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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

パクストン→高円寺

2009年05月18日 | ダンス
昨日(5/17)は、Steve Paxtonの「Night Stand」を見た後で、高円寺に直行し、Chim↑Pom展「捨てられたちんぽ」を見に行った。高円寺のガード脇では、キュレイターのAさんがメンバーと飲んでいて、なんだか楽しそうだ。お酒が過ぎると謹慎を余儀なくされる(芸能人さんのいる)息苦しい日本で、こんなに楽しそうにお酒を飲んでいると罰せられてしまわない?なんて気持ちは、展覧会の素晴らしいプロローグだったと後で気づいたりして、いつも躓きそうになる階段を上ると、真っ白い狭い空間に、若い男の子とか、キュレイターの女の人とかがなんか酔っぱらってくつろいでいる変な空気の中にあれはいた。
白い壁からピョイと飛びでていたあれは、見慣れているはずのものであり、確かに似たようなものを自分も持っているのだけれど、最初は、なんか赤い独特の肌色が醜く見えにくく、ちょうどおへそくらいのところで浮かんでいるので、なんだかあれに見えなくて、「あれなんだ、そーかー」とおもった次に自分がついしそうになるのは、それを掴むことだったりした。普段、人前にあらわれない、人前に見せてはならないと頑なに思っているものが目の前にある。するとひとはともかく隠してしまいたくなる。あるいは、どうにか使用して(使用すれば隠せるから)しまいたくなる。キュレイターFさんは酔っぱらっている。こりゃ、確かにしらふではいられないよな。なぜあれが浮かんでいるだけでしらふではいられなくなるのかは分からないけれど。Fさんは、目の前で息を吹きかけてみてくれた。すごい反応する!萎縮したり膨張したりが甚だしい。パクストンの会場で会ったSさんは、見るのに1時間かかったと言っていたけれど、これは確かに見てしまう。こんなに激しく変化するというのも驚きだが、しかもその変化がこれほど自分の身に置き換えられるオブジェはないだろう。本人は、壁の裏にいて見えない。見えない向こうにあれだけを差し出すというのはどういう気分なのだろう。また、あいつら、バカやって、、、というひとは美術に対してそれほど興味のない人かも知れない。世の中には、ギャラリーの床下に忍び込んで、そこでひたすら自慰行為を続けた男もいるのだ(その男の作品は「ヴィデオを待ちながら」の最初の方のブースを飾っている)。その作品は、パフォーマーも観客も互いが「見えない」というところで起きることにねらいを定めている。さて、この高円寺の作品は、両者の目は合わないが、観客の目とあれとは見つめ合う。なんだか、よく動くので、生きているようだし(実際生きているけれど、自律して)、なんだか言葉くらい喋りそうな人格を持った存在にしばらくすると見えてくるから、また気持ち悪い。「陳列」という点だけだと、最近の事例ではポツドールが思い浮かぶ。けれど、そういうセンセーショナリズムよりも、あれをじっと見続けるという希有な経験を見る者に与えるところに、この作品の力を感じた。会場奥には、5人の表札が展示してあった。かつてChim↑Pomが制作した作品。真ん中の表札には、リアルの立ち位置通り、「中居」とあった。

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