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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

『広島!』

2009年03月20日 | 美術
Chim↑Pomの新作展覧会『広島!』が22日まで行われている。事件云々ではなく「作品」としてこれを見ること、個人的に勧めます。「あの、あれか」といったネタ的な消費は、あの事件の性質とは言えても、Chim↑Pomの作風とは言えない。すべてのフライングめいた発言をネットなどに書き残したひと、ネタとしてワイドショー的にこれをとりあげたひと、「ピカッ」を作品として、Chim↑Pomの批評をして欲しい。

「ネタ的な消費」の不毛から逃れるためにぼく達が出来ることは、作品が自分に与えた衝撃を大切にすること、そこから言葉を見つけ、そこからしか言葉を見つけないようにすること、それしかないのではないか。「作品」を論じるのが批評の仕事だとすれば、ぼくはこの日が来るまでは何も言うまいと心に決めていた。「ピカッ」騒動を語るのは、ぼくの仕事ではないと感じていた。あと、いっておくべきは、ぼくはChim↑Pomの応援団ではない。少なくとも批評の立場でぼくがしているのは、そういう全面的な賛同者としてというものではない。ダメだったらダメと書く。けれども、そう書く時、そのぼくの言葉は、また誰かに批評される可能性がある。そしてその批評の批評も誰か別の視点からの批評の憂き目にあう。

昨日、展覧会と同時に発売されていた『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないか』には、「戦争反対の反対の反対」という言葉が帯になっていた。こうした反対を累乗化していくように、批評を累乗化していくこと、それしかひとの出来ることはないんじゃないか。まだ中身は読んでいないのだけれど、広島での展示が不可能になってから、彼らがずっとしていたのは、被爆者・被災者の方々とコミュニケーションをとることだった。こういうプロセスこそ、彼ららしい。そういう労を惜しまず生きることしか、ぼくたちに意味のある生き方はないようにさえ感じる。

その後、六本木スーパーデラックスに駆けつけ、ボクデス『スプリングマン、ピョイ!』を見た。Bestというよりも、全部盛りという印象。何度あったか、5回ほど休憩を挟みながら、ソロのパフォーマンスを続けていく振る舞いは、「おっさん」風情をみせつけていた。ボクデスがしばしば力説する論理性は、ようはだじゃれの積み重ねであり、その点もおっさんぽいのだけれど、何より、そうしただじゃれのネタが80年代的というか、単に古いというよりも、ある世代のある種の傾向を強く感じさせる。簡単に言えば、テレビ的なものということ。舞台の両脇に、「休憩」などを表示するブラウン管テレビが置いてあるのはその象徴で、ネット的なものというよりはテレビ的なネタが何度も何度も置かれていく。本人も恐らくファン達からすれば、「テレビの人」だ。全体として、近年まれに見るテレビ的なテイストの作品。そういうのが好きな人のための和やかな公演だった。裏原宿から六本木という流れで見たからといって比べるのもなんだけれど、ボクデスは、Chim↑Pomと関係ない存在だろう。ぼくは、『Review House 02』に「彼らは「日本・現代・美術」ではない」という論考を書いた。会田誠のアイロニー的な作品を批判する一方で、遠藤一郎やChim↑Pomはそうしたアイロニーとは似て非なるものであると論じた。この日のボクデスは、アイロニーを濃厚に感じさせた。「なんちゃって!」といった振る舞いは、すべてのまじめをふまじめにし、すべてのふまじめをまじめにする。だからよいともいえるし、だからだめじゃんともいえる。ともかくも、そうした振る舞いとChim↑Pomを同列に語ることは出来ないし、そうするのは危険なことにも思う。残念だったのは、新作を見ることが出来なかったこと。ぼくはムニャムニャ君が好きなんだけれど、もっと乱暴に観客を想像力の冒険に誘って欲しかった。河童次郎は、あたふたするのが真骨頂だと思うのだが、そのあたふた状態が真に熱くなるまでの間をつくらずに終わってしまって残念。30分くらいやってもよかったのではないか。(音がバンド名)が2時間半やるのに比べると「ショー」だよな、と思う。いや、「ショー」として人気が出るのかも知れない。コンドルズみたいなファンがつくのかも知れない。

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