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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

DIRECT CONTACT VOL.1 その後

2008年04月27日 | DIRECT CONTACT
4/27
今朝、大学院生で映画の制作も行っている方からメールが届いており、DCの感想文が添付してありました。ご本人に許可をもらったので、こちらに転載することにしました。昨日の晩、エクス・ポのイベントでも何人かの方から感想を聞かせてもらいましたが、いろいろな意見が交差することこそ、ぼくや大谷さんがやりたかったことだったわけで。直接的接触の痙攣的な余韻が、あの日集ったひとたちの内側に今後一体何を起こしていくのか、、、

「体をオブジェに、動くオブジェに見せるのが、いまのダンスのひとつの表現なのかと思った。オブジェといっても、穴のあいた靴下や、普段着の洋服、すそのほつれた小道具の黒い布は、意味はなくても細部の感覚こそ勝負、というような感性を研ぎ澄ませた造形表現とも違う。
床にゆっくりと寝て足をひろげて力を抜いたゆるい形の人体、黒い布をかけられ間化したダンサーの静止形。観客の笑いを誘う意味不明の動き。

神村恵は、「そこに立つだけで空間が変容するダンサー」ではない。何かの動作を起こすことで、時代を映し込んだ表現(正直踊りといっていいのかわからない)を作っている。では何を表現したいのか? そもそも表現したいことは作品としての完結した世界なのだろうか?

私的なレベルでも私たちが日々感じている、人と人とが交差して起きる不合理や、日常的な動作の隙間に生まれる笑いだったら、変哲も無い。変哲もないことを、変哲もない体で見せる、その美意識や創造のプロセスは(個人的な欲望としては求めにくい理由として、)無・意味でユルいものだ。核のない流動体。動くオブジェ。そのユーモアや小さな生真面目さは、多様な時代を生き抜く為の方法論であるのかも知れない。けれど…。

ダンスが本来もっている精神や痛みや光や空気はどうなるのだろう。現代では自然の状態で、痛みや息苦しさや穏やかな光を抱えない生き方はリアリティがないような気がする。わたしはそれを身体でどう表現するかを見たいのだけれど、受け止めて表現するだけの想像力や世界像がない現状を提出されたような気がする。表現者の世界観ではなく、自然から逃れる或は闘うための「方法」としての、ハズし・ユルさ・キッチュが、現代を表すのにもっともふさわしいのだろうか。非日常的なヴィジョンに憧れさせてはくれないのだろうか。

強さと繊細さは相反しない。室伏鴻や中西夏之の描く「edge」―境界は、暴力的とも言ってよい轟音と対になるようなふるえ、繊細さの上に成っている。そうした、流動体のようでいて実は確固とした「強さ」と比して、漠然と足場を不安がる脆弱さ、局地性。
ジャンルも思想も関係ない、強度な美的態度ももたない、解放感に満ちた表現が時代に求められるなら、その真剣な弱さは観客たちの反映に他ならない。


白い紗幕でL字型に張られた「場」は、コンクリートの床と高い天井に挟まれ、洗練された照明ですぐにでもかっこよくなるコンテンポラリーのギャラリーの構造をもっていた。その場を異化するような、身体の表現は、まさに現代性を体現しているのかも知れない。」(永松左知/大学院生(中西夏之研究))

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