Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

(2)ジャン・コクトー『美女と野獣』(1946)

2008年07月20日 | Weblog
7/20
夏休みの映画第2弾。あまりに、野獣=キモメン、美女が恋する男=DQNの図式がうまく当てはまり、最後までそのラインで読み切れてしまうので、面白いんだか困るんだか(本田透はこれ見ているんだろうか)。コクトーは、「見る」ことをめぐる作家といえるのだろう、現れる/隠れるの場である扉を含め、目や見ることに関わるシーンによって映画が進んでいく。間と言うよりも醜い男(醜い男は人間にあらずということなのか?)というキャラの野獣が、美女のことを見たいのに、見ると美女に見られることになるので、目を伏せ「見るな!」と叫ぶシーンは、その点で最も印象的。野獣の館にあるシャンデリアは人間の手が握り、内装の彫刻は時々目を開けてみせる。映像の美しさは耽美的とも言えるが、なにやらそうしたギャグ的な要素がつねにある。なんだか、そういうぼやぼやしたところがあるかと思うと、不意にとてつもなく美しいシーンが出て来たりする。最後の、イケメンに成り変わった野獣が美女と空を飛んでいく、摩訶不思議なラストには、『恐怖奇形人間』のラストに通じるところあり、と思う。ああ、なんという適当な感想文なのだろう。

A-things トークイベント

2008年07月20日 | 美術
7/19
夕方から吉祥寺へ向かう。京王線の聖蹟桜ヶ丘あたりで、自閉的な傾向のありそうな短髪のおじさんが乗ってきて、比較的すいている座席に座ると鞄から、まずは鉄道の写真集を取り出して、めくりだしたのだけれど、めくるというよりもパラパラまんがやるみたいな強烈なスピードでぱーっと紙を走らせ、そればかりか顔をその紙の運動にくっつけるみたいにしているから、明らかに読んでいるはずはなく、そうしたパフォーマンスに見てみないふりしながら魅了されていると、今度は、白いくまの小さなぬいぐるみを鞄から取り出してきて両手に取り、目の高さに掲げると、ニコニコ顔で踊らせ出した。あまりのことに、あまりの個人プレーに感動と爆笑が抑えられず、途中の分倍河原でぼくは降参、降りてしまった。いやあ、電車で他人を無視して化粧したりとか鼻をほじったりとかするひとはいても、ぬいぐるみ踊らせるなんて!と驚きまたなんだかうらやましいような気持ちになって、けれども、あれはきっとそうとう電車の中がくつろげなくて、その極端な反動なのだろうな、と思ったり、あるいはどこかで「見られたい」という欲求もあるのではないかと思ったり、考えが忙しくなってしまった。そういうハプニングがあり、南武線に乗りかえ、立川で今度は中央線に乗って吉祥寺へ。ギャラリー・スペース、A-thingsにて行われた近藤学さんのトークを聴くために。抽象表現主義の代表的作家であるデクーニングは、過去に描いた自分の絵画を部分的にトレースした、トレースペーパーをアーカイヴ的にストックしていて、それを組み合わせながら、それを元にして(しかし、完全にそれを写すというよりも創作の霊感源としつつ)描いていたのだ、ということの紹介が中心にある、なかなか刺激的な発表だった。デクーニングのみならず、マティスやボナール、ピカソにも言及して、モダニスティクな絵画の巨匠たちは、実はルネサンス以来の標準(Canon)なき自らの時代にとまどいながら、自分の作品を一種の霊感源にして、そこから複数回の制作を行うなどということをしたのだ、という話しもあった。標準なき時代に、画家は自らの天才を頼りにして縦横無尽な活躍をしたなどというイメージはかなり幻想なのではないか、むしろなんらかの仕方で自分を縛る規則を設定する必要があり、それがあって画家は、「強い主体」を顕示しなければならないなどと言う創作への不安から離れて、自らの制作の動機づけをえることが出来るというものなのではないか。この考えは、ぼくのタスクについての考察と重なる面が大きいと思って、とても刺激的でまた励まされたのだった。