Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

極私的ベスト5(3/16付)

2009年03月16日 | Weblog
第1位安室奈美恵「Dr.」
素晴らしすぎ。名曲。今年は、ユニコーンの「WAO!」といい、よい曲がよいと評価されるまっとうな年だ(といいなあ)。Perfume人気のやや80年代と90年代のノスタルジーが含まれているのと比べると、圧倒的に今日的で前向きな印象を受ける(Perfume好きだけど、けど「ワンルーム・ディスコ」はどうなんだろ、リサーチ曲という気がしてしまう、というか、徹底的にリサーチするとこういうテーマじゃなくなるんじゃないかな)。Aと一緒に一週間前に、横浜アリーナで彼女の公演を見て、本当に興奮し感動してしまった。アイドルって本当に、人びとに力を与えてくれる存在なんだよね。性欲を満たすとか、そういうのアイドルっていうのちょっと狭いよ、ずれてるよ、って普通の批判を述べたくなります、いまの安室のパワーに乗っかって。どうも、曲の途中に2回はいる「タッ、タタタタッ」ってリズムのところは「ボレロ」を素にしているらしいんだけれど「ボレロ」というよりマーチとか「軍隊的」なイメージがありますよね。この展開がなんだかとてもクレイジーでいいのです。それでいて、「あの時の言葉を消して/二人を未来へと繋げて/give me a chance」と歌う辺りは、なんだか初期の曲調にも聞こえてくる。あの頃「Chase the Chance」と歌っていた安室がいまもまだ「give me a chance」と歌っていることのなんともいえない切なさに、この十年の社会の停滞とかも透かし見てしまう。

この曲は、ライブでは確か、テクノな銀色のスーツを着て踊っていたんです、それでPerfumeのことを重ねて見ていました。そのときの安室のダンスはストリート文脈のもので、2009年らしいのはテクノなPerfumeの方だと思うんだけれど、躍動的で人間味を残しているダンスはそんなに悪い気がしなかった。というか、2時間半、踊り続け、歌い続けなので、ただただ圧倒されてしまった。

ところで、3/6に快快の「MY NAME IS I LOVE YOU」を見たんですけれど、ゲネプロだったので善し悪しは正直判断つけられないところがありました。改善の余地がたくさんあったのは事実でした。けれども、未来世界の渋谷に徘徊するダッチワイフのロボットというのが登場人物でいたんだけれど、これ見ながら、なんだか未来の話だけれど、すごくリアルだなあって思って、こういうキャラとかテーマとかいまの彼ららしいなあと好感持ちました。そのリアルだなあって思ったというのは、彼女達の客へのアピールとかサーヴィスとかはすべて「プログラム」化されたものだというところでした。いま、ぼくたちのメンタリティというのは、こういう話を聞くとSFだよなあとか、非現実的だなあと感じてきた昔とは違って、まあ、ぼくたちもそんなもんだよな、と受けとるようになってきている。ぼくたちの身体も神からデータを入力されたロボットみたいなものだよな、といった気持ちというのは、いまのぼくたちにとってそんなに突飛ではないだろう。90年代の後半くらいから、まさにアムラーの登場してきたあたりから、社会の流れとして個性とか自己肯定とかが推進されていった。それは努力云々ではなく私たち自身をその存在をそれ自体としてみとめて!肯定して!というメッセージが語り語られる風潮を生み出した。努力ぬきに存在を肯定するということは、がんばる能力というよりもそもそも備わった性能でそのひとの価値を決めるということを随伴していた。だから、実は「存在をそれ自体としてみとめて!」というのは、結構怖いメッセージだった。プログラムされていなければどんな努力しても出来るわけないじゃんという思考は、近代的な啓蒙思想に相反するものだろう、であるならば、それはまた教育というものは無意味、という思考でもあろう。その視点からすれば、ダメなやつはダメ、ということになる。

それは、脳を含めた各人の身体の肯定であるとともに、強力な否定としても作用するように思う。なぜならば、性能を持っているか否かが重要であるならば「やってみなきゃわからない」といった次元は否定されることになるだろうから。けれども、この「やってみなきゃわからない」ということこそ、身体の存在意義なのではないかな。いまWBCでイチローが苦しんでいるけれども、「やってみなきゃわからない」次元にイチローの身体もまた置かれているからだろう。イチローもまた苦しむことが出来るのである。ゲームというのは、そういう失敗する可能性のある身体があってはじめて成立するものだ。100発100中の身体には、ゲームは出来ない(といったのは前田司郎)。そうしたゲームの可能性としての身体を否定する傾向が、「ロボットとしての身体」「プログラムとしての自分」という思考のなかにあるとぼくは思う。

こうした2つの身体観が拮抗している時代として、いまを考えてみてはどうだろう。

安室は、そうした消せない過去を抱えて過去の自分に対して歌う。過去が示したプログラム(あるいは過去に書き込まれてしまったデータ)は書き直せないものなのだろうか、と。青山テルマも誰々も盛んに過去の恋愛への後悔を歌っている。それはどうしてなのだろう。追憶ほど甘いものはない、からなのか。追憶は裏切らないし、追憶はいくらでも解釈可能だからか。安室の「Dr.」はちょっと違う気がする。絶望の度合いが違う。歌のなかで「助けて」と叫ぶ。この叫びのリアリティが安室の人気なのだと思う。

「行き場所のない愛」こそ、ぼくたちの愛なのか。成就する愛は、しょせんプログラムが作動しただけのこと、であるとすれば、不可能の愛こそが、「ぼくたちの愛」なのであって、そのなかにだけ「ぼくたち」といいうる何かがあるということなのか。(ってちょっと雑誌に寄稿するみたいにまとめてしまった……恥)