉店しました。
「平和広場」での開催中と終了後のです。



「ヴァーツラフ広場」では、閉鎖されたスタンド、運ばれて行くまで放置された備品が。そして、広場は、にぎわいがなくなった雰囲気になっています。





最後は、前回、4月20日に書いたブログの、「チェコ・ワールド誌」(Český svět) に掲載された、日本の記事に関してです。

それは、1908年8月20日頃に発行された号に、当時の桂太郎首相率いる第二次新内閣が、7月14日に発足した、というニュースで、桂首相と6人の大臣の写真とともに報じられています。



日本から遠いチェコ (当時はオーストリア=ハンガリー帝国) で、しかも1カ月後に記事にされていることに驚きますが、それが可能なのか、どのようなルートで写真や原稿が運ばれて行ったのか、気になりました。

調べてみると、当時の船便では1カ月~1カ月半はかかりますので、鉄道を使ったようです。ただ、ウラジオストク航路はまだなく、関釜航路と南満州鉄道経由だったのでしょう。
推測ですが、東京→下関→釜山→ハルビン→満州里→チタ→モスクワ→ワルシャワ→ウィーン→プラハと、8-9列車を乗り継ぎ、10日ほどはかかったでしょう。
東京を7/15に出発すると、プラハには7月末までには届くでしょうから、8月20日頃の紙面掲載は可能だった、と言えるでしょう。


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