東アジア歴史文化研究会

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「織田信長は短気」という思い込みは間違い(加来 耕三)

2019-12-17 | 日本の歴史
桶狭間の戦いで今川義元を破ったことが織田信長のイメージを作った(画:中村麻美)

今回、取り上げるのは織田信長。天下統一への道を開いた規格外の戦国武将の失敗からはどのような教訓が得られるのか。一般的なイメージとは異なる信長の実像に迫る。
(聞き手は田中淳一郎、山崎良兵)

信長は若い頃、常識やルールを守らない問題児で「大うつけ」と呼ばれていました。父親の葬儀でお香を位牌(いはい)に投げつけたエピソードも有名です。また「比叡山延暦寺」の焼き討ちに象徴されるように、短気で怖い人物というイメージが強いようです。

加来耕三氏(以下、加来):「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」というのが信長のイメージです。一方、「鳴かぬなら鳴くまで待とう」が徳川家康とされますが、私はそう思いません。実は「鳴くまで待とう」が信長だと思っています。彼は勝てる根拠がない戦いをしないタイプです。一般的に、武士は、人に笑われることが屈辱で、笑われないことを大事にして生きています。しかしこうした武士道の常識は、信長には最も当てはまりません。

そんな信長を象徴するのが1570年に信長が越前(現・福井県北部)の国主・朝倉義景(あさくら・よしかげ)と戦った「金ヶ崎(かねがさき)の戦い」です。信長は大軍を率いて金ヶ崎城(現・福井県敦賀市)をあと一押しで落とすところまで迫りますが、妹のお市を嫁がせた義弟、浅井長政(あざい・ながまさ)の裏切りにあいます。朝倉・浅井の挟み撃ちを恐れた信長は、味方を置き去りにして、わずかな護衛だけを連れて戦場から離脱しました。

普通の武士なら逃げないところです。不名誉であり、プライドが許さないはずですが、信長は違いました。

古代中国の項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の争いで有名なのが「垓下(がいか)の戦い」です。勝ち続けていた項羽でしたが、最後には敗れました。項羽はこの時に長江の渡し場まで落ち延び、渡し船に乗って川を渡れば、自ら決起した江東(こうとう)の地で再起することも可能でした。しかしいったん挙兵したのに多くの兵を失って地元に戻るのは、彼の面目、プライドが許さない。結局、項羽は漢軍に突撃して、非業の最期を遂げました。

信長には、項羽のようなプライドがなかったから、一目散に逃げだすことができた。

加来:信長は実は忍耐強い人間です。金ヶ崎の戦いに敗れた後、すぐに朝倉・浅井連合を破るための手を打ちます。浅井方の主力を調略することで内部分裂を図りました。同時に戦いの準備を進め、同じ年に信長は、朝倉・浅井連合軍を「姉川(あねがわ)の戦い」で打ち破ります。

信長は27歳の時に今川義元を討った「桶狭間の戦い」での奇襲攻撃や、若い頃に乱暴だった話が有名なこともあり、「信長=短気」という日本人の思い込みがあります。そこが間違っています。実際には恥を忍ぶことができ、慎重に準備を進めて、勝利を得るタイプです。

切れやすい怖い人というイメージは本当?

小説などでも信長は切れやすい、怖い人として描かれる場合が少なくありません。

加来:小説を読んでいる人は、実は現実とは遠いところで遊んでいます。遊ぶことと学ぶことは基本的に違うものです。小説は、書いている人間の知性を超えるものにはなりません。小説家はできあいの活字になっている書物から話をつくります。しかし、明らかに歴史を勘違いしていることが少なくありません。

結果論から見た歴史になっている場合が多い。一方、『歴史の失敗学』では、信長が金ヶ崎で逃げたという事実をこう捉えます。まずその前に信長の大いなる勘違いがあった。妹を嫁がせて同盟関係にある浅井は裏切らない。そんな思い込みが強かった。

金ヶ崎城は三面を山に囲まれ、一面は日本海です。普通なら攻めるべき場所ではない。信長には浅井が裏切らないという確信があったからこそ攻めた。朝倉・浅井の同盟がかつてあったが、それでも浅井は中立を守るだろうと信じ込んでいた。

思い込みで失敗する例です。結果から歴史は学べません。学べない人は固定観念にとらわれていて、結果論からくる歴史の悪癖から逃れられません。

思い込みにとらわれて失敗する。信長に限らず、多くのビジネスパーソンが起こしがちな過ちですね。信長の一番のすごさはどこにあるのでしょうか。

加来:信長がすごいのは、追い詰められた時にとった行動です。絶体絶命の時こそ、原理原則に立ち返らないといけません。味方と思った人間に裏切られたらどうするか。全部失うかもしれない。逃げて帰ってくる以前の問題でこのままでは殺される。

信長は物事をよく考えていました。金ヶ崎の窮地で、一番優先すべきは命を取られないこと。そのための決断を躊躇(ちゅうちょ)しなかった。だからこそ、信長は逆境を切り抜けることができたのです。

なぜ明智光秀に不覚を取ったのか?
そんな信長が、本能寺の変ではなぜ明智光秀に不覚を取ったのでしょうか。

加来:慎重だった信長ですが、晩年になると疲れが見えてきます。これはすべての経営者に言えることでしょう。長期政権は裸の王様になりやすい。物事が見えなくなりがちで、かっとしやすくなります。

それまで苦労してきた反作用もあります。だから勘違いをしてしまう。信長は、光秀を一番頼りにしました。光秀は遅い時期に登用された幹部です。それでも織田家の家臣として、最初の城持ち大名になりました。城持ちとは領地を持つ大名を指します。

実際、光秀が信長から得ていた坂本城(現・滋賀県大津市)と亀山城(現・京都府亀岡市)は京都の東と西に位置します。つまり信長としては、「一番重要なところを任せた。光秀のことは買っているよ」という思いでいました。だから光秀に対して甘えが出る。経営者はみな、心配が世の中にある時は周囲のバックアップがあるが、引き際で失敗しやすい。信長もそれをやってしまいました。

それだけ君主に認められているのに、家来が裏切ろうという気持ちになるのは不思議です。会社で自分のことを引き上げて、給料も増やしてくれた社長に反逆する部下はまずいません。

加来:光秀は信長より高齢で、戦争が果てしなく続く毎日に疲れていました。光秀の生年には1528年、1516年などいくつかの説がありますが、いずれにせよ、6~18歳も信長より年長です。

しかし、いつまでたっても信長は戦争をやめようとしない。本能寺の変が起きたのも、光秀が、羽柴(のち豊臣)秀吉が派遣されていた中国攻めの援軍に向かう最中でした。経営者の中にも死ぬまで現役だという人もいますが、信長はまさにそのタイプでしょう。

「もう疲れたし、最愛の妻も亡くなったのでゆっくりしたい」。死ぬまで働きたい人には、そういう人の気持ちが分かりません。次はああだ、その次がこうだと、指示を出し続ける。信長からすると、光秀には「領地も与えた。何か文句があるか。報酬を払っているだろう」という気持ちだったと思います。もうやめたいという人がいることが分からなかった。

実際、信長は、死ぬ瞬間でさえも仕事をしました。「是非に及ばず(仕方ない)」という言葉は有名です。信長公記の筆者が本能寺の変の時に傍にいた女官に聞いています。「明智が攻めてきたら殺されるだろう。明智を倒すのは、秀吉か家康だろう」。瞬時にそこまで考えた信長は、ならば「首をやらない」と判断した。

「信長は生きている」という偽手紙

信長は火の手の上がる建物の奥に自ら入り、焼け死んだとされています。死に直面する土壇場で、信長が自分の首があがらなければどうなるかまで考えていた。そうだとしたら、本当に壮絶な覚悟で、自分が死んだ先の展開まで見通していたということになりますね。

加来:「生き残れるかもしれないが、首をあげられるかもしれない」と考え、信長はそのような選択をしている。後から光秀が秀吉に滅ぼされたのは、信長の首をあげられなかったためだという見方もあります。首がなかったので、信長の生存説を打ち消せなかった。だからこそ信長の配下だった主な武将たちが、光秀の誘いに乗ることはありませんでした。

秀吉と中国攻めをしていた黒田官兵衛が姫路に3日間とどまって調べていたのは信長の首があがったかどうかです。見つからなかったと知って「信長は生きている」という偽の手紙をバラまいた。万が一でも生きていれば、誰も怖くて動けない。信長は死ぬ瞬間まで、仕事をしたと言えるでしょう。

戦国武将に限らず、経営者も同じはずです。年をとると、周囲にイエスマンが増えて、かっとなりやすくなる。信長は、光秀の気持ちが分からなかった。人には思いやりを持って接しないといけません。

歴史にイフはありませんが、光秀にはほかに選択肢はなかったのでしょうか。

加来:光秀はだんだん余裕がなくなっていました。本願寺との10年以上にわたる戦いがようやく終わったと思うとつらかったことを思い出す。長年、信長に仕えて尽くしてきた佐久間信盛(さくま・のぶもり)が追放された事件もありました。光秀が「次は俺がやられる番かもしれない」と考えても不思議はありません。

もしあのタイミングで助言者がいたら、光秀は本能寺の変を起こさなかったかもしれません。私は、もし本能寺の変の6年前に亡くなった光秀の妻が生きていたら、彼は本能寺の変を起こさなかった可能性もあると思っています。

光秀は疲れもある中で、次は中国方面へと向かっていました。その後は、九州征伐の総大将になる可能性もあり、また行かされるだろうなと感じていたことでしょう。朝鮮半島から明国まで、信長の野望には果てがありませんでした。

日本人は歴史に学べず、結果しか知らない人が多い。大事なのはスタート地点とプロセスです。本能寺の変で明智光秀は三日天下(実質は11日間)だったと聞くとああそうかとなる。

しかし歴史学は科学で反復性があります。国家も個人も組織も、人間の体と同じです。生まれて育って壮年期を迎える。あらゆる組織や個人がこれに当てはまります。そこから考えることが、歴史を読み解くカギになります。

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