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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

乗越さんにあてたメール

2008年12月13日 | ダンス
DC2批評文応募に関する講評や投稿文の掲載は、早急にします。その前に、以下に、ダンス評論家の乗越たかおさんにぼくがあてたメールをアップします。ご本人に直接送った後(そしてお返事をもらった後)で、一旦、乗越さんに悪いと思ってアップを中止していたのですが、乗越さんとのやりとりのなかで(どうしてもアップするようにという命令めいた指示があり)あらためてアップすることにしました。ぼくの気持ちは、下記にあるとおりなのですが、出来れば乗越さんに「連中」「ヤツら」と具体的に議論を交わしてもらいたいという思いが強くあったわけです。いまでもその気持ちは残っているのですが、、、先述したお返事が乗越さんのブログに載るそうです。
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乗越たかお様


突然のメールにて(しかも長文になってしまいました)失礼します。
貴連載『ダンス獣道を歩け』、拝読しています。TENTARO!!について伊藤キムとの違いを通して分析した文章など、刺激を受けることがしばしばで、最近は、ほぼ毎月読んでおります。
以下に書くことは、私として、乗越さんの文筆活動に圧力をかけるという意図はまったくありません。仮に乗越さんにそう思わせてしまうとしても、こちらとしてはそういうつもりではないこと、お断りしておきます。むしろその正反対で、ますます乗越さんのダンスへ向けた考察を明確化して欲しいと思う、『ダンス獣道を歩け』の一読者であり、またダンスについて批評文などを末席から執筆・公表などしている私のような立場から、ひとつご提案を差し上げたく、メールをお送りする次第です。
簡単にもうしますと、「連中」とか「ヤツら」「アレ」「キミら」「プロデューサーやオーガナイザー」などと伏せ字的な表現になさらず、具体的に名前や団体などを明記なさったらどうでしょうか、という提案です。
乗越さんの文の特徴として、「オッチョコチョイ」で「奇形的に肥大した妄想でパンパン」な「どーでもいい議論」に邁進する「連中」を批判することで、乗越さんがお持ちのダンスに対する「自分自身の目」を輪郭づけ、正当化するというところがあると拝察します。その論拠は、以下に取り上げさせていただきました乗越さんの文章などを読むことで、明らかになることと思います。こうした自分とは異なる視点への批判を通して、自らの観点・論旨を明確にしていくやり方は、批評というものの常套手段だと私は考えています。その点では、文章における乗越スタイルに同意する者です。
ただし、残念と思うのは、私が文筆の際に心がけている〈出典を明らかにする〉という点について、私と意見を異にしていると拝察される点です。「残念」と申しますのは、単に私と意見が異なるからではなく、〈出典を明らかにする〉ことが、言説空間において必要な手続きであると一般的に考えられているのでは、と思うからであります。もちろん、このことを「一般的」と考える木村が特殊的なんだと批判を受けるかもしれません。けれども、私が例えば、大学で学生達に口を酸っぱく言うのは、この〈出典を明らかにする〉ことであり、客観的なデータを出すことであります。このことは、私個人の考えではなく、大学というところで論文執筆のスキルを学習してもらう際の不可欠な提案・指示であるはずです。妄想で書いたものは論文とは呼べないからです。
例えば、「これがダンスへの批評だ」「とにかく技術があるのはダメなんだ」というのは、誰のどの文章を想定しての文章なのでしょうか。私は、自分の知る限りこの字面通りの文章を読んだことがありません。いや、私の読んでおらずしかし乗越さんは読んでいるという文章がどこかにあるのかもしれません。であるならば、是非、出典を明らかにした上で、その当の言説をご批判なさることを切に期待いたします。
私が、なぜこうしたことをもうしあげるのかと言いますと、客観的・具体的に出典を示した上での批判であれば、再批判が可能であるというきわめて単純な理由からです。つまり、いわれた人が乗越さんからの批判に応答することが出来ると思うのです。そうして一種の論争が生まれた時に、その場は活性化し、明るくなると思います。
ダンスの批評的言説のなかで、なかなかそうした論争が生まれていないのが、私としてはとてもよくないことと考えています。意見の相違は、どのアートのジャンルを見ても起こっています。大塚英志と東浩紀の新書などは、その一例でしょう。意見の相違は、互いが互いを明示して初めて論争化すると思います。そうではない言説というのは、中傷に対して中傷をもって応じる言論というのは、ダンスシーンという場を暗くしてしまうと思うのです。
あと、いまひとつの理由は、乗越さんが論じられている「研究者」と「ジャーナリスト」のハイブリッドが評論家であるべきとおっしゃられていることに関係しています。「ハイブリッド」の言葉が何を意味し、「評論家」という言葉が何を意味しているのか分からない(とくに私が「評論家」ではなく「批評」と自称している点に関わっています)ところはありますが、私の考えるところでは、一般的・理想的には「研究者」も「ジャーナリスト」も、先に述べた〈出典を明らかにする〉作業を繰り返すことで、自らの論を公表する仕事です。裏のとれた情報に基づいて証拠を重ねていくことが、彼らを研究者にしジャーナリストにするのだと私は考えています(そうではない研究者、ジャーナリストが現実にいるとしても)。
乗越さんの文章のなかで、先に触れた「連中」「ヤツら」「キミ」などの言葉が出てくると、文は批評というよりも扇動の色を帯びてきます。「扇動」と考えるのは私の読書経験に基づいているのですけれど(誤解がありますか)、もし「扇動」が評論家の仕事であるとすれば、それは私の考える批評とはずいぶん異なるものだと思います。乗越さんのなさりたいことは、世間を煽ることなのでしょうか。あっちの水は苦くてこっちは甘いということを、論争的な仕方ではなく語ることで、読者を誘導することが、乗越さんの評論なのでしょうか。私の読む限り、以下の文章は、「研究者」的でも「ジャーナリスト」的でもありません(「勝手な想像」に基づいた文章が、「研究者」的、「ジャーナリスト」的あるいはそのハイブリッドのいずれなのかが正直分からないのです)。
年長の方に対して、突然、不躾なメールを差し上げていること、恐縮です。ここからさらに上を目指していくことが(私の言う「上」が「獣道」とルートを異にしていないと信じています)、ダンスのシーンを明るくすることにつながると、切に信じ、その一心で書きました。どうかおゆるしください。
「論争」という言葉を乱暴に使いました。定義とは言いませんが、「論争」という言葉を使う時、私が毎度思い出す場面があります。2000年頃、原宿フラットというイベントで、まだまだ新人扱いされていた椹木野衣さんに対して、徹底的に厳しい言葉を浴びせ続けた浅田彰が、あるとき、「トムとジェリー、なかよくけんかしな、だよね」と口にしたその場面です。「なかよくけんか」これが、私なりの論争のイメージです。これが出来たらいいのにと思うのです。もしよろしかったら、論争のコーディネート、未熟者ですが私が務めることも可能です(もろちん、乗越さんのいう「連中」が複数グループあるかも知れず、またその「連中」が論争に乗ってくれるかはまた別の問題としてありますが)。

  木村覚

追伸
一、いうまでもないことですが、このメールは、誰かに扇動されてのものではありません。私の判断で、自分自身の目からもうしあげていることです。
二、ひとつ残念と思うのは、「連中」「ヤツら」「キミ」と呼んでいらっしゃる対象に私が含まれていないだろうことです(あくまでも私の勝手な想像の範囲ですが)。もし、私も含まれているのであれば、私と論争してくださっても結構です。
二、このメールは、まさにダンス批評の論争化のために、後日拙ブログでアップするつもりです。ご理解下さい。


「勝手な想像だが、いろんな意味で山賀の持ち味である「何にもなさ」を、「これがダンスへの批評だ」とか「とにかく技術があるのはダメなんだ」と無知を露呈してやまぬオッチョコチョイな連中に担ぎ出されたのではないかなぁ」(『DDD』2008年9月号、p. 117)

「ダンスを頭でばかり考えすぎ、奇形的に肥大した妄想でパンパンのヤツら、仲間内だけで通用する「自称・素晴らしい言説」の傍証にダンサーを利用するヤツら……。」(『DDD』2008年9月号、p. 117)

「オレは「何が人をダンスに駆り立てるのか」にしか興味がないので、こういう連中のどーでもいい議論には与しないが、けっこういるのだ」(『DDD』2008年9月号、p. 117)

「アレとかアレとかあんなのとかがハバを利かせているダンス界の現状を打破するような、じつに骨太の可能性を東野は感じさせてくれた。そしていまや活躍の幅を世界へ広げている」(『DDD』2009年1月号、p. 94)

「こういうダンサーの評価がのちのち高まってきたとき、かつてイチャモンを付けた連中の常套句は、“前よりも良くなった”というやつなのだが、ダンサーや振付の本質なんて、そうそう変わるもんじゃねえよ。変わったのはダンサーじゃなく、見ているキミらの目のほうだ。」(『DDD』2009年1月号、p. 94)

「プロデューサーやオーガナイザーの中には“オレのところに出てから良くなった”とまで言いだす輩もいるしな(ごく一部だけど)。」(『DDD』2009年1月号、p. 94)

「“評論家とは、研究者とジャーナリストのハイブリッドであるべき”と書いたことがある。“すでに評価が固まっているものばかりを対象にしている「研究者」は、しばしば知識ばかりで知的体力がないため、新しいアートが出てきたときに受け止めきれない”という主旨だ。」(『DDD』2009年1月号、p. 94)


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