Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

セッションハウス レジデンスアーティスト公演 「4 [four]」

2008年07月21日 | ダンス
7/20
鹿島聖子「17」
杏奈「嗚呼(仮)」
ホン・ヘジョン「Hybrid」
鈴木ユキオ「言葉の先」

鈴木の作品は、ソロ。冒頭舞台奥に尻を突いて倒れた姿から始まる。基本的に四つのシークェンスに分かれており、正面向き、横向き、後ろ向き、舞台奥から前進する。舞台の中央に四角くライトの当たったところがあり、そこに入って出るまで。鈴木は身体の質が問える(動くことの動機へ見る者が関心をもつことの可能な)希有な存在、その身体がじっくりと堪能出来た時間だった。

(3)コクトー『オルフェ』(1949)

2008年07月21日 | Weblog
7/21
コクトー『オルフェ』(1949)
亡き妻を、彼女を「見ない」という条件によって取り戻すが「見ない」ことが出来ずに失うという竪琴奏者であるオルフェウスをめぐる古代ギリシア神話を元に作られた作品。昨日の『美女と野獣』についても書いたように、コクトーは「見ること」の作家である。それについては、谷川渥(『鏡と皮膚』)や宮川淳(『鏡・空間・イマージュ』)などがすでに解明した歴史がある。死の世界は鏡を入り口に現実の世界と繋がっている。この鏡にまつわる様々な映像的な仕掛けがこの作品を見る楽しさになっている。ぼくは、仕掛けのなかでも「逆回し」が気になった。死神が何か現実の世界でまた死の世界で魔法をもちいるとき、その働きはしばしばフィルムの逆回しによって映像化されている。とても素朴な技法だな、とはじめは思っていたが、次第に何か本質的な問いが開けてくる「入り口」のような気がしてきた。妻を救出しに鏡を通り抜けるとき、主人公の詩人(ジャン・マレー)は、手袋を嵌める。この嵌める場面が「逆回し」で映像化されている。つまり、手袋を脱いでゆく手が撮影され、それが映画内で逆に回されるので、手袋を嵌めている場面に見えるのである。しかし、まず不思議なのは、ただ嵌めるだけなのだからとりたてて「逆回し」にする必要はない気がする。それにもかかわらず、この技法をあえて採ったのはなぜか。うまく言えないのだけれど、すでに終わっている時点から始まりへと遡る、その時間的逆転を体験させようとした、それが理由なのではないか。死から生へ、終結から発端へ。そして、それは映画というジャンルがもっている「終結してしまった(撮影され終わってしまった、過去になってしまった)出来事を再生する」というフォーマットを自覚させるような、そんな手法であるような気にもさせられた。そう、そうなのだ、どうしようもなく芸術というものは自らの術を媒介にして自らの語りたいことを語るほかないのであり、死と生の境界を説く映画は映画というものの死と生を語ることによってしか(例えば「逆回し」という手法を顕在化させることによってしか)、それを説くことが出来ないのである。さらにいえば、美学的に見ることを解明する際に、『オルフェ』はまず何よりもそれが上記したような映画というフォーマットの問題に自覚的に取り組んでいくことは、無視出来ないと思うし、それが加味されたときどんな美学がたちあらわれるのかと(なんだかとても漠然としているけれども)考えてしまう。
あとは備忘録的に。美女とは何?見ないことを許さない存在/若い詩人が書いたという「ヌーディスト」という詩集は白紙の冊子/『美女と野獣』にも出て来たタイムワープの道具としての手袋とは?→手袋=リバース/若者映画