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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ダンスとダンサーは切り離せる/切り離せない

2010年02月19日 | ダンス
訂正→反省は残るとして、あらためて自分が書いたこと、中西さんの文面を振り返ってみると、それなりに考えるべきことがあるように思うのでそのことについて書いてみたい。中西さん(的な観賞姿勢)と木村(的な観賞姿勢)との違い。それは、例えば、ダンスとダンサーは分かちがたくくっついていると見る見方と、ダンサーを切り離してダンスを見ようとしている見方との違いと言ってみることが出来そうに思う。

例えば、中西さんは自身のブログで「彼女を無名時代から評価してきたものとして許しがたいと思う。そういうことはないと信じたいけれど。」と書いている。(ちなみに、その文章の後でぼくの文章が引用されていますが、ここに出てくる「あなた」はきたまりだけに向けられているわけではありません。一応コメントしておきます。)ぼくの見方とちょっと違うなと感じるのは、中西さんの文面からはきたまりという人間に対する愛情(応援する気持ち)がつよく反映されているところで(だから悪いと言うつもりはないですよ)、ぼくが同様の文章を書くとしたら「彼女を無名時代から~」ではなく「彼女の作品を無名時代から~」と書くように想像する。あるいは、ぼくは前述したように、どんなに評価している作家でも個別の作品の中には評価できないものもあり、一貫して評価してきたみたいなことはあまり言えないという姿勢のもとで(そんなことがあったら幸福かもしれないけれど)作品(や作家)とつき合っている。

この違いは、単純にどちらがいいという話ではない。ぼくはこう書いて、ダンサー(人間)とダンス(作品)を切り離さない見方は全然間違っているというつもりはない。けど、ぼくはなるべく切り離そうとして見ているなと自分を振り返る。

なんてこと昨夜、晩ご飯中に話していたら、Aが中西さんの見方も分かると言いだした。作家はダンス(作品)を「見せる」こともあり、しかしそればかりではなく、ダンサー(人間)として「見られる」ことも起きているはずで、作品を「見せる」ところだけに注目することは観客のリアリティに反するのではないか、という内容だった。「見せる」というのは意識的な行為で作家のコンセプチュアルな行為といって良いだろう。一方、作家にとって無意識的に(自分はそこを見てもらおうなどと思っていないところを)「見られる」という事態も起きているはず。身体はさまざまな情報を見る者に(意識的/無意識的に)発信していて、それはコンセプチュアルな「作品化」の営みをはみ出してどんどん勝手に展開されてしまうところがある。おおよそ、そんな話で、例えば、美人のダンサーというのは案外大変なのではないか、なんてことが話題になった(えっと、もうこのあたりきたまりさんも中西さんも関係なくなってます、いや、きたまりさんが美人ではないということではないです、もちろん。)。

あらためて整理すると、ぼくたちはダンスに何を見ているかということが気になる。誰々の作品を見に行くということのなかに誰々を見に行くということがどれだけ含まれているかということ。康本雅子の作品を見に行くのに康本雅子を見に行くということがどれだけ含まれているかということ。手塚夏子の作品を見に行くのに手塚夏子を見に行くということがどれだけ含まれているかということ。こういう問題はあまり他のジャンルでは起こっていない気がする。音楽演奏というのはでも結構そうなのかな、嵐のコンサートに行くことは嵐の作品を見に行くこと以上に嵐に会いに行くことだったりするだろう。コンサートに行ってみたら、本人たちしか居なくて、演奏も歌もないとしても、観客はある程度は満足して帰るだろう。「でも、やっぱり歌聞きたかったな、」とかおしゃべりしながら。極論かな?例が嵐じゃなくてもいいんですが。

ときどき唖然とするのは、他の表現ジャンルでは手厳しい批評をするひとがことダンスにかけてはきわめて甘い発言をするなんてとき。例えば、そういうときのダンスは何を見る者に与えているのかということ。ダンスとダンサーの危うい混同がそうした評価のなかで起きていると思うときがある。

ときにダンサーは作品のノイズになることもあるだろう。それが甘美なノイズだとして、その甘美さに耽溺するべきかその甘美さをノイズとして退けるべきか。例えば、美貌のダンサーの美貌は作品の一部か作品を時に疎外するノイズか。

ぼくがAに答えたのは、ダンサーが作品に作用するそうした部分も含めてコンセプチュアルであるべきではないか、という内容だった。先の話で言えば、美貌は「美貌」として意識された上で作品を構成する仕掛けの一部になっているべきだ、ということ。観客は自分勝手に沢山の情報をダンサーから読み取る。基本としては、ダンサーの身体が体現しようとしている振り付けを見ようとするだろうしその達成度を見ようとするだろう、けれども、そうしたまっとうな眼差しだけを観客は持っているわけではなく、観客は自分の都合で多くの情報を読み取るものである。そうした観客が抱えている(可能性のある)多様な読み取りのベクトルを意識しながら、それを可能な限りコントロールしようとする必要があるのではないだろうか。このコントロールに仕掛けを凝らすことこそがダンスの作品を作る醍醐味だったりはしないのだろうか(コンテンポラリーダンスとは直接関係しない存在かもしれないけれど、マドンナを見る度にそうしたことをぼくは思う)。

無防備だなと思うことがある。この無防備さを愛でることがコンテンポラリーダンスを愛する方法なのではないかとさえ思うことがある。のんきでかわいい、つっこみどころ満載。天然。ただ、だだもれ状態でやっちまったおこないを、しかし、批評することは出来ない。そうだ、あらためて考えると「ダンス批評(家)」と自称することの葛藤はぼくのなかにずっとあったけれども、葛藤の原因はこのあたりにあるようだ。天然でたまたまやっちゃったこととコンセプチュアルに「たまたまやっちゃたこと」を見せることとは違う。たまたまやっちゃたことをそのひとの「アート(芸術表現、技巧)」として評定することは、難しい。

ところで、コンセプトというものはどこにあるのか。

作家がコンセプトを設定するだけではない。作品を通してコンセプトを読むこと、深読みすることもコンセプトのひとつのあり方だ。作家の行いと見る者の読み取りがずれることは当然ある。(このあたりに「マイクロポップ」問題と呼ばれるものも位置している、ひょっとしたらあるひとたちから「木村の快快評価」問題と呼ばれている(呼ばれてないか)事柄かもしれない)


あ、そうそう。
ここまで書いてきて思い出したのですが、このエントリーを書こうとした時に、

踊り子(舞姫/王子)志向 / ダンスオタク(同人ダンス)志向 / ダンス作家志向

という3種類のコンテンポラリーダンスの作り手(の志向性)が想定出来そうだと思ったのでした。いずれ整理してみようと思います。

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