東アジア歴史文化研究会

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『ウィリアム・アダムス 家康に愛された男・三浦按針』フレデリック・クレインス著(ちくま新書) 三浦按針ことウィリアム・アダムスを家康はなぜ重宝したのか

2024-04-15 | 日本の歴史

三浦按針とは英国人航海士ウィリアム・アダムスの日本名である。

ロンドンからテームス川が海に注がれる河口近くの港町ジリンガムで1564年にアダムスは産まれた。漁業と造船の町、アダムスは棟梁のもとで十二年間、船大工で腕を磨き、造船技術を覚え、そればかりか船を操舵するには天文学への興味は航海で必須だった。

日本は信長が桶狭間の奇襲で今川義元を屠った頃のことである。

アダムスには旺盛な知識欲があった。船大工のあと、かれはバーバリ商会で働き、国際貿易に従事する。当時のグローバリズム、重商主義、自由貿易主義の理解者だった。英国はエリザベス女王がプロテスタントゆえにスペイン、ポルトガルとは戦争状態にあった。この時代の英国海軍は弱く、一方でスペインは「無敵艦隊」。英国海軍は奇策を用いてスペイン艦隊にときどき勝った。

貿易と言っても内実は海賊船との戦いであり、どの貿易船も重武装していた。砲、弾薬、火薬、槍、鉄砲を装備していた。また水夫は荒くれ男ばかりで博打好き、喧嘩大好き、おまけに個人的な密貿易の副業も平気で展開する

オランダで世界を一周し東洋にむけて航路を開こうとする動きがあった。アダムスは弟とともに航海士として応募する。運命が変わった。

オランダを五隻の船団を組んで、乗組員は五百名以上で出港した。

途中で海賊船にあったり野蛮人に殺されたり、疫病、栄養バランスによる壊血病などで乗組員は次々に死亡し、マゼラン海峡を通過したとき、船団はすでに二隻に減っていた。南米はスペインが植民地化しており、アダムスの弟は蕃族に殺された。食糧確保のため寄港する必要があり上陸地で悪性の疫病にかかって死んだものも多く、最後に日本に漂着したのはアダムスが乗ったリーフデ号のみ。しかも出航時に110人だったリーフデ号乗組員は、日本漂着までに18人に減っていた。

いかに決死の冒険だったかがわかる。

西暦1600年に日本に漂着した。日本は天下分け目の関ヶ原である。その五ヶ月前に大分県臼杵の沖合、黒島に漂着したのだ。

アダムスたちは拘束され、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器はすべて没収された(後日、代金は支払われた)。大坂に滞在して居た徳川家康の面会のため、アダムスとヨーステンが赴くこととなった。

イエズス会の讒言で家康はリーフデ号が海賊船だと誤認していた。ところがアダムスに会ってみると、世界情勢がスペインとポルトガルで世界を二分割し、くわえてオランダやイングランドなどプロテスタント勢とポルトガル・スペインなどカトリック勢とが啀み合い、戦争をしていること等の現実を知った。家康はうすうすイエズス会宣教師らの虚言にきがついていた。

「トリデシリャス条約」とは世界を二分化するために1494年にスペイン帝国とポルトガル王国の間で結ばれた。イエズス会は宣教師の前衛部隊だった。かれらはリーフデ号の全員が海賊であり、死刑にすべきと家康に訴えていた。家康は取り合わなかった。

関ヶ原合戦を挟んで40日以上、アダムスとヨーステンは大阪城に留め置かれたが、ようやく家康から呼び出され、国際情勢を講じることになった。

家康がことのほか興味を持ったのは国際貿易であり、たびたび呼び出されたアダムスに次々と家康は質問した。

すっかりアダムスを気に入った家康は江戸でアダムスに屋敷を与えた(日本橋室町に按針屋敷跡の石碑がある)。そればかりか、サムライに取り立てた。

家康は三浦按針という名前をあたえ、外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せ彼なりの解釈を聞いた。幾何学や数学、航海術などを家康の家臣に教授した。

三浦按針となってからの活躍は、第一に通商国家としてのルールや、交易のもたらす利益を日本側に諭したこと。第二に造船ノウハウの伝授だ。実際に伊豆の伊東に日本で初めての造船ドックを施設し、80トンの帆船を建造し、二席目は120トン、家康は進水式に立ち会ったほどだった。明治維新期の御雇外国人の嚆矢である。

アダムスは250石取りの旗本に取り立てられ、帯刀が許され、相模国逸見が領地、いまの横須賀市逸見では按針フェスティバルが開催され、歴史散歩コースまである。三浦按針は日本人妻を娶り、ふたりの子供をもうけた。

一方、ヨーステンは大法螺と虚言癖があって屋敷は三浦按針より江戸城に近い丸の内にあったが、家康の評価は高くなかったようだ。

家康生存中の慶長18年(1613)にイギリス東インド会社のクローブ号が交易を求めて日本に来航した。按針は家康らとの謁見を実現させ、貿易御朱印状を取りつけ、平戸が英国専門港として開放された。アダムスはオランダのためにも、そしてスペインのためにも代理業務を頼まれればこなした。

元和2年(1616)に家康が薨去すると、二代将軍徳川秀忠時代からは按針の建言は受け入れられず、冷遇され始めた。切支丹バテレン禁止令が適用された。

平戸の町を歩いていると、吉田松陰が平戸留学のときに宿だった「紙屋」跡から数十メートル先に「三浦按針邸跡」がある。

ここで按針は憂鬱な状態のまま死去したのだ。

日本の史家が忘れていた英国人航海士を、四百年後に評価し直したのがジェイムズ・クラベルのベストセラー『将軍』、そして三船敏郎主演の映画、昨年にはディズニーが製作して世界に話題となった真田広之主演のテレビドラマ『ショウグン』だった。

後者の時代考証に関与したのが、この本の著者である。


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