Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

12/22

2007年12月22日 | Weblog
「ダンスの輪郭を求め紡がれる言葉」というタイトルで、artscapeに、ダンスに関連する本の紹介記事を書きました。

12/22と23には「関係者全員参加!ダンスクリティーク」があります。今日(12/22)は、大橋可也さん、明日(12/23)は神村恵さんと山田歩さんがプレゼンターです。

大駱駝艦『カミノコクウ』(@世田谷パブリックシアター)

2007年12月22日 | Weblog
12/20
国士舘大学の講義、最終。
荷物を自宅に置き、あらためて出かける。三軒茶屋へ。大駱駝艦。パンフレットにはこうある。

「あの日
ビッグバン以来
距離を食らい続け
距離を排泄し続けた
我々
遂にこの星から
遁走するに至った
そのモノガタリを
見届けて
聞き届けていただきたい…」(麿赤兒)

先週見た『カミノベンキ』の冒頭が、火打ち石を叩いて真っ暗闇に火花を光らせる場面だったように、先史というか古代というか「はじまり」にまつわるシーンがこの作品にも散見される。性交を連想させるシーンも、そうした「はじまり」を想起させる。ものがうまれる。その際の男/女の接触が描かれる。舞台美術や音響が徹底したあるトーンを、宇宙的で太古的なニュアンスを敷き詰める。ダンサーたちの動きは極めてシンプル。また、コンポジションがとりわけ重視される。そうであるが故に、「動」よりも「静」がきわだって、リズムとか間とかの生まれる余地がない。ダンサーは、あらかじめ描かれたイメージをただただ舞台上に具現するためのパーツとなる。『カミノベンキ』よりも一層静謐な舞台。正直、前の列の客のほとんどがコクンコクンやっていた。ある種の活人画というか、ほとんど展開や変化がない。無意味を徹底させる狙い?とさえ考えてみたくなる程に。ダンスを見る快楽は、最小限に切りつめられている。壺中天の方がその点でずっと魅力的だぞ、と思ってしまう。だから、その切りつめは若い壺中天メンバーに対する麿の父性的(去勢強要的)振る舞いににさえ見える。それと引き替えに彼らは何を見せよう(得よう)としたのだろう。身体が一枚の絵の内に吸収されていくこと、その暴力を甘んじて受け入れること、薄さに耐えること、、、最後の場面は、『カミノベンキ』も『カミノコクウ』も、中央に巨大なテーブル=小さな舞台が登場し、そこでスカートをめくる麿と3人の一角獣たちがくんずほぐれつする。そこで『カミノベンキ』では、周囲をその他のメンバー全員が囲み、椅子に座って各自オモチャをいじったり、携帯で舞台の四人を撮影したりする。『カミノコクウ』では、全員で白いカップを手に何か飲んでいる。非日常の舞台空間にぽつんと置かれたこの日常的身体は、ちょっと面白かった。携帯をしている女のダンサーは、足を組み腕を組み、まるで電車でよく見るOLのようだった。そのダンサーの素の体がそこにあった(気がした)。白塗りなのに。日常を営むの女の人と白塗りのダンサーはギャップが埋まらぬままそこにひとつの体の内にある。その違和感から解釈可能な様々なことがらが、舞踏の今後そのものなんだろう。