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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

DC2 第1回批評文募集応募結果と総評

2008年12月08日 | DIRECT CONTACT
DC第1回批評文募集、応募結果と総評をアップ致します。

期日に遅れて投稿された方も含めて、10本ほどの批評文が寄せられました。
この場を借りて、共同企画者の大谷能生と共にご投稿された皆様に、厚くお礼を申し上げます。

なかなか時間が取れず、メールでのやりとりでの審査となりましたが、真摯に取り組んだつもりです。結果は、

【審査結果】
第一席 なし

第二席 (大谷能生による)
中条護「ねじ式と性欲、国とマスキング」
永松左知「Direct Contact Vol.2 大橋可也&ダンサーズについて」
黒川直樹「黒鳥グラジュアル」

第二席 (木村覚による)
永松左知「Direct Contact Vol.2 大橋可也&ダンサーズについて」

となりました。
後日、第二席となりました批評文の本文と大谷・木村の講評をこちらに掲載することにします。その前に、大谷、木村による総評を載せることにします。

【総評】
 まずは審査が遅れてしまって、投稿者の皆様には大変失礼致しましたことをお詫びします。もっぱら大谷の責任です。すいません。過去、某エスプレッソ誌上で同様の募集をした時には見事に投稿がゼロだったという経験があり、今回も、まあ一通でも送られてくればめっけもんだと思っていたのですが、箱を開けてみると締め切りまでに10通前後の投稿があって非常に嬉しかったです。内容も多岐に渡り、3日間別内容だった秋山徹次コンサートも、各人をあわせると全ステージが俎上に乗っていて、ライブを見た人にとってはそれぞれ読みがいがある批評が集まっていると思います。
 ただ、レポートとしては非常にみんな良く出来ているのですが(黒川・西中両氏のものは別として)、例えば、ライブを体験していない人に向けて、自身が得た経験をさらに広い文脈に置きなおして、長い射程でもって語るという手続きがあまり上手く出来ていないなあ、という感想を覚えました。目の前にあった作品を言語の力で切り捌いて、周辺の他の作品との相違点を見い出し、あらたな文脈を発見して、世界の新しい見方を提示してみる。こういった作業にまで踏み込んでいってみて欲しいと思います。ダンスと音楽の並置について考察していた文章が少なかったのも残念でした。
 観察力、文章力、構成力。独自の視点が提示できているか、イマジネーションの豊かさはどうか。そういったものを含めて、完成度の高さはどうか。といった点でみて、残念ながらズバぬけているものがなかったので、第一席は空欄とさせてください。第二席の三作品は、それぞれ別な方向を向いているけど、上述した要素の二つ以上にマルを付けられた作品です。全作品をマッシュアップしてあらためて一作にまとめると完璧なものになる気がします。そりゃ無茶な。でも、そういったものが読みたい。ともかく、投稿していただいた諸氏に感謝を。次作も読みたいです。(大谷能生)


 大谷さんは的確に講評のポイントを書いてくれているので、総評としてぼくは大枠の話を書かせてもらいます。
 ダンスや演奏という表現は、恐らくその他の芸術ジャンルよりも言語から遠いところがあって、故に、言語による批評活動とこういった表現との相性は、よくないと思っています。真剣に見ようとすればする程言語化出来ず、あらわれては瞬時に消えてしまう対象を、どう言語によって捕獲し、どう自分のフィールドに鮮度を残したままもってくるか。ダンス批評・演奏批評というのは「バケツリレー」みたいなもので、時が経つ内に中身はどんどん消えてゆき、それと反比例して、バケツに入っていただろうものを自分勝手に捏造することになりがちです。そう考えると、捏造を退ける程度、対象に向けて誠実さを見せる姿勢が今回の批評バトルのポイントだったと言えるでしょう。
 ぼくもえらそうなことはまったく言えません。捏造を欲する自分(のある部分)にいつも警戒しながら、薄れゆく記憶を手がかりに、言葉を並べてゆく、その一回ごとがとても不安だし、一回ごとダンス(or音楽or演劇or、、、)という神に対して一種の信仰告白を求められているような気がしています。そのひやひやを隠さず露呈すること、自分にはここまでしか書けないと告白しながら書くことしか、誠実さを見せる方法は自分にはないとさえ考えたりします。
そこまでしてする批評って何でしょう。ぼくは、批評とは対象を愛するひとつの方法であると考えています。自分の限界まで相手の細部に宿る何かへと眼差しをむけ続けようとすること。そんなこと、愛なしにはできないっすよ。「愛」(笑)かもしれないけれど、こんな説明するの恥ずかしいけれど、自分の実存を危うくするぎりぎりまで対象に迫ってみたいという無邪気な熱意が、批評には必要だとぼくは思わずにはおれず、反対に批評文は自分を誇示する場と考えているひとを、別に批評家と呼ぶ必要はないと思いこんでしまっているわけです。
 なんか、そういう「愛」の爆発みたいな文章を書くひとが出てくるといいなと思っていました。いまも思っています。うわ、こんどこのひとと一緒にダンス見に行きたいぜ、演奏聞きに行きたいぜ、と思わされるような。愛は凶暴で執拗なのでどこかに「ねじれ」を生むでしょう。それが書き手の個性だったら、それを書き手の個性とみなすのなら、ぼくはその「ねじれ」を「すごい!」と絶賛することでしょう。
 もちろん、大谷さんとぼくとが書いた各講評が批評の水準をもつものであるならば、それは上記したことに関連していないはずはありません。批評は批評を批評するのです、そしてさらにその批評を批評するのです。それが批評の力でしょう。ドイツロマン主義を引き合いに出さなくても、今風に言えば、「レス」とはそもそもそういうもののはずです、きっと。
 ぼくは、各批評文に☆を付けました。永松さんが四つで最高でした。ただし、一席には出来ませんでした。
 大谷さんも書いていますが、みなさんの次作(批評文)が読みたいです。そのために、DC3やらなきゃと思うくらい。(木村覚)

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