goo blog サービス終了のお知らせ 

犬猫と日向ぼっこ

ミックス犬と二匹の猫と一緒に送る毎日の記録と庭の草花の栽培日記。また、旅行先での記録などを綴る。

6年前のおおみそか

2006-12-31 09:38:38 | 思い出
夫がなくなって5回目の大晦日を迎える。

娘と三人で迎えるこの日は、夫が元気な頃の事は何日になにをして‥と

覚えているが、亡くなってからの5年間 どのように過ごしたか

あまり記憶に残っていない。

唯一記憶にはっきり残っているのは、亡くなって二年目、私が退職して初めて

迎える大晦日だ。

私の退職と反対に下の娘が就職し深夜帰宅が続いた年だ。

紅白歌合戦が始まっても娘たちは仕事で帰らず、終わる頃にそれぞれ帰ってきた。

これからの生活を思わせるようだった。

下の娘が転職し、あれからこんなことはなくなった。


6年前、夫と迎えた最後の大晦日 家族四人で紅白歌合戦を見た後、上の娘と

少し外を歩きにでた。

夫がそばにいたらできない話を、川沿いの散歩道を歩きながら娘と話した。

帰ったら「あんまり帰らんから心配したよ」といってベットに入っていた。

夫の寝顔を見ながら、「この年はどうなるのだろうか」と、一人思った。


昨夜 森山良子とビギンが歌った「涙 そうそう」を聞きながら

そのときのことを思い出した。

いろいろな試練が今からもあるだろうが できる範囲で頑張っていこう。

今年最後は ちょっと しんみりデス。

来年もよろしくお願いします。

昨日に続いて 娘の誕生の頃

2006-12-23 10:47:13 | 思い出
長女の出産の頃は今のように暖かくなく、夜の授乳はつらかった。

実家に暫くいたのだけど、夜、ミルクを作っているとき、要領も悪く

暑い湯で溶かしたミルクを水道で冷やす時、もう大丈夫と泣き声にせかされて

飲ました、まだ熱くて「ウギャー」と娘が叫ぶ失敗もあった。

それでも何とか無事大きくなった。

生後一ヶ月目に入るまでは夜鳴きがひどく、置いて逃げたくなった夜も

度々あった。紙オシメも今のようないい物がでていなかったので

布オシメを使っていた。

その頃 私の実家では初孫だったので家族一同遠巻きにこわごわ見ていた。

頼みの母親に「こんなときどうするん?」とあれこれ聞いても 

「昔の事だから忘れた」といって逃げてしまった。

今の私の年なのに‥‥。

産休明けから、「わからん」といった実家の母に娘を預けて、仕事にでるため

産後一月が過ぎ家に帰った頃から、朝の出勤の練習を少しずつ始めた。

当時は免許がなかったので、首が据わるまでは娘を寝袋のような

おくるみに入れて抱いて実家へ、それから自転車で職場へ、という毎日。

首が据わったら、今ではあまり見ない抱っこバンドでおんぶして連れて行った。

これもひとりでおんぶする練習を台所のテーブルでした。

「必要は、発明の母」 困ったらいろんな知恵が浮かぶものだ。

職場でも、先輩たちがいろいろ教えてくれた。

でも、まだひとりだったからよかった。下の子が生まれてからは

今でもあの頃に帰るのは「こらえて」といいたいくらいの毎日だった。


夫は楽しみにしていた子供が生まれて、オシメも上手に変えてくれた。

私の母いわく『あんたより几帳面よ』と。

まーそうだったんで、口答えはできなかった。

娘の誕生日  また来た‥

2006-12-22 08:41:57 | 思い出
一昨日 PC教室でカレンダーを見ていて

お!今日は上の娘の誕生日だと気づいた。

もう、いい年だし 忘れそうになる。いや、忘れたい。

帰りにとりあえずケーキを買って帰る。ショートケーキだけど。

今年は香港に行った時、お土産を奮発して「誕生祝と一緒よ」と

言ってわたしたのでケーキだけにした。

今日のネタはこれにしようと思いながら、わんこの散歩のとき娘が

生まれた時のことを思い出した。

あの日、出産の兆候があったので残業中の夫にをかけ

帰るのを待ってタクシーで病院に行った。

約12時間後無事誕生。その時は時間がかかるだろうということで

夫も家に帰っていたので、ひとりぼっちだった。

この頃は出産する人が多く、授乳室は椅子取りゲームみたいに

込み合った。母乳でないと駄目!という病院の方針で

新米で母乳があまりでなかった私は、いつも他のお母さんのお乳の

あまりをもらうためきょろきょろしていた。

そして、「すみませーん、この子に‥」と、ものごい?をした。


そんなわけで家に帰ったら直ぐミルクになってしまった。

後ろめたい気がしたが、二ヵ月後には職に復帰する事(私たちには

育児休暇がなかった)だしと思ったりして。

退院から一ヶ月 この子の夜鳴きにこっちが泣かされた。


出産前 私は夫にある要求をしていた。それは

“出産したら バラの花束とお菓子のマロングラッセ(好物)

 買ってきて”と。

私だけ大変な思いするんだから‥といって。

約束どおり夫は買ってきてくれた。今のようにアレンジメントにして

持ってくるという事も知らなかったので、花瓶探しに困ったけど。

夫は「恥ずかしかったよー」といっていた。JRの中を花束を抱えて

帰ってくるのはそうだろうと思って少しおかしかった。


仕事が忙しかった夫は退院の時のお迎えもできなかったので

私の母に荷物を持ってもらい、さみしく娘と病院を後にしたが

まあー 花束があったから 我慢できた。





もう ランドセルのチラシが

2006-12-08 09:15:59 | 思い出
朝の 新聞タイムで今日のチラシを見ていると、もうランドセルの

宣伝がでている。(宣伝というのは少し変だけど)

“ランドセル クリスマスプレゼントセール”と。

豊かな年金世代から孫へのプレゼントを狙ったのか?

20,000~40,000円くらいの価格のものが写真入で出ているが

当然のことながら私の時代より、私の子供の時代よりおしゃれ

赤と黒しかなかった私たちの時には、まだ、合成皮革もいいものが

発明されてなくて、お金持ちの子は本皮で手縫い。

私なんか素材は分からないが、雨にぬれていっぺんに背中のふたの部分が

しわしわになり、水ぶくれのようになった。

アルバムの写真にはうれしそうにランドセルを背負った姿が映っているが

このランドセルの寿命は短かった。その後は近所のお姉さんが卒業した時

そのお古をもらって使った。


我が家の子供の時には多少色も代わったものがでていて、素材はもちろん

もうしっかりしたものだった。

ピンクなんか買いたかったが、無難に「赤」にした。

変わった物を持つと“いじめにあう”とか言う話も聞いていたので

新米の母親は一応無難なものにした。(小心者なので)


でも、今では制服も殆ど自由服に近いものになり、うちの子のときには

制服の上にジャンパーなんか着て行けなかったのに、結構着ている子を見る。


時代は変わっている。

やっぱりもう、おばあちゃんの年代なんだなーと   思ってしまいます。

子供の頃の家族写真

2006-10-26 15:15:03 | 思い出
子供の頃に家族で写った写真が出てきたので、姉が写真屋で修正して

もらったのをくれた。

二枚あったが、一枚は丹前を着た父、サザエさんのような頭の母の前に

姉、兄 私が手に人形を持って並んで座っている。

後ろのくだけた両親の服装に比べ兄はなぜか学生服のようなものを着て

きまっている。私はスモックにズボン、姉は毛糸の半そでにジャンバースカート。

写真を見て姉に「この半そでの毛糸のセーター、嫌いじゃったよね。

なんか、ちくちくして。」と私。あの頃はサマーヤーンと言うものがないので

冬の毛糸で半そでを編んでいるのでチクチクした。


もう一枚の写真、ちょっと姉と話が盛り上がったのが着物姿で移っていること。

それも、お祭りのような着物じゃなくて、ネルのいわゆる“寝巻き”。

お雛様の前に子供だけで並んで写っている。

ネルの寝巻きの上にちゃんちゃんこを着て。

私が「この寝巻きの柄と色、覚えとるよ」と言うと、姉も覚えていると

言っていた。前述の写真の私が来ていたスモックも色や形を覚えている。


あの頃 パジャマと言うものはなく、夜寝るときは夏は浴衣、冬は

ネルの寝巻きだった。夏はともかく、冬は布団に入るとき寝巻きのすそを

足ではさんで入らないと上にたくれあがって(意味 分かりますでしょうか)

足が寒くなる。なかなかコツが要った。もちろん雪が降る頃には

この寝巻きの下に厚いズボン下をはいていた。

コタツは 時代劇に出るようなもので、少しあとに品川アンカという豆炭一個を

入れたあんかが出回った。

毛布も今のようなあったかいものではなかったので、厚着をしていた。

この写真の私は姉が言うには3才くらい、昭和30年頃の話です。