コンテンポラリーダンスの状況(いや、現状というよりも存在していないけど可能性として存在していてもいいものまで鑑みた上で)を、例えばこんなマップに転写してみることはできるか?
踊り子(王子/舞姫)
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B | A
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天才 --------------------------- ダンス作家
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C | D
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同人ダンス
□縦軸/横軸について□
縦軸(踊り子--同人ダンス)は、観客がどう受け入れているかを示す。上に行けば行くほど観客はダンサーに萌えている(憧れている)、下に行けば行くほど観客はダンサーに仲間(同人)意識をもっている。
横軸(天才--ダンス作家)は、作家の作品作りへの意識を示す。右に行けば行くほどコンセプチュアルなアプローチを志向している。左に行けば行くほど自分のダンスが自然、天然、無意識的であることを重視している。
□このマップの問題点□
さて、このマップでしばらく考えてみるとして。
難しいのは、一番すごい(例えば、すべての要素を兼ね備えている)存在が真ん中に位置され、消極的に見えてしまうということ。黒沢美香や室伏鴻は、すぐれているが故に真ん中あたりに位置されることになる。これは単純にこのマップの形式的問題。
□各象限の特徴□
Aは「踊り子/ダンス作家」で、優等生的、批評誘発性が高い。
Bは「踊り子/天才」で、もっともダンサー主義的な存在。
Cは「同人ダンス/天才」で、「天才」というより「天然」「不思議ちゃん」がそれに該当しようか。ネガティヴに捉えられるかもしれないけれど、ネタ的な存在感は圧倒的かもしれず、「同人」といってもその枠は、文学フリマで同人誌10冊売れました的な枠を想定せずとも、ニコ動アクセス数十万という枠を想定してもよいはず。現状は、ダンサーが見に行くダンス公演というイメージ。
Dは「同人ダンス/ダンス作家」で、Cが「オタク」と類似点をもつかもということでいうなら(優等生の「踊り子」に萌えるのとは違うとしても、萌え要素を振りまいている)、「サブカル」に類似点をもつかも。萌えないが支持したい、という気持ちにさせられる。
□各象限の「自己批評性」のあり方□
例えば、このマップでダンサー、振付家の自己批評性のあり方を(可能性として)考えてみるとどうなるんだろう。
Aの自己批評性は、コンセプチュアルな作家性を明確にすること(作家としての評価)と、ダンサーがきちんとポピュラリティを獲得することと、両方をどう目指したらいいか反省するところにあるだろう。作品の評価を求めるタイプ。
Bの自己批評性は、自分の求める「ダンス」へと邁進するところにある。求道的。直感的。言葉に出来ないアレがもっとも重要なのだ、という語り得ないところにいつも自分を置こうとする。
Cの自己批評性は、もしあるとすれば、自分の天然性を「天然キャラ」として意識して、「同人」の萌えテイストに応答しようとするところに見いだせる。
Dの自己批評性は、もしあるとすれば、自分の憧れる「ダンス作家」像に自分がどれだけ近づいているかを反省するところに見いだせる。
□マップから分かること□
昨年あたりから個人的にずっと気になっていたこととして、これまでだったら[A-B]の象限だけを考えていれば良かったんだけれど、それだけではコンテンポラリーダンスの状況を語りえないのではってことで、それは[C-D]の象限の台頭ということになるのではないか。この象限についてまだあんまりみんなが意識できていなくて、少し混乱があったり、展開が消極的だったりするのではないか。[AーB]は優れていて[CーD]は劣っているという発想は、多分その発想それ自体が批評されるべき事柄になるだろう。「踊り子」がモダン的で、「同人」はポストモダン的なのは言うまでもない。
Bしか意識されていないのがダンスというジャンルの基本的特徴ではなかろうか。バレエ、日本舞踊、ストリートなど。そこに、やや強引にAの可能性をひらこうとしたのが拙書かもしれない。もちろん、Aの可能性を考えるよう促す存在が日本のコンテンポラリーダンスのなかに出てきたということもある。でも、AとかBとかを云々している場合ではなく、今後考えるべきはむしろCとかDとかの可能性ではないか、と現状認識することができる。
踊り子(王子/舞姫)
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B | A
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天才 --------------------------- ダンス作家
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C | D
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同人ダンス
□縦軸/横軸について□
縦軸(踊り子--同人ダンス)は、観客がどう受け入れているかを示す。上に行けば行くほど観客はダンサーに萌えている(憧れている)、下に行けば行くほど観客はダンサーに仲間(同人)意識をもっている。
横軸(天才--ダンス作家)は、作家の作品作りへの意識を示す。右に行けば行くほどコンセプチュアルなアプローチを志向している。左に行けば行くほど自分のダンスが自然、天然、無意識的であることを重視している。
□このマップの問題点□
さて、このマップでしばらく考えてみるとして。
難しいのは、一番すごい(例えば、すべての要素を兼ね備えている)存在が真ん中に位置され、消極的に見えてしまうということ。黒沢美香や室伏鴻は、すぐれているが故に真ん中あたりに位置されることになる。これは単純にこのマップの形式的問題。
□各象限の特徴□
Aは「踊り子/ダンス作家」で、優等生的、批評誘発性が高い。
Bは「踊り子/天才」で、もっともダンサー主義的な存在。
Cは「同人ダンス/天才」で、「天才」というより「天然」「不思議ちゃん」がそれに該当しようか。ネガティヴに捉えられるかもしれないけれど、ネタ的な存在感は圧倒的かもしれず、「同人」といってもその枠は、文学フリマで同人誌10冊売れました的な枠を想定せずとも、ニコ動アクセス数十万という枠を想定してもよいはず。現状は、ダンサーが見に行くダンス公演というイメージ。
Dは「同人ダンス/ダンス作家」で、Cが「オタク」と類似点をもつかもということでいうなら(優等生の「踊り子」に萌えるのとは違うとしても、萌え要素を振りまいている)、「サブカル」に類似点をもつかも。萌えないが支持したい、という気持ちにさせられる。
□各象限の「自己批評性」のあり方□
例えば、このマップでダンサー、振付家の自己批評性のあり方を(可能性として)考えてみるとどうなるんだろう。
Aの自己批評性は、コンセプチュアルな作家性を明確にすること(作家としての評価)と、ダンサーがきちんとポピュラリティを獲得することと、両方をどう目指したらいいか反省するところにあるだろう。作品の評価を求めるタイプ。
Bの自己批評性は、自分の求める「ダンス」へと邁進するところにある。求道的。直感的。言葉に出来ないアレがもっとも重要なのだ、という語り得ないところにいつも自分を置こうとする。
Cの自己批評性は、もしあるとすれば、自分の天然性を「天然キャラ」として意識して、「同人」の萌えテイストに応答しようとするところに見いだせる。
Dの自己批評性は、もしあるとすれば、自分の憧れる「ダンス作家」像に自分がどれだけ近づいているかを反省するところに見いだせる。
□マップから分かること□
昨年あたりから個人的にずっと気になっていたこととして、これまでだったら[A-B]の象限だけを考えていれば良かったんだけれど、それだけではコンテンポラリーダンスの状況を語りえないのではってことで、それは[C-D]の象限の台頭ということになるのではないか。この象限についてまだあんまりみんなが意識できていなくて、少し混乱があったり、展開が消極的だったりするのではないか。[AーB]は優れていて[CーD]は劣っているという発想は、多分その発想それ自体が批評されるべき事柄になるだろう。「踊り子」がモダン的で、「同人」はポストモダン的なのは言うまでもない。
Bしか意識されていないのがダンスというジャンルの基本的特徴ではなかろうか。バレエ、日本舞踊、ストリートなど。そこに、やや強引にAの可能性をひらこうとしたのが拙書かもしれない。もちろん、Aの可能性を考えるよう促す存在が日本のコンテンポラリーダンスのなかに出てきたということもある。でも、AとかBとかを云々している場合ではなく、今後考えるべきはむしろCとかDとかの可能性ではないか、と現状認識することができる。