歴声庵

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甲斐:中牧(浄古寺)城址

2013年03月30日 22時48分55秒 | 登城記・史跡訪問

 元々は武田信玄によって、甲斐・武蔵間の国境防衛の為に作られた中牧城。しかし歴史の表舞台に表れたのは、皮肉にも武田氏滅亡後の天正壬午の乱で、旧武田家家臣同士が戦う舞台になった事からでした。


 本丸天守台跡に建つ、中牧城址の碑。


 中牧城址近くの八幡神社に建つ案内板。

 中牧城は武田信玄によって、武蔵から雁坂峠を越えて甲斐に至る秩父往還を監視する為に、大野砦と合わせて築かれたと伝わります。しかし武田氏が健在時は、秩父往還からの敵の侵攻は無く、存在感を発揮する事はありませんでした。中牧城と大野砦が歴史の表舞台に表れるのは、武田氏が織田信長によって滅ぼされ、その信長も本能寺の変によって横死し、権力の空白地となった旧武田領に徳川・後北条・上杉の各勢力が侵攻して激突した天正壬午の乱の時です。
 武田氏によって中牧城と大野砦を任されていた、国人衆の大村氏とその一党は信長による武田氏の残党狩りからも逃れる事が出来たらしく、本能寺の変の報が伝わると後北条氏の要請を受けて蜂起します。元々後北条氏を仮想敵としていた大村勢ですが、武田氏が滅ぶと後北条氏に早々と従属したの事は、当時の国人衆の立場を察する事が出来ます。
 一方徳川家康も甲斐を手に入れる為に画策を開始するものの、この時点では中央の動向を見定めるまでは動けない状態だったので、穴山勢を中牧城と大野砦に向かわせます。穴山家の当主だった梅雪は、本能寺の変を受けての逃避行の際に命を失ってしまった為、穴山家の家臣達は幼少の勝千代を新しい当主とします。しかし幼少の勝千代では混迷の世を単独で生き残るのは困難な為、穴山勢は徳川家に従属して生き残る道を選びました。穴山勢を指揮下に置いた家康は、自身が動けない間に旧武田家臣の岡部正綱や曾根昌世と共に、穴山勢を甲斐に向かわせます。かくして中牧城と大野砦で、後北条氏に従属した大野勢と、徳川家に従属した穴山勢の旧武田家臣同士が激突したのです。


 秩父往還を見下ろす台地上に築かれた中牧城址ですが、この台地は現在は畑化、及び墓地化されています。しかし意外にも土塁はたくさん現存しており結構見応えがあります。逆に大野砦の方は、現在遺構らしい遺構は何も残っていないそうです。




 本丸の天守台跡。


 本丸北の土塁跡。


 二の丸の土塁跡。


 現在は墓地となっている三の丸の土塁跡。


 三の丸と雁坂峠方面を見て、難所の雁坂峠は大軍を移動させるのは困難な地形でした。


 西側の外堀跡。


 東側の土塁と外堀跡。遠くに見える山々の向こうは武蔵の国です。

 武田家旧臣同士が戦った中牧城と大野砦でしたが、穴山勢の猛攻により両城ともあっけなく陥落し、大村氏は滅亡したと伝わります。武田氏が健在の際に、穴山勢がそれほど精強だったとは聞いた事がありません。しかしこの中牧城と大野砦の戦いを始め、天正壬午の乱では穴山勢の活躍が目立ちます。これは信長による武田氏討伐の際、武田氏の一門衆や譜代家臣は残党狩りにより徹底的に根絶やしにされた為、寄親・寄子によって構成された武田氏の軍事システムは解体され、大村勢のような小規模の国人衆しか軍事力として存在していませんでした。
 しかし穴山勢だけは、梅雪が信長に武田領に侵攻する前から臣従していた為に旧領と勢力が安堵されていました。この為に武田氏時代と代わらない陣容を有する穴山勢は強力で、重臣有泉大学助率いる穴山勢は中牧城と大野勢を陥落させたのです。両城の奪取後に家康は中牧城と大野砦に徳川勢を入れて守らせますが、後に後北条勢が雁坂峠を越えて侵攻した際に、見事両城で後北条氏の侵攻を防ぐ事に成功します。
 かくして信玄が、雁坂峠からの侵攻に備えて築かせた中牧城と大野砦は、皮肉にも家康によって本来の任務を果たすことになったのです。

 訪問日:2013年03月27日


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