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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

大晦日

2007年12月31日 | Weblog
12/30
『火宅か修羅か』を見るのは、2度目だったと思うが、やはりとても良い作品だった。温泉旅館にて、二組の団体客が待合室の2つのスペースを共有している。一組は、母親が15年程前に交通事故で亡くなった三姉妹の居る家族、父は再婚相手を娘たちに紹介する。もう一組は、13年前に高校時代に友人を海で亡くしたボート部の同窓会、かつての恋人と事故で生き残ってしまった友人もいる。火宅(仏語。煩悩(ぼんのう)や苦しみに満ちたこの世を、火炎に包まれた家にたとえた語。法華経の譬喩品(ひゆぼん)に説く。現世。娑婆(しゃば)『大辞泉』)か、修羅(醜い争いや果てしのない闘い、また激しい感情のあらわれなどのたとえ『大辞泉』)か、というタイトルの言葉の強さとは異なり、舞台は日常的なテンションで進む。ただ、そうであるからこそ、恐ろしいくらいの、個人の心の中に潜む嵐のような葛藤を目には見えぬまま、想像可能にする。「心の中」が不可視のまま、舞台に立ち上がる、それにに驚く。ただし、その希有な、火宅か修羅かを秘めた「心」の出現が起こるのは、日常的な対話の社交性を一歩踏み出してしまってはじめて可能なのである。青年団の戯曲は、決してその意味で単なる自然主義(リアリズム)ではない。むしろ今回思ったのは、青年団の中にある演劇性である。二組のそれぞれの人物の葛藤が吹き出すのは「余計なひとこと」があってこそ。隣の会話を聞いてしまう。聞いてしまった心の動揺を隠すことが出来ず「お友達が亡くなったんですか」などと踏み出した発言を家族の組の一人が漏らしてしまう、例えば。そんなことは、日常ではまず起こらない。でも、そうすることで、二組を分かつ薄い膜をちょっと揺らし時に突き破ることで、内面の出来事が召喚される。他にも、見てみないフリとか、逆にちょっと他人の振る舞いを意識するとか、ささいだけれど「ことさら」な身振りが、青年団の芝居を自然主義ではない、演劇的なものにする。そこをずっと面白く見ていた。

『バレエ・リュス』は、ニジンスキーなどを輩出したディアギレフ時代の話ではなく、むしろ彼が逝去してから、1929年以降の展開をフォローした、ドキュメンタリーだった。一旦解散したロシアの前衛的バレエ団は、31年、ド・バジル大佐とルネ・ブリュムによってバレエ・リュス・デ・モンテカルロという名で再建される。この新しいバレエ団が内部分裂を起こし、またアメリカへと亡命し、戦後に生き延びつつも、62年に空中分解してゆくまでが、当時のバレエ・ダンサーたちを中心に語られていく。振り付け師や興行主は次々変わる。だが、バレエ・ダンサーは変わらない。ダンサーがいなきゃ舞台は成立しないのだから。ダンサーたちの語りは、翻弄された彼らこそがバレエ・リュス(デ・モンテカルロ)そのものだったことを告げていた。80才を超えてなお、メンバーたちの身体には、「バレエ・リュス」的なメソッドがちゃんと内在していたりする。貴重映像満載(できれば、細切れにせず、もっとじっくりと見られるものにして欲しかった)で見応えありでした。