Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「ろくよん」「しぶろく」を生きる時代

2008年07月13日 | Weblog
7/12
Chim↑Pom→ヤナイハラミクニプロジェクトとはしごをした帰り、井の頭線に乗る。なんてことないいつもの土曜の夜。込んでいた。立っていると、前の女の子に足を踏まれた。ほんの些細な接触。「踏んづけられた」ほどではない。けれども、「触れた」程度ではすまない痛み。いや、これは物理的痛みと言うよりも精神的な類。で、彼女はどうするのかと思って、こちらとしては、振り向き掛けた相手を無視するのもあれだと思いつつ、なんとなく「目は遭わせぬがそちらの方に向く」くらいで応答、していたつもりだが、彼女ははっきりとした何か言葉を発することなく、ほぼ「無視」といった振る舞いへと自分を決め込み、友達と「こんでていやだネー」的な会話へと潜り込んでいった。

なーんてこと、よくあると思うのですが(説明分かりにくいですかね?)、こんなときにある演劇、こんなときにある社交、こんなときにある関係にこそ、興味があったりする。芸術表現なんかよりもこうしたときのひとの振る舞いの方がよっぽどリアルじゃんと思ったりする。当たり前か、リアル(現実)そのものなのだから。じゃあ、もうぼくはこういう現実の演劇だけを楽しんでいよっかな、なんてことも思う。あるいはこういう日常の演劇と舞台上の演劇との間にある違いって何だろとか思ったりする。

そう、ぼくはこの女の子の「無視」は、演劇だと思うんですよね。

「誰かの足、踏んだ!」→「あ、向こうも踏まれたと思っている」→「ちょっと見てみよ」→「やっぱなんか相手の男、意識してるぞ、、、」→「「無視」することにします」→「友達と喋っちゃお」

というプロセスの中にある心理劇。これをしばらく解釈していたんですけど、彼女は二重に気を遣ったのでは、と考えました。ひとつは、

(1)踏んだ、悪いコトした!

というポイントで。もうひとつは、

(2)踏んであやまんなきゃいけないかもしれないけど、ここ(電車の中)で「すいません」と声をあげるのはKYだぞ!「すいません」なんてあやまったら「あやまる/あやまられる演劇」をしなきゃいけないから、自分もめんどいけどこの男にも面倒を掛ける

というポイントで。
まあ、興味のあるのは、もちろん(2)のあり方なんですけど、あの女子大学生らしき女性はあやまる作法を知らない訳ではないと思うんですよ。なぜかというと、ぼくがいま勤めている女子大学では、何か相手に気を遣わせたり自分に非のあるときはまあたいていの学生は謝ります、謝れます。いまの若い者は、あやまることを知らない!なんて話ではなく、謝ることは知っているはず、でも謝らないことがある。つまり、電車の中で正しいのは、足を踏んだら謝ることではなく、足を踏んだらあやまんなきゃならないけれど、あやまると電車でのくうきが読めない身振りになっちゃうので謝らないことなのではないかと思うんです。何かが正しいか否かを決めるポイントは、道徳的な規範ではなく場の空気にある。道徳的な自分を脇に置いてまで、貫かねばならない正しさが、「くうきを読む」ことの内にある。

それに対する僕の返答は、

「なんかめんどくせー」

です。はっきりいって。謝ればいいじゃんと思います。そういうおおらかさがない世界ってキツイよなと思う。地方にいけばそんなことは無くなっていって、気軽に声かけ合ったりするのだと思うのだけれど。

でも、そんな話を明大前の広島風お好み焼き屋でしたら、Aは、別の解釈を提出してくれたのでした。

つまり、彼女曰く、その子が謝らなかった理由として、もうひとつあり得るのは、自分が足を踏んでしまったのは、自分が悪いんじゃなくて、自分の足の辺りまで足を伸ばしていた相手の男の方が悪いと思っているという可能性だと。んーなるほど。踏んだけど踏むようなことしたお前が悪い!というわけです。確かに、込んだ電車の中で、踏む足が悪いか踏まれる足が悪いかは、きわめて微妙。もうほとんど「6:4(ろくよん)」あるいは「4:6(しぶろく)」です。「ろくよん」で相手が悪いなら謝る必要はない。「よんろく」で自分の非が大きければ謝ってもいいけど、、、。

なるほどなー。この「ろくよん」と「しぶろく」への感性がいまの世の中なのではないか!なんて思ってしまいます。どっちが悪いなんて永遠に分からない、完全に正しいことも完全に間違っていることも世の中にほとんどない。「大きな物語」の失墜とは、正しさの失墜だろう。だとすれば、どっちもどっち、という感覚のなかでぼくたちは生きている。「ごぶごぶ」でもないと思うんですよね。そういうダブルバインドよりも、勝ち負け的なマインドが支配的なわけで。「ろくよん」か「しぶろく」かは、解釈次第ってところがあり、まさにそうした解釈に委ねられてしまう今、というのが「諸現実の時代」というものの証左ではないだろうか。

Chim↑Pom、ヤナイハラミクニ「5人姉妹」

2008年07月13日 | 演劇
7/12
ようやく講義がほぼ一段落した(國學院の講義を月曜に一コマ残すのみ)。あ、ゼミはもう一回残っているか。ゼミでは学生と雑誌を読みまくってきた。なにかしらぼくの中で、彼女たちの視点が内在化してきたような気がする。いずれ、どんなゼミだったのか書き残しておきたいと思う。

午前は引っ越しダンボールをともかく片づけまくり(といってもまだまだ30箱は中身が詰まった状態で部屋に、廊下にある)、午後に恵比寿へ。Nadiffが再開した。小径を下って、ひょいと曲がる。と幽霊が出てもおかしくなさそうなアパートの隣に目新しいビルが建っていて、その地下にChim↑Pomの最新展示があった(Nadiff a/p/a/r/t)。「日本のアートは10年おくれている」というのがそのタイトル。ホワイト・キューブではなく、そうなる前のコンクリむきだしな空間に、スプレーで落書きがいたるところにしてあり、真ん中には、ションベン小僧がおしっこし続けている。床は水浸し。工事現場の足場を通路にして、そこから観客はその「いたずら者が夜中したい放題をした現場」みたいな場所を眺める、という作品。あまり、ぼくには正直「ピン」とこなかった。タイトルがそうであることにひっぱられ、「(日本の/世界の)アート」を相対化するような作風と解釈されがちなことだろう。けれども、不断に相対化するべきは、自分たち自身ではないだろうか。「アートを相対化するアーティスト」とみなされることは、Chim↑Pomを「アート」というものの内部で理解されることになろう。要するに、これを見た観客の多くは、こうしたタイトル、展示だと「ああこれがうわさのChim↑Pomかあ。なるほど会田誠の弟子たちという話の通り、偽悪に満ちていて、いまどきのアートって感じね、、、」と安全な、安易な解釈を容易に誘発してしまうことだろう。上階での書店の売り方と連動して、そう見られてしまうだろうことに、なんともいえず苛立ちをぼくは感じてしまった。むしろするべきは「アート」についてではなく「自分たち」についてであるだろう。自分と恵比寿とか、自分と書店とか、、、。そうした「自分たちへ向けた不断の相対化」こそがChim↑Pomの恐ろしさ、爆発力だとぼくは思いこんでいるのだけれど。「万引き」とか地下に書いているならば、是非、展示期間中Nadiffで彼らが万引きしたものを最後に展示会場の水たまりに放り投げるとか、そのくしゃくしゃになった図録だかから何か作品をつくり上げるとかして欲しいものだ。

帰り道、Aがアイスクリームのなかに鯛焼きを乗っけたカップをもつひととすれ違う。そ、それはなんだ?ということになり、うろうろすると、こんなところに!というところに、鯛焼き屋を発見。美味でした。Nadiff帰りの定番になりそう。

夜はアゴラ劇場でヤナイハラミクニプロジェクト「5人姉妹」を見た。
矢内原の「演劇」をみるといつも思うのは、演劇というのは、絶対的な存在である台本に対してそれをどう役者に読ませるのか、その形式に対する遊びなのだなということ。少なくともそこに「演劇」の遊びがあり、少なくとも矢内原や岡田は、あるいはファイファイなどは、そこにある「演劇という遊び」を遊ぼうとしている。さて、矢内原の「遊び」には、ではどんな特徴があるかというと、ぼくには、それは「漫画」のモードに近い何か、という気がするのである。以前「青ノ鳥」をSTで見た時にも、そんなこと思った。ギャグマンガや少女漫画(ラブコメ?)を実写でやろうとしたら、吹き出しなら一応収まる長いセリフは、役者に喋らせようとしたら、超早口でないとリズムが出ない。コマ割りのテンポが出ない。だから、ガンガン早口でどんどん展開する。過剰な舞台上の動きも、そうした漫画モードとして見るとそんなに違和感なく見られる。とはいえ、「漫画」を実演することがもちろん目標ではなく、いわゆる通常の「演劇」のモードを別のモードに切り換えてみること、切り換えても全然見られるし楽しいし、切り換えたって演劇じゃんということが言いたいというか、矢内原が最も言いたいことかは分からないけれども、そういうことになっているのではないかと思う。

そんで、ぼくは今回のこの「5人姉妹」を、とても楽しんで見た(とくに後半)。面白かった!5人娘のかしましい、かまびすしい感じからは、これまでの矢内原演劇の「群」のような役柄たちにはあまり感じられなかった類の「個性」が強く出ていて、それぞれの勝手な様子が演劇のキャラを読み取り味わう楽しみを与えてくれていた(前夜たまたま『ひぐらしのなく頃に』コミック版を読んでいたので、とくにそうしたゲーム的漫画的キャラ性に敏感になっていたこともあるのだろうけれど)。前半は、まだそうした個性が意識出来なかったのだけれど、一日6時間しか起きていられないという設定のひとりが目覚め、唯一の男である召使いを姉妹たちがいじめたおすあたりから、それぞれのキャラは見えやすくなり、激しい振り付けも、矢内原のスパルタ性(?)よりは、各個性がときおりはっきりと顔を見せる運動として、見る者が「つぼ」を得やすくなっていった。その「眠り姫」状態だったひとり(役名失念)の役者がなんだかとてもよかった。これまでの矢内原のダンス作品にも芝居作品にもいままであまり出てこなかったようなマイペース(おっとりさん)系(に見える)。そう、矢内原さんに縛られすぎないわがままさを役者がはっきしてくると舞台はすごく生き生きとしてくるのではないか。その点では、最初期の「駐車禁止」を見た時に感じた奔放さが、今作にはあったようにも思う。極めて一貫したテイストで構築された振り付けの完成度は、その時期以上に高まっているのはそうで、そうした点では明らかに異なっているのだけれど。

「アルプスの少女ハイジ」や「グリーングリーン」とか、世代を感じさせるネタよりも危うく交通事故死するところを助けてくれた「広島東洋カープのキャップを被って通勤するおじさん」という話の方がいいと思う。つまり、矢内原さんの世代から自ずと出てくる話題は、世代限定感を醸してしまうけれども(そして、そういうところに矢内原さんの実存というか作家性というかが色濃く出てくることになるのだけれど)、むしろ世代に閉じないネタこそ、舞台を推進させていたのでは。ぼくはそうした方向に突き抜けていく矢内原作品が見たいし、そんなこと平気で出来るひとのように思う。シリアス傾向が強くなって観客が固まっていく作品ばかりが矢内原さんの本領ではないはずで、簡単な言い方をすれば、ラブコメも出来るひとなのではないか、今作を見て、そっち方向への期待が強まったぼくなのであった。