結局台風の接近により、この三連休は白河訪問を断念しました(つД`)ノでも、アドバイスを頂いたように、来週の訪問が有意義になるように、この三連休は資史料の読み込みに専念したいと思います(・ω・)ノ
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年9月16日 - 11:29
備忘録:白河戊辰戦争では、新政府軍と同盟軍の双方が、南湖の事を「大沼」と呼んでいる。と言うか、数年前に白河を領地としていた、棚倉藩でさえ、大沼と呼んでいるのですが(汗)
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年9月16日 - 18:44
白河戊辰戦争での大規模な戦闘は、5月26日、6月12日、7月1日、7月15日の四日間。いずれも同盟軍による攻勢で、5月26日は全方位攻撃。6月12日は南東(棚倉方面)を主攻撃にした全方位攻撃。7月1日は北西のみからの攻撃。7月15日は北東を主攻撃とした、北東と北西からの攻撃。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年9月16日 - 18:53
和田山(403高地)についての、『復古記第13巻』における仙台藩の記述(26頁)
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年9月16日 - 21:51
「(前略)本道一方大苦戦、二本松勢崩レ立、會藩隊長戦死、和田山へ引揚げ候處、官軍二手ニ分レテ進撃至急、和田山ニテ死傷多分、七曲阪上マテ引揚候處、官軍和田山ニ上リ、陣屋陣屋ヲ焼沸候故
大松澤掃部之助手、小栗大三郎、平田小四郎、精兵僅か四十四人、左右ヨリ進ミ烈ク発砲攻立候處、官軍引揚、終ニ和田山ヲ守返、會藩應援授入代テ和田山ニ陣ス」とあります。これを読むと、和田山(403高地)は単に陣地を構築しただけではなく、滞陣用の陣屋まで設けたみたいですね。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年9月16日 - 21:59
確かに奥州街道と白河街道(会津街道)の分岐点に位置する、交通の要所に在る山ですから、新政府軍も同盟軍も重視するのは当然ですよね。この和田山(403高地)の攻防は、白河戊辰戦争でも、金勝寺山の戦いと立石山の戦いと並んで、重要な戦いだったと思います。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年9月16日 - 22:03
そして、この山が和田山(403高地)な訳です。この追分を右に進むと奥州街道、左へ進むと白河街道(会津街道)と言う、交通の要所なのが判って頂けると思います。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2017年9月16日 - 22:19
今週は断念しましたが、来週はここに登って、歩兵台場やその他の遺構を探したい… twitter.com/i/web/status/9…