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リアリズムを追求していた「もののけ姫」あたりのとはずいぶんと大きく異なった、マテリアルな感触(クレパスな筆致のテイストとか)とアニメーション的なダイナミズム(海のうねりのへんてこなヴォリューム)とが、まずともかくも驚き感動させられたのだった。ファンタジーは暴走をひらくものであって、それが例えば異常な心理であってもなんらかの通俗的に流布している神話を再生するといった類の装置であるひつようなどはまったくないのだ、という表現の「原点」とでもいう他ないことがらをストレートに示してくれる。要は、この映画はクレイジーな暴走そのもの、そしてそれをみんなで見るというとてもなんというか健全な時間が夏休みの子どもたちばっかりの映画館に流れているのだった。最大の暴走は、恋の瞬間を描くということ。この映画をみた子どもたちは、ロストジェネレーションの女の子たちがみんな自分をナウシカだと錯覚したように、自分をそうすけかポニョと錯覚し「恋」をすることへのファンタジーを抱き続けるだろう。イケてるかどうか(神話に乗っかれているかどうか)を云々する類の恋ではなく、他人に触れてそれに巻き込まれてどうにもしようがなくなってしまうというブルトン的な恋を、狂気の愛を抱き続けることだろう(そうかあの大嵐のうねる波は、ひとを巻き込んでいく恋のうねりか)。魚が人間になるということは、これはポニョという存在から人間をもう一度やり直していくことなのか?そうすけがポニョにいろいろと教えるその身振りからは、人類をこの聡明な男の子のような存在からやり直したいという宮崎の思いを受け取った。「ポニョ」と命名するのもそうすけだし。ポニョが自分の魚としての名前を拒んで自分はポニョなんだと宣言するところも、そういう創世記的なことを感じさせた。