Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

イチローと物語

2009年03月25日 | Weblog
昨日(3/24)、WBCの決勝戦があり、10回の表、イチローのセンター前ヒットによって二点差がつき、宿敵韓国に対する勝利が決まった。あらかじめこのようなラストエンディングのシナリオがどこかに用意されていたかのような、身震いするような結末だった(押さえで出場し、9回の裏に同点弾をゆるしたダルビッシュ有も正に「身震いした」とこの瞬間を語っていた)。この試合というよりも今回のWBC全体が、最後のイチローの一発によって、あまりに美しい物語へと結晶されていった。イチローの不振は、このエンディングを最も派手に輝かせるためにあったかのように、こう終わってしまえば、すべてはキラキラした思い出と化すのだろう。

ぼくたちはこうしてあっさりと忘れてしまう、イチローがずっと不振だったこと、そしてその様子を、見る側の呑気なぼくたちはイライラして見ていたこと。この「イチローの不振」は、何か面白いテーマだと思って見ていた。哲学的というと大袈裟なんだけれど、考えるに値するものが含まれている気がしていた。岩村だったか、今朝のワイドショーのインタビューで語っていたけれど、「イチローも人間なんだ」とみなが感じた。イチローが天才だとして、天才が打てないというのは、どう考えても概念に対して矛盾しているわけだ。だけれども、こうした矛盾が現に起こってしまうということこそ、ゲームなるものの面白さなのである。

この矛盾の原因は、イチローが身体的な存在だということにある。誰もがそうであるように。身体は、ダメな時もいい時もある。気まぐれなところがある。「調子」なんて言葉があるとおり、身体というのはとても不安定。しかし、この不安定な身体なしには、プレイは出来ない。

A 天分と努力のたまものであるイチローの身体は、性能としては天才である。性能(技術)からすれば、まあだいたい打席に立てば打てるはずだ(4割程度としても)。

B しかし、現実は打てるか打てないか分からない不確定要素を多分に含んでいる。単に個人の「調子」だけでなく、敵の「調子」「気持ち」「力」なども不確定性を高める。


スポーツというのは、このAという可能性とBという現実を可能な限りイコールにしようとする物語である。Aという性能が、未来の可能性としての勝利を夢見させる。そして、その夢がBにおいて実現するとき、それは勝利の実現であり、また夢の実現ということになる。スポーツは、ラストシーンで胴上げしている自分たちという絵空事を現実にしていく過程であり、敵もまたそうした過程を生きているわけで、ラストシーンがハッピーエンドである状態を互いに奪い合う、「勝利の物語」(A’)を「奪い合う物語」(B’)が試合であって、「勝利の物語」(A’)=「奪い合う物語」(B’)となることを目指すのがプレイヤーの仕事なのである。プレイヤーは、自分の性能Aを信じてその性能が最大限発揮されることA=Bを目指し、敵に対峙する。

このAもBも英語で言えば、「パフォーマンス」だ。performanceには、「性能」という意味と「遂行」という意味がある。「やれること」と「やること」はともにパフォーマンスと呼ばれる。「出来ること」(A)と、「やること」(B)と、「出来たこと」(A=B)あるいは「出来ないこと」(A≠B)はそれぞれ違う。それぞれ違う局面に、物語を喚起する要素がちりばめられている(例えば、A≠Bという「イチローの不振」なる事態は、イチローという才能はもちろんあるとして、しかし大将気どりをあらわにしたそんな男のふがいなさを世間に物語らせた)。Aは即Bではないということ、その間にパフォーマンスというものがそうとくにいわれる何かがあるのではないだろうか。あらためて辞書を見てみると、動詞形のperformは、per(完全に)+form(供給する)という意味があるという。

ぼくたちは、しばしばAを固定的に考えてしまいがちだし(「イチローは天才」など)、Aは即座にBを意味するものだと考えてしまいがちだし、もっとそうしがちだと言えるのは、AがBとイコールにならないと、すぐにAの主体をバッシングするということ。「ありえない!」などと嘆息するのは、まさにそうした思いがさせることだろう。けれども、そうは問屋が卸さないというのが現実というものだ。

それでもプレイヤーは夢見る。他人がこのA=Bという式を夢見ていることをプレイヤーは夢見る。そして、その夢にうなされながら、どうにかその夢が単なる夢ではなくなることを勝利という現実を手中にすることを夢見る。舞台のパフォーマンスは、夢が現実になる必要はない。夢を夢として呈示できればいい(そのための現実の努力はスポーツに似ているかも知れない)。スポーツのプレイヤーは、物語の書き手であり、物語をフィクションではなくノンフィクションにする労働者でもある。いわば労働する書き手だ。作者としての彼らにさほどの苦労はない。けれども、この書き手は言った傍から現実へとその物語をダウンロードしなければならい。その苦労は、想像を絶する。

イチローは、最後の打席で、「いろいろなことを考えていた」と発言している。「無心」でいたかったけれど、そんなことは出来ずに、いま日本ではすごい視聴率なんだろうなとか、いまここで打ったらおれは「持っている」なとか、自分の現状を実況しながら打席に立っていたというのだ。イチローには見えていた、AとBが。「無心」というのは、AもBも意識せずにいられる状態のことだろう。ただ、バットがボールに見事ミートするその等号(=)の瞬間だけをイメージする状態なのだろう。イチローは、等号に集中せず分裂していた。分裂したままだった。それでも打てたということは、彼にあらたな成長を与えることとなった(といったことを本人は述べていた)。彼はつい「神」という言葉を漏らす。「持っている」という言葉を漏らす。「持っている」という言葉は、面白いなあ。イチローはよく使っていたな、松坂に対してとか。これこそまさにperformanceだよね。単に性能ではなく、性能を証明する遂行がなされたということこそ、イチローに「持っている」という言葉をいわせるポイントなのだろう。

なんてことを思いながら見ていた。見ている時には、Aとくだらないおしゃべりをしていた。突然、応援するチームを変えてみることは出来るのか、とか。延長戦が決まった辺りで、眠くなって、横になったりした。ぼやぼやといい気なものだ、応援する側なんて。ぼくはあのセンター前に飛んだ(ほとんどテレビ画面を見るこちらに飛んできた)あのボールを、あの一瞬をぼくはいつまで覚えているのだろう。前回のWBCのこととかほとんど覚えていないもんなー。いい気なものですわ。

昨日は夕方、同僚の先生とご夫人とAとぼくとで新百合ヶ丘にてご飯を食べた。1年がようやく終わろうとしている、なんて気持ちになった。