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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

岡田利規「ゴーストユース」

2007年11月25日 | Weblog
11/24
夕方、原稿をなんとか編集の方に送り、一段落。ジョギングに行く。今日は全然走れないのだった。5kmを30分、ときどき歩いてしまう。二日連続走れない。走ると肉体的のみならず精神的に疲れていることが分かる。足がぐずる。精神的なポイントでぐずっているのが分かる。などと走りながら自分をふり返る。秋の冷たくなってきた空気を、林の脇のきれいな空気を飲み込んで走る。

写真は、原稿のために買った資料。この『Cawaii』の表紙がいつも机の脇にある。最近、このモデルさんたちのような、かわいいとされる若い子のかわいさがわからなくなった気がする。何度見ても、惹かれないのだ。ど、ど、どうしよう!

ジョギング後、急いで淵野辺へ。「ゴーストユース」へ。以下感想文ですが、異様に長くなってしまったので(とはいえ1時間くらいで、書いたメモに過ぎません)、ブログなのに、番号ふって、小見出しつけておきます。

0.大学主催公演に思う(興味なければ、とばし読みを)
「ゴーストユース」は、岡田君が、桜美林大学の学生たちと作った公演で、なんというか多分、大学のさまざまな力の中から生まれたものだ。まず、会場(PRUNUS HALL)の立派さに驚く。昔、ぼくが大学生の頃、学生劇団の上演といって行くと、大学の教室だったり、狭いところを工夫して、しょぼくとも楽しい雰囲気で公演を作っていた。15年程前の話。今でも、そういうサークル劇団の公演は行われているだろう。でも、今回のように、こういう大学の強力なサポート、というか恐らくカリキュラムの一環で行われる公演というのも、いまの学生公演にはあるのだ。それは、学生にとってとても素晴らしい機会ではあるけれど(そんな簡単にチェルフィッチュに入団出来るものでもないだろう)、けど、その素晴らしさは、なんというか、自分が地道に活動してその結果得たものではないわけで、どうだろう、一番いい(かもしれない)瞬間をこういう形で経験してしまうことに、若干、かわいそうだなという気持ちを抱いてしまう。

いま、ともかく大学という組織は文化活動を行う団体の中で圧倒的に一番金を持っているのではないか。それは、「大学=いかないといけない」という幻想の基に成り立っている。ぼくも、それでお金をもらって生きている人間の一人ではあるけれど、その幻想を超えて、本当にいま考えるべきことを一緒に考えていこうという気分を学生も講師側も抱いて進めていけたらいいし、そうでないとちょっとマズイと思うし、そして実際のところはなかなかそのまずさから抜け出せないでいることの方が多いのが事実だと考える。佐々木敦さんの講義でも、学生とのつきあいに苦労していたりしているよう(ブログを拝見する限り)。あと、さっき菊地成孔さんの日記を見ていたら、国立音大の講義では、出席しなくても優を与えるから来たいものだけ来いということにしたら、ガラッガラの教室になってしまったようだ。写真が貼ってあった。いま学生は、大学に何を求めているのだろうか。大学は、人気取りにあくせくしているが、その空回りについて学生たち本人は何を思っているのだろうか。

1.自己反省する(メタ)演劇の到達点としての「ゴーストユース」
35才の主婦が日常の何気ないことを思ったり、夫や友達とお喋りしたりする、それを20才くらいの役者たちが15人くらい舞台に上がってやる、ということについての演劇。ほぼ全員がほぼ同じ台詞を、つまり主人公ユミの台詞をしゃべる。それで、ある台詞を絶えず反復することになる。一回聞けば大体分かる30秒くらいの台詞が何度も異なる役者によって繰り返される。それは、ソル・ルウィットのジャングルジムみたいな作品をぼくにずっと思い起こさせる仕方だった。同じだけど、空間の配置とか、役者の佇まいとか、照明とか、ビデオカメラの使用とかで若干の違いはある。けれども、ここに、役者の個性を感じる余地はあまりない。というのは、チェルフィッチュらしい体をぶらぶらさせる動きに象徴的な演出法がすべての役者にあまねく、ほぼ均等に入っているから。つまり、これは、あくまでも、演劇であって、仮に若者の身体性のリアリティを示そうと言うよりも、そういうメソッドを実行しているだけであって、当たり前だけど、ただの演劇であって、演劇が演劇を反復する、あるいは自己反省するということをかなり淡泊に進めていく、ということの一つの反映に見える。

ときどき携帯の画面をカメラで写して「私たちは35才に見えますか」とか「私たちが35才になったときにこういう主婦になれると思いますか」とか「私たちが結婚を望んでいると思いますか」などのような言葉をスクリーンに映していく。そうして、観客に、これが35才の主婦を20才くらいの役者たちが演じているのだと言うことを意識させる仕組みが設定されている。また、自分のこととして、役者たちは自分の名前を明かしたりしながら、観客に似たような内容について話しかけたりする場面もある。岡田君がここで目指したことは、明瞭に思う。35才を20才くらいの人間が演じているということのズレを消さずに意識してみて手下さい、ということだろう。そのズレを岡田君の戯曲は、実は35才の人間(役者)が20才くらいの自分を想像している、つまり35才が20才くらいの人間を演じている、といったようなねじれた設定へと反転させたりもする。そうして、また実に構造主義的にというか、さまざまな組み替えのバラエティが展開し、難解と言うよりも、複雑な舞台を作っている。この点は、きっと高く評価されるところだろうと思う。強烈な形式主義=ハイパーモダン、というか。演劇で行うリミックスの今日的達成というか。そう、なんだか音楽に似ているとも思ってみていた。背景音としてビーチボーイズとかかかっていて(あるいはハイラマズ)、そうしたところから、リミックスとかミニマルな反復とかは、ぼくにはすんなりと理解出来るものになっていた、し。

2.演出家・戯曲家と役者の関係は
ここまでで、感想終了!としちゃえば、いいのかも知れないんだけれど、見ていて、何だか途中からどんどん釈然としない気持ちになってきてしまったことは、嘘つけない。岡田君が20才の役者に対して戯曲を書くということに意識的であるがために生まれた複雑な構造なのではあるけれど、そしてそれが実に見事に戯曲化され、舞台化されたとも思うのだけれど、見事にいっちゃった分、結局これは、35才くらいの戯曲家・演出家の仕事にはなっていても、20才の役者の仕事にはなっていない気がしてしまうのだった。ずっと気になっていたのは、台詞のなかの人称名詞「私」は、誰なのかということ。それが「ユミ」という役柄を指している分には問題ない。けれども、携帯の画面に現れる「私たち」「私」とか、本人の名義でしゃべっている(ことになっている)ところに出てくる「私」とかは、一体誰の発言なんだろう、と思ってしまう。もちろん、これは実際の20才くらいの役者たちを指すものなのだろうが、そう設定されているのだろうが、しかし、そう設定されていることによってそう当人を指すことが出来ているという時点で、それは「演劇」というものの中にくるみ込まれた、これもまたただ「私」という「役柄」を指しているに過ぎないもの、なのではないだろうか。つまり、ぼくが言いたいのは、すべては岡田君が書いたセリフだろう、と思ってぼくは見たと言うことです。「私たちが結婚を望んでいると思いますか」なんて画面がディスプレイされたとき、ぼくはそれを役者たちの発言として受け取れなかった、戯曲の一部としてしか受け取れなかった、ということです。

つまり、岡田君が20才の役者たちに戯曲を書くという状況を真摯に考えたからこそ、ああした台詞が生まれたんだろうと思うんだけれど、20才くらいのひとたちのリアリティをぼくはそこに感じなかった。コラージュみたいに20才のリアリティがバチッと貼り付けられて、岡田演出の独自のイリュージョンが歪むなどということはなかった、ということ。

一番そう感じさせられたのは、台詞うんぬん以上にそれをしゃべるときの身体が、先に書いたように、あくまでもチェルフィッチュ的な演出法に貫かれてあったというところだろう。何をどう、個人の発言として喋っていたとしても、それがああいう統制の効いた身体で話されては、個人の発言として受け取れない。個人は立ってこない。

3.「リアリティ」について(かな?)
でも、これは演劇なんだから、戯曲を上演しているだけで、役者が何かを発言する場ではないんだから、当たり前ジャン、といわれればそれまでなんですよ。そうなんだけれど、岡田君が20才くらいの役者と接触したポイントから、何か別のルートが生まれるような気がしてならなかったんですよ。正直、ぼくは役者本人たちに、インタビューしたくなってしまった。例えば、「君達は、この作品のことどう思う?」「35才になって専業主婦になれないかもって話題とかってどう思う?」って。そこであらわれるだろう多様な表情を見ることの方が、チェル的な演出を黙々と実行している表情以上に、ぼくには興味がある、と思ってしまった。

あ、こういうことだ。35才(くらいの岡田君)に20才(くらいの私たち)の何が分かるって言うんだよ!って発言が漏れる場面が見たくなったってことです(ぼくは大学での講義で、しょっちゅうそう学生から言われている気がしているのです、、、)。それが、最後の最後の方に出てきた、未来のことは分からないしね、的な内容の台詞に現れているとも、言えなくはないけれども、そしてそういう徹底的に構造的な作品を作りつつ、そのことに対する反省もきちんとしている岡田君には、ほんとに信頼してしまうんだけれど、役者は舞台上でゴーストであるということが、ゴースト(役者)側のコメントとして見えてくる瞬間が見たくなってしまったということです。

ああ、でも、こんなに色々なことを突っ込んで考えさせられると言うところからして、もうほんとに岡田君のスゴさを思わずにいられないわけでありますです。