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昨日、考えていたこと。
電車に乗っている時に、ふっと気づいた。ケータイやDSに熱中している乗客は、画面を凝視していて、この現実世界よりも画面のなかに自分をほぼ全部飛び込ませている。画面の中身と自分との間は、隣の乗客と自分との間よりも親しくて重要、なんて事がそこに起きている。こりゃ、結婚とか恋愛とか興味ないひとが沢山いても無理はないよ、と思う。リアルの現場が、そもそも外ではないのだ。内、というか妄想(脳内恋愛)というか、そちらの方がリアルなのだ(なんてことは『電波男』にすでに触れてあったことか、この文章は前半は新味なしかも)。二次元がリアルで「生きている女の方こそ幻」(「女」のみならず、あらゆるものが)。であるとしても、仮にそういうひとたちがわたしたち(の少なくとも一部)だとしても、そのひとは二次元の中にではなく、どうしようもなく外にいる。本人はあたかもその内側にいるように思っているかも知れないが、事実どうしようもなく外にいるのだ(こうした内側へのリアリティこそある種の「オタク」に不可欠のものだろう、けれど)。例えば、首ごと壺に突っ込んだクマも体は外に出ている。そんな状態で、ケータイとかDSとかをやっているようにぼくには思えて観察していた。
体は残っちゃう。ヴァーチャルなリアリティに埋没していても(『マトリックス』とかが描くように)。完全に脳内妄想がすべからく間違いなく、自分の快楽に忠実に展開されるのであれば、それは当人にとって望ましいこと、どらえもんを飼っているようなもの、というか。いや、そうなんだろうか、本当に。すべてが叶ってしまうそんな神になれることは、嬉しいことなのだろうか。
すべてが叶うと言うことは、そこにゲーム(遊び、即興、失敗の可能性)がない、ということである。
前田司郎は、小説「誰かが手を、握っているような気がしてならない」で、そうした神の絶望を記述している。
「少し屈んで、ベンチの近くに生えた草を掻き分け小指の先ほどの小石を拾って、湖の縁の杭に向かってそれを投げる。外れた。タバコを咥えなおし、もう一度、今度はさっきの小石ほどの大きさのものが見つからず、ちょっと小さすぎて当たったか見えない。また石を探す。今度はもう少し大きいのを見つけないといけない。
私はこの遊びに出来る限り集中してこれを楽しむように努める。ちょっとでも気を抜くと、この遊びのバカバカしさを、思ってしまう。そうなっては遊びが台無しになる。ちょっと面倒くさい話になるが、私には小石を見つけそれを拾い、投げて杭にあてる事など造作もない。私には小石を杭にあてる能力がある。そんなことは簡単に出来るのだ。しかし、それが達成されては遊びとして成り立たない。だから私は、私で私を騙しながら私と遊ぶのだ。わからないかな?私のこの遊びは本当は遊びとして成立しないんだ。だって本当にやったら100発100中だからね。だから私は遊ぶ前にまず私を騙さないといけない、つまり私は何度も出来るから、遊べないってことなんだよ。遊びを厳密に定義していくと、私は遊べないってことになる。つまり全知全能ゆえに全知全能ではない、ということになってしまうんだ。寂しいよね。」(前田司郎『誰かが手を、握っているような気がする』)
神にはゲームが出来ない。「全知全能ゆえに全知全能ではない」。神が全知全能ではないのは、身体をもっていないからだ。身体があって、身体がヘマをする可能性がない、からだ。前田はさらに神のボヤキを書く、自殺したい、と。自殺は身体がないと出来ない。ゲーム・オーヴァーが存在しないのだ。
なんてことを、明日のBRAINZで話します。
昨日、考えていたこと。
電車に乗っている時に、ふっと気づいた。ケータイやDSに熱中している乗客は、画面を凝視していて、この現実世界よりも画面のなかに自分をほぼ全部飛び込ませている。画面の中身と自分との間は、隣の乗客と自分との間よりも親しくて重要、なんて事がそこに起きている。こりゃ、結婚とか恋愛とか興味ないひとが沢山いても無理はないよ、と思う。リアルの現場が、そもそも外ではないのだ。内、というか妄想(脳内恋愛)というか、そちらの方がリアルなのだ(なんてことは『電波男』にすでに触れてあったことか、この文章は前半は新味なしかも)。二次元がリアルで「生きている女の方こそ幻」(「女」のみならず、あらゆるものが)。であるとしても、仮にそういうひとたちがわたしたち(の少なくとも一部)だとしても、そのひとは二次元の中にではなく、どうしようもなく外にいる。本人はあたかもその内側にいるように思っているかも知れないが、事実どうしようもなく外にいるのだ(こうした内側へのリアリティこそある種の「オタク」に不可欠のものだろう、けれど)。例えば、首ごと壺に突っ込んだクマも体は外に出ている。そんな状態で、ケータイとかDSとかをやっているようにぼくには思えて観察していた。
体は残っちゃう。ヴァーチャルなリアリティに埋没していても(『マトリックス』とかが描くように)。完全に脳内妄想がすべからく間違いなく、自分の快楽に忠実に展開されるのであれば、それは当人にとって望ましいこと、どらえもんを飼っているようなもの、というか。いや、そうなんだろうか、本当に。すべてが叶ってしまうそんな神になれることは、嬉しいことなのだろうか。
すべてが叶うと言うことは、そこにゲーム(遊び、即興、失敗の可能性)がない、ということである。
前田司郎は、小説「誰かが手を、握っているような気がしてならない」で、そうした神の絶望を記述している。
「少し屈んで、ベンチの近くに生えた草を掻き分け小指の先ほどの小石を拾って、湖の縁の杭に向かってそれを投げる。外れた。タバコを咥えなおし、もう一度、今度はさっきの小石ほどの大きさのものが見つからず、ちょっと小さすぎて当たったか見えない。また石を探す。今度はもう少し大きいのを見つけないといけない。
私はこの遊びに出来る限り集中してこれを楽しむように努める。ちょっとでも気を抜くと、この遊びのバカバカしさを、思ってしまう。そうなっては遊びが台無しになる。ちょっと面倒くさい話になるが、私には小石を見つけそれを拾い、投げて杭にあてる事など造作もない。私には小石を杭にあてる能力がある。そんなことは簡単に出来るのだ。しかし、それが達成されては遊びとして成り立たない。だから私は、私で私を騙しながら私と遊ぶのだ。わからないかな?私のこの遊びは本当は遊びとして成立しないんだ。だって本当にやったら100発100中だからね。だから私は遊ぶ前にまず私を騙さないといけない、つまり私は何度も出来るから、遊べないってことなんだよ。遊びを厳密に定義していくと、私は遊べないってことになる。つまり全知全能ゆえに全知全能ではない、ということになってしまうんだ。寂しいよね。」(前田司郎『誰かが手を、握っているような気がする』)
神にはゲームが出来ない。「全知全能ゆえに全知全能ではない」。神が全知全能ではないのは、身体をもっていないからだ。身体があって、身体がヘマをする可能性がない、からだ。前田はさらに神のボヤキを書く、自殺したい、と。自殺は身体がないと出来ない。ゲーム・オーヴァーが存在しないのだ。
なんてことを、明日のBRAINZで話します。