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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「金森穣の新作」について

2008年07月19日 | ダンス
7/19
今朝も六時から北野街道。けど、さすがに4日連続の疲れが出ているのか、ジョグというよりウォーキング。今年はあまり夏休みという感慨がない。借りてきた猫みたいな気分、で土地にまだ慣れていないからか。この辺りは、城下町だったこともあるからか、小川が石造りだったりして、とても美しい。バリを透かし見る。

帰って、シャワーを浴びたあと、Realtokyo での小崎さん(面識無し)のコラムをたまたま読んだ。「コラム」という体裁の文章に対して「批評」の水準を求めるというのは問題があるかも知れないけれども、いくつか気になったことがあったので、メモを書いてみようと思う。

読むと、小崎さんが、金森穣を推したいのだが、推せるポイントはどこなのか書きながら探しているという印象をもつ。「探しあぐねている」とまでは思わないけれども、最終的にどこを推したいのかがぼくには明瞭に理解出来なかった。例えば、

(1)「ファン」の「意表を突」く「演劇性」や音楽の扱い、「見世物小屋」という語彙まで登場する「猥雑」さは、それ自体として、推すべきポイントではきっとあるまい。

あるいは

(2)小崎さん曰く「我々は時代の中で踊っているのか、踊らされているのか。前者だとしても、我々に真の主体性があるのかという問いは残る。後者だとすると、我々を踊らせているのは誰なのか?」などという問いを喚起させる「黒衣」の「支配人」と「人形」=ダンサーとの関係が次に説明される。この点は、きわめてバレエ的な主題(クライスト「マリオネット芝居劇場」などのテクストはもとよりロマンチックバレエの政治学というものは、つねにこのあたりのラインが問題になる)であろうと思う。また、その今日的な解釈が今日のダンスが生まれるひとつのトポスであることは間違いない(『ブレードランナー』への言及は新しい身体のあり方が示唆されているようだ)。問題は、「我々は時代の中で」というときの「時代」に対するアプローチだろう。

(3)ゆえに、小崎さんが推すのは、「時代」を映す鏡として、この作品が機能していたという点についてである。「現代日本の病は的確に捉えられていたのではないか。現実を映す鏡は、大人の手できちんと磨かれていた。」と小崎さんは述べている。この文章にあらわれる「きちんと」や「的確に」という言葉がこの文章を批評文ではなくコラムにしていることは間違いないが、つまり、出来ることならば、どう「きちんと」鏡は磨かれどう「的確に」現代の「病」が捉えられていたのか、「きちんと」「的確に」描写するべきだろうと思う。もしそうでなければ、この文章のすぐ上の文こそがその「鏡」を内実を捉えたものとなってしまうだろうからだ。「物語の途中で、「国産」「偽装」「毒」「期限」「CO2」などのカードが説明も脈絡もなく提示されるのは単純すぎて芸がない」。まじめに読めば、「芸がない」ことが「鏡」の本質となり、「子ども身体」(桜井圭介氏の呈示したキーワード「コドモ身体」を指すものだろうと思うのだけれど、わざと何か揶揄をこめて「子ども身体」などと書いているのだろうか、さもなければ編集者の手落ちか、あるいはダンス批評の言説などまじめにつきあわないという宣言か)の定義とさほど変わりのないものになってしまうではないか(と、ツッコミを入れるのは、批判のための批判みたいになってしまうけれど、ぼくが望むのは先のような「きちんと」「的確」という言葉の内実が知りたいと言うことだ)。

ぼくなりに考えてみた結果、小崎さんが金森を推している最大のポイントは、

「何よりも身体が伸びている。すなわち、体力と技術の極限までを用いて踊りきっている。」

というところにあるのではないか。「戯れ」ないで頑張っていると。でも、頑張っていればいいのだろうか?「ある評論家」という文章中の人物がいう「幼くてイタい」という言葉は、そのあたりに向けられてはいないだろうか(推測ですが)。ぼくは頑張っているからそのひとを見に行くという「応援団」的な気持ちで観劇するタイプの観劇はやめました。「応援団」的な観賞がこれまでのダンス公演を支えてきたのは間違いないと思うのですけれど、ぼくはやめました。「体力と技術の極限」というとき、それは主観(各ダンサーごとの極限)にもとづくのか客観(ダンスの極北にある例えばフォーサイスが引いてしまったラインとしての極限)にもとづくのか、ぼくが「頑張る」という言葉を用いているのは、今整理した「主観」の「極限」の方を指して「極限」という語を小崎さんが用いているように思えたからです。もしそうでない「客観」だとすれば、金森はフォーサイスレヴェルに達したという話になるのですが。

(1)も(2)も正直、新しいか古いかで言ったら、「古い」観点だろうから(「見世物小屋」って60年代ですよね、ぼくは『恐怖奇形人間』をまず連想します。そのものズバリをあげるのならおととい見た1974年の『田園に死す』はベタです。「ブレードランナー」は80年代ですか)。手あかのついた新しさを、身体を「伸」ばして「極限」まで踊るダンサーの上ににコーティングして作られた作品?ということならば、いままでの金森作品とそんなに変わらない気がするんです、が。

ぼくがこんな文章を書いたのは、別に小崎さん個人を批判したいためではない。全然そんなんじゃないです(とはいえ、「子ども身体」については、問題があるのではないかと。忙しいだろう編集者の単なる誤植であることを祈ります。あと「戯れ言」と書くのは相当挑発的だなと思います。ぼくは桜井言説の単なる擁護者ではないですが、このような発言の真意はもう少しクリアにして頂けたらと「ダンス批評」を名乗っている立場から思います)。ただ、ダンスを語る言語をもう少し高めていけないものだろうか、と常日頃思っているので、つい、です。あと、金森穣を推す言説をぼくはもっと読みたいです。ぼくはいま金森作品を見なくなってしまったのですが、誰かが的確な批評を書くことで、それを読んだことがきっかけで、また見に行ってみたいといつも思っています(そんな気持ちから「金森穣の新作」も読み始めました)。