こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

ティム・ブレイク 「宇宙の燈台」'81年11月

2010-02-28 12:54:17 | 想い出かたちんば
1981年7月の暑いさかりに、かたちんばは、長年愛した三ノ輪を離れることになった。

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元はと言えば、住んでいた家は、斜め向かいのおじいちゃん・おばあちゃんの家であって、それを借りていたのだったが。

おじいちゃんは、1966年の1月に亡くなり、そして、その数ヵ月後に、かたちんばは生まれた、というか、この世にエイリアンとして落ちてきた。

みな、自分を「おじいちゃんの生まれ変わり」と言っていた。

おじいちゃんは、みんなにも愛されていた、凄みのある優しい人で、僕はおじいちゃんには会った事は無いのだが、悪口を聞いたことが未だに無い。

うちの通りには、アラーキーの実家の下駄屋さんがあって、そのアラーキーのお父さんとうちのおじいちゃんは、盆栽仲間だった。
共に、写真好きで、おじいちゃんが亡くなった際には、アラーキーのお父さんが、葬式の写真を撮ってくれた。

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一方おばあちゃんといえば、性格が悪く、さかんに「家を貸しているんだから」という嫌がらせをよく言っていたという。
コドモながらに、余り笑った顔を見たことが無い、厳格なおばあちゃんだった。

そのおばあちゃんも、果ては、ボケてしまい、なんとおじいちゃんの無くなってから三十余年を経て、そのボケ具合と面倒見切れないくり返し同じ事を言うのに、看護する側がノイローゼになりそうになりながらも、昔の恨みもあって、みんなに「早く死ね!」などと言われながら96歳まで生き、大往生した。

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自分は、実は幼い頃から、両親のどちらにも顔が似ていない。
そして、最近、ヒゲを生やすようになってからは特に、お袋さんから「おじいちゃんそっくり」と言われるようになってきた。

隔世遺伝という奴である。
まさに、自分は、どんどん写真とお話しでしか知らない「おじいちゃん」にそっくりになってきている事に驚いている。

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1981年7月、草加に引っ越すはめになったのは、おばあちゃんからああだのこうだの言われるのがイヤになって、草加に家を買うことにしたからだった。

しかし、自分は下町三ノ輪を愛していたので、複雑な想いでいた。

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引っ越した草加は、ずっと都内に住んでいた中学3年生の自分にとって、驚くような未開の地だった。
ちょうど「ダ埼玉」というコトバがはやっていた時期で、バツの悪い思いをしていた。
夕方にはこうもりが飛び、都内では見ないような大きい薮蚊(やぶか)に刺された。

文房具の買い物をするだけなのに、セミの鳴く中、たんぼをよぎり汗だくで数十分歩かないと文房具屋さんに着かないと行った具合で、げんなりしながら、周囲に知り合いが居ないのも相まって、すっかり引きこもりになってしまった。

中学3年生で受験生だった自分は、親からのプレッシャーにも耐えながら、引きこもって勉強をしながら、楽しみはといえば、FMラジオを聴いては、エア・チェックすることだった。

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「サウンド・オブ・ポップス」「軽音楽をあなたに」「サウンド・ストリート」「クロスオーバーイレブン」・・・・。

1981年11月から、自分で、ニューウェイブの好きな曲をシリーズ化してインデックスを作って、ナンバーを作っていくのを始めた。

そんな折、よく「クロスオーバーイレブン」の選曲で選ばれていたのが、ティム・ブレイクの「宇宙の燈台」という曲だった。
もちろん、エア・チェックした。

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大好きな曲で、よく聴いたものだが、今では、ティム・ブレイク自体のアルバムもCDも手に入れずらい。
そんな中、やっぱり役立つのがYOUTUBE。

あった、あった、「宇宙の燈台」が。
ひさびさに聴いたが、スペーシィーサウンドで、夜な夜な受験勉強のかたわらで、精神が宇宙に飛んでいくような感じを思い出した。



今では、FMにもかからないだろうし、なかなか聴く機会も少ないと思うが、自分にとっては、想い出の1曲なのだった。
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