Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

雑記

2007年12月30日 | Weblog
12/30
これからアゴラ劇場で、青年団「火宅か修羅か」、その後、「バレエ・リュス 踊る歓び、生きる歓び」を見る予定。これで、今年の観劇、見納め。

12/29
ちょっと休みたいモードが高まり、忘年会のお誘いに行かず(八王子の学生くん、ごめん!)、ジョギングとプール。

鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』(平凡社)が届く。
ぼくは鈴木さんのファンだ。もうシンプルにそう断言したいのだ。この本、ひらくと最初にこんな一文を読むことになる。

「文学などどうでもよいと断言できる誰かのために、この書物は書かれた」

鈴木さんは、動詞を受動態にすることが多い。受動態「られた、された」などは、主体を曖昧にする代わりに目的語が主語になって、ものの存在感を際だたせる。しかし、そうであってまた鈴木さんの文章は、いつもキレのいいハンドルさばきで爆走する。

「テクストはそこで、作品の匿名性にゆだねられてはならず、書く「私」、受け取る「あなた」を巻き込んで機能しなくてはならない。そしてシュルレアリストたちが常に複数であろうとしてのは、書き手からテクストへ、テクストから読み手へという健全で白々しい回路が乱調をきたす空間を作り出すことで、テクストがその外部と取り結ぶ特異な関係を誘発するためだったのではないかという予感が、私たちの出発点である」

など、と続く。「私たち」とは、ぼくも含んでのドライヴのこと?と喜びつつ、さらにこう進んでいく。

「作品と私的エクリチュールとの中間のどこか、そのあやうい場所でだけ、「私」と「あなた」はともにあることができる」

激しいエンジンの爆音を聴くのように、そんな言葉を読んで、さらに読み進める。

12/28
佐々木さん、大谷さんと『ベクトルズ』忘年会。雨の降る中、夜中になってぞくぞくとテープ起こしなどお手伝い下さった方たちがいらしてくださる。来年の計画も幾つか話題に。大谷さん、やろうね、それほんとに。

12/27
神村恵さんが、この前の蛇の穴、ダンスクリティーク企画で、話してくださったことが、ずっと気になっていた。つまり、いまの作風に至る手前の段階で、彼女は自分が思い描く理想のイメージと現実の自分が出来ることのギャップに悩んでいたというのだった。彼女が当日配ったレジュメには、こうある。

ダンサーとしての課題=イメージが身体を置いて先走ってしまう。2つが結びついていない。

・できることを確実にやる稽古
 イメージを追うより、実際にできている動きや身体を把握すること、実感すること

「自分が思い描く理想のイメージ」が具体的にどんなものであったのかは、聞かなかった。聞くべきだと思ったけれど、なんとなくぼくなりに「こういうものかな」と想像をしてしまったので、あえて聞かなかった。彼女は幼少の頃からバレエを習っていたのだという。すると、そのイメージはバレエ的な何かを指すのではないか。妖精のような、軽やかで、柔軟な運動のイメージ。バレエをならうひとはきっと全員憧れる(憧れる以外の選択肢は用意されていないのだろうし)。けれど、誰もがそれを自らのものに出来るとは限らない。そこには、厳しいハードルがある。テクニックとか努力でカヴァーできない部分がある。もし、世の中にバレエしかダンスは存在せず、バレエ的な運動にしか人間が魅了されないのだすれば、その時点で、神村さんは、ダンサーにはなれない、ということになってしまうのかもしれない。

けれども、そんなことはないのだ。神村さんは、まず自分が出来ることを明確にしていこうとした。そして、いま自分が生きている時空を「確認」することに重点を置いた。そこから、観客や自分自身の予期を裏切る手だてを見出していく。そうして、新しい、「神村恵」というダンサーからはじまるダンスが生まれようとしている。また、そこにあるのは、「理想のイメージ」に対する到達度でよい/わるいを判断するのとは異なる(多くのダンス公演の鑑賞は、そうした「到達度」を見るものになりがちだ。だから、しばしば観客はダンサーの父的なポジションから「よかった/わるかった」などと思いがちあるいは発言しがちになる。本当であれば、そんな傍観者の立場に観客を置かずに、自分たちと緊張感ある関係へと観客を誘い込むべき、と思うのだけれど)、舞台と鑑賞者の間をスリリングに揺さぶる観賞体験である。

「理想のイメージ」の体現者になれた者は、幸いだ。それはそれで、そのイメージを最大限、クレイジーなくらいにドライヴさせて欲しい(バレエにはバレエの、恐ろしいほどの誘惑性と陶酔性があるのだから)。けれども、すべてのダンサーが、その幸福を享受する必要はかならずしもないんじゃないか。つまり、神村さんのように自分の身の丈から出発してもいいはずだ。ただ、それは自己愛、自己信頼を出発点にすることとは違う。それは、自己満足に終わるか、そのひとを愛好する親族の、あるいはファンの集いのようなものを生むばかりだろう(それでも、自己満足がそうした広がりへと発展出来るなら、それはそれでアリなのかも知れないけど)。

神村さんはいわばトラウマ的(と言ったら言い過ぎかも知れないけれど)な経験から逃げず、そこにきちんと向き合うことで「次」を、次の進むべき道を見出そうとしている。それは「傷」があれば良い作品が生まれるなんて単純なことではない。ただ、傷つかないと(自分のしていることをクールに見定める経験がないと)得られないものはあるな、と思わずにはいられないのだった。この傷は、自分を相対化し、そればかりか理想的なイメージをも相対化するようひとに促すだろう。