歴声庵

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甘粕継成日記について

2006年01月15日 21時35分21秒 | 戊辰戦争・幕末維新史
 先日、北越戦争第六章の記事を書き終わったので、「復古記」や「防長回天史」の史料を読み直したいと書きましたが、結局現在米沢藩参謀甘粕継成の日記(「甘糟備後継成遺文」収録)を読み返しています。毎度毎度言動不一致で申し訳ありません。
 この甘粕日記以前読んだ時は、北越戦争の記事を書くのと平行して読んでいたので、じっくり味わう余裕はありませんでしたが、今回こうして純粋に読み物として甘粕日記を読んでみると、以前史料として「何か新しい発見は無いか」とガツガツとした読み方をしてた時には気付かなかった事柄に色々気付いて味わい深いです。
 しかし何ですかね一般兵士や藩としての戊辰戦争の公式史料はたくさんありますが、指揮官クラスが書いた戊辰戦争の記述(しかも日記形式)と言う非常に珍しい史料なのに、大鳥圭介の「南柯紀行」や山県有朋の「越の山風」と比べると、この甘粕日記の認知度が低いのは何故なんでしょうね。まあ幕府歩兵伝習隊を率いた大鳥や、新政府軍北陸方面軍を率いた山県に比べると、甘粕及び甘粕が所属する米沢軍は地味かもしれないので、それが原因なのですかね。しかし北越戦争での同盟軍の主力は間違い無く米沢軍なのですから、後世の米沢軍の評価の低さには納得出来ないんですよね、そして後世では同盟軍の主力は長岡軍と何故か”会津軍”になっているんですよね、この後世長岡軍と並んで会津軍が主力とされている事に作為的な物を感じてしまうのですが・・・。
 閑話休題、何はともあれ米沢軍参謀、後には同盟軍参謀にも就いた甘粕の日記なのですから、同盟軍の戦略戦術から、当時の同盟軍の内部状況まで判る非常に良い史料なのですが、解せないのが7月2日の米沢軍による八丁沖西部戦線での大攻勢以降、日記の内容が自分(甘粕)とは関係無い福島県浜通り方面の戦いの記述ばかりになり、北越戦争のクライマックス(と私が思っている)の第二次長岡城攻防戦、それに対する新政府軍の反撃作戦、そして米沢藩藩境防衛と米沢藩の降伏と言う甘粕自身にも米沢藩にとっても大切な事柄に全く触れられていないんですよね。
 以前メールで話した(?)方とも話したのですが、多分新政府軍の目を気にして後日甘粕自身が日記を改ざんしたのでしょうが、そうなると解せないのが「改ざんされた7月以降の日記が存在するのか」と「何故7月からの改ざんと言う中途半端ではなく、全文を改ざんしなかったのか」と言う事ですね。後者は甘粕自身じゃないと判らないので、後世の人間にはどうしようもありませんが、前者はもし現存するなら北越戦争史を調べる上での世紀の大発見になるので、出てくれば良いんですけどね。

 他にも甘粕日記については色々書きたい事がありますし、米沢軍の後世の評価の低さについても思う所はあるのですが、それはおいおい書いていきたいと思います。

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