薩摩藩士右松十郎太と言う人物の経歴が知りたくて、本日は都立中央図書館に行ってきました。先日ツイッターで書いたとおり、戊辰北越戦争 羽越国境の戦いに参加した新政府の村上・庄内軍は、『復古記』では長州藩士の福田侠平と伊藤伝之助、長崎出身の二見一鴎斎、そして薩摩藩士の右松十郎太の四人が合議制で指揮していたと書かれています。しかし私は合議制と言えども、実質この方面の新政府軍を率いたのは福田侠平だと思っています。これは福田が奇兵隊軍監の地位におり、馬関攘夷戦争・幕長戦争・鳥羽伏見の戦いで活躍した歴戦の指揮官なので、軍歴の有る福田が実質率いたと思っています。この仮説を立てるのは、他の三人が福田より軍歴がなかったと説明出来れば一応良いかなと思っています。
まずこの内伊藤は福田より格下だったと言うのが、一番簡単に説明出来ると思います。前述のとおり福田は奇兵隊の軍監ですが、伊藤は同じく奇兵隊の輜重担当で、元々福田の部下でした。元々福田の部下で、輜重担当だったと言う事は、伊藤はこの方面の新政府軍の輜重担当として任命されたと考えるのが自然で、奇兵隊時代の関係から伊藤が福田を差し置いて軍事指導したとは思えません。続いて二見は長崎出身の僧で、元々は攘夷を唱えていたと伝えられます。大村益次郎や大鳥圭介のような例外は居るものの、そうそう僧が軍事知識を持っているとは考えられないので、二見も福田より軍事知識があるとは思えません。
と言うわけで、この村上・庄内方面軍を率いた四人の軍監の中で、唯一福田に対抗出来る軍歴の持ち主がある可能性があるのが右松なので、右松がどのような経歴の持ち主なのかを調べに行った次第です。これで右松の軍歴が、福田と比べると見劣りするものだったら、福田が実質指揮したと言えるかなと思っていたのですが...。
右松について書かれた本が全く見つかりませんでした(汗)。『幕末維新大人名辞典』や鹿児島県出身著名人の人名辞典、『鹿児島県史』などを読んだのですが、右松の名は見つかりませんでした(汗)。ネットで右松の名を検索しても、一件もヒットしなかったので不安に思っていたのですが、まさか本当に見つからないとは...(汗)。でもこれって戊辰戦争では村上・庄内方面軍の軍監を勤めたとしても、それ以外では歴史上の表舞台には出てこなかったと言う事ですかね。一応村上藩士や高鍋藩士の記録によれば、右松の名が頻繁に出てくるので、軍の運営に関わっていたのは間違いないと思うのですが、右松の経歴が判らない以上、軍事指導に関わっていたのか、単なる連絡将校だったのか判断が出来ません(二見は連絡将校だったと思いますが)。
そんな訳で、福田が実質村上・庄内方面軍を率いた仮説の為に都立中央図書館に行ったのに、右松十郎太と言う人間への謎が深まる結果となりました(汗)。せめて幕末の薩摩藩士の分限帳があれば経歴の手がかりになると思うのですが、薩摩藩の分限帳って資料集か何かに入っていないのかしら?。う~んこれは鹿児島県立図書館に質問のメールを出すしかないのでしょうか。
最新の画像[もっと見る]
- 2017年のフィールドワークを振り返って 7年前
- 2017年のフィールドワークを振り返って 7年前
- 2017年のフィールドワークを振り返って 7年前
- 2017年のフィールドワークを振り返って 7年前
- 2017年のフィールドワークを振り返って 7年前
- 2017年のフィールドワークを振り返って 7年前
- 2017年のフィールドワークを振り返って 7年前
- 『幕末史研究』44号 刊行しました 7年前
- 「戊辰白河戦争史跡巡り 新選組斎藤一の戦跡を追う」のお知らせ 7年前
- 小島資料館の紹介 7年前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます