いま、大学の将来が大きく揺らいでいる。
私は教育問題に、深い関心を寄せてきた。これまで拓殖大学、鈴鹿国際大学客員教授、東京国際大学特命教授をつとめてきた。
アメリカでは、コロナウイルスの感染拡大がとまらないなかで、5月から「ブラック・ライブス・マター」(黒人の生命を守れ)を求める抗議デモがひろがっているわきで、大学制度の存続が問われるようになっている。
もっとも、コロナによるパンデミックに襲われる以前から、アメリカでは大学や大学院を中心とする高等教育に対する信頼が揺らいでいた。コロナの襲来によって、大学に 対する批判が加速されている。
6月に、トランプ大統領が「連邦政府の職員採用に当たって、学歴より能力を重視する」と述べた。
大学のなかでも、この十数年、経営学修士号(MBA)を授与してきた、著名なビジ ネススクールに対する風当たりが、強まっていた。20世紀末から金融が製造業を凌ぎ、さらに情報産業が首座を占めて、産業構造が激変した。ビジネススクールで教えて きた知識が老朽化して、権威が褪(あ)せた。
時代が求める教育とは このような流れのなかで、ビジネススクールを志望する学生が減っている。学位が職 場で役に立たない。
アメリカの4大会計事務所のアーネスト・アンド・ヤング社は、MBA保持者の最大の雇傭主だったが、ビジネススクールと協力して独自の経営学の教科を創設して、証書を授与するようになっている。
高等教育の質が低下したというより、時代遅れになっている。
といって、大学が無用になったわけではない。大学が古い殻を破って再生することが求められている。高等教育の形とビジネスモデルが、変革を強いられている。
デジタル技術によって電話交換手が不要になり、オンライン予約が旅行代理業から顧客を奪った。高等教育の分野でも、同じことが起ろう。
9月の大学入学期を前にして、すでに全米で学費の値くずれが起っている。
今日の大学の形が生まれたのは、中世のヨーロッパだが、それ以来、基本的な形が変わっていない。
コロナウイルスによるロックダウン(外出禁止)によって、オンライン、あるいはリモート・ティーチングが行われているために、大学のありかたが見直されている。学生が登校せずに、自宅でオンラインによって講義を受けるようになってから、授業料を値下げすべきという要求があがっている。
リモート・ティーチングが普及して、パッケージとして商品化すると、はるかに安い費用で学ぶことができる。高等教育が価格破壊の高波によって、洗われるようになろう。日本でも、大学の授業料は高い。
ディスタンス・ラーニングとも呼ばれているが、パッケージをダウンロードして学ぶようになれば、なぜ、大学に高い学費を納めなければならないのか。
これからは、おそらく既存の大学とオンライン・ラーニングのハイブリッドのような形になるのだろう。
スタンフォード、エール、MIT、ハーバード、オクスフォードなどの多くの大学が、1500以上にのぼる広い分野にわたって、無料のオンライン・コースを提供している(http://www.openculture.com/freeonlinecourses.)。有料で免状も取得できる。
リモート教育の欠陥
もっとも、リモート教育には欠陥がある。
教室であれば、学生たちの表情を見ながら、講義を進められる。ズームは一方的に伝えることができても、会話ができないのと同じことだ。私たちは幼時から相手の顔を見ながら、話す訓練を受けてきた。オンラインは鏡に向かって自分の顔を見ながら、話すようなものだ。
教育は「教える」「育てる」という、2つの言葉から成り立っている。オンライン教育は同時に、数百、数千人を教えることができる。教員が精緻に組み立てられたロボットでもよいが、学生を育てることができない。
今日の大多数の大学教授は、知識のみによって採用されているから、教えることができても、育てることができない。個性のない教授ばかりだから、個性がない学生ばかりだ。
学生が共に学ぶことによって補完しあい、競うことによって、力を磨くことができる。オンラインではテレビを観ているように、気が散漫になって、集中することが困難だ。
6月にアメリカで発表された調査では、ロックダウン中にオンラインで学んだ学生の75%が、強い不満を表わしている。
豊かさが大学の数のインフレを招いた
アメリカでは1950年代から、豊かな社会が到来したために、大学の数が爆発したように増え、その後も増え続けた。
私は1970年代から、シカゴ大学、ペンシルバニア大学、オレゴン州ポートランドのルイス・アンド・クラーク大学(カレッジ)から、講師として招聘されたので、アメリカにおける大学教育に関心をもった。
ルイス・アンド・クラーク大学は西海岸の名門校だが、私が敬愛する松岡洋右氏(満鉄総裁、外相)の出身校であるオレゴン大学法学部を吸収していた。松岡氏が幼時に渡米して、苦学力行したことを偲んだ。
1965年に、アメリカの公立大学の学生は397万人を数えたが、それから僅か10年以内の1975年に、883万人に2倍以上に増えた。
カリフォルニア大学はマンモス校として知られるが、1958年にはロスアンジェルスとバークレイの2つのキャンパスしかなかったのに、1965年までにサンタバーバラ、デイビス、リバーサイド、サンディエゴ、サンタクルス、アービンの八つのキャンパスに拡がった。
大学の急増は学生のレベルダウンをもたらした
大学の数が急増して、質から量の時代に入ったために、大量の“俄か教授”が誕生した。
日本においても、大学の数のインフレが進んだ。その結果、貨幣経済のインフレによって貨幣価値が下落するのと同じように、教員、学生の質が低下した。
この春に、私の親しい友人が、男性の孫を連れてきた。青年は緊張して固くなっていたが、東京の6大学の3年生で、私から企業に推薦してほしいということだった。私は手渡された履歴書に目を通して、愕いた。長所の欄に「優柔不断」と、書かれていた。どういう意味かたずねたら、「優れており、柔軟で、不断の決意をもって物事に当たる」と、説明した。
遊び心からそう解釈したのだったら、見所があると思って感心しかけたが、本人は真面目だった。
そのうえ、誤字が多かった。さらに質問すると、当然のように「新聞も本も読みません」といった。クラスメートたちも、新聞、本を読まないということだった。新聞は読まなくてもよいし、いや、読まないほうがよいが、古来から学習と読書は一体のものだ。
英語や、外国語にも、関心がなかった。書く力も、読解力もない。戦前であればいうまでもなく、50年前であったら、大学生として通用しなかった。
人格の向上を求める
多くの高校や大学の教員が教えることに終始して、学生を育てる使命感を喪失しているのだろう。青少年に人として使命感を植えつけることが、家庭と学校の役割であるはずだ。
貧しかったころは人間が主役であったのに、豊かな社会が到来すると、安楽な生活のみ追い求めて、人にかわって金銭が主役となったために、大学が営利企業になった。
平成に入ってから、日本が活力を失って「失われた30年」とか、「第2の敗戦」と呼ばれるようになったのは、大学が劣化したからではないか。
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