歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

戊辰箱根戦争関連史跡

2013年01月13日 18時07分49秒 | 登城記・史跡訪問

 昨年末にサークル幕末ヤ激団さんにて、戊辰箱根戦争の同人誌に参加させて頂きましたが、今回はその関連画像を紹介させて頂きます。本当は新刊と一緒に画像を載せたペーパーを配りたいなと思っていたものの、ペーパーの目玉にしたかった戊辰箱戦争の石碑が道路工事により撤去されてしまったらしく(後述)、この目玉となる石碑の画像が無いと締まらないと思ったので、ペーパー作成は諦めて今回のブログでの公開とさせて頂きました。
 戊辰箱戦争の経過と戦局については、冬コミ新刊で書かせて頂いたので、今回は関連史跡の画像紹介に留まらせて頂きます。もし戊辰箱根戦争の戦局や経過について興味がある方が居ましたら、次の夏コミでも再販すると思いますので宜しくお願いします(^^;)。
 ただし新刊では紙面が足りずにカットした、山崎の戦いについての補足説明を画像も交えてさせて頂きたいと思います。

 慶応四年閏四月十一日、房総諸藩を恭順させた遊撃隊は相模(現神奈川県)真鶴半島に上陸します。この遊撃隊の決起と請西藩兵の合流、そしてその遊撃隊による房総諸藩の平定関連の画像に関しては、まだ撮影していないのでありません。年内中には訪問したいと思いますので、その際に撮影したいと思います。


 真鶴半島に上陸した遊撃隊が向かったのが、まずは小田原城です。画像は小田原城の復元天守閣
 小田原城と言えば、戦国時代の後北条氏の居城として有名ですが、二百五十万石近くの領土を誇った後北条氏の居城の規模を、十一万石の大久保氏がそのまま維持出来る訳がなく、後北条氏時代と比べると規模も縮小し、本丸が在った位置も変更されています。そうは言っても東京の近郊で、これだけ立派な復元天守閣が有る城跡は他に無いので、私が訪問した際も外国人を含め多くの観光客が訪れていました。


 小田原藩との同盟を断られた遊撃隊が、紆余曲折の末にたどり着いた甲斐(現山梨県)黒駒村(画像は黒駒村の現況)です。
 ここに宿陣する間に新たに参加兵が訪れた事もあり、遊撃隊は最終的には二百名を超える軍勢になります。


 旧黒駒村に建つ戸倉神社。幕末にも存在していたらしいので、あるいは遊撃隊の将兵たちも訪れたかもしれません。
 尚、旧黒駒村は戦国時代には、本能寺の変後の旧武田遺領争奪戦である天正壬午の乱にて、鳥居元忠率いる徳川勢と後北条勢が激突した地でもあり、何気に歴史の舞台になった土地だったりします。


 黒駒村を去った遊撃隊は、沼津藩領(現静岡県)の香貫村に宿陣します。画像は遊撃隊が宿陣した霊山寺。


 霊山寺の本堂。本堂は遊撃隊が宿陣した後に建て直された物でしょうが、境内には江戸時代から現存する鐘楼が在るので、或いは遊撃隊もその鐘を突いた事があるかもしれません。
 また本堂の右後方に見える小山は香貫山。記録によれば、香貫村に宿陣中の遊撃隊は村内に陣地を構築していたと伝えられますが、或いはこの香貫山に陣地を構築したのかもしれません。もし、そうなれば後述する山崎村の戦いで、遊撃隊が高地に砲台を構築出来たのも、この香貫山で得たノウハウがあったからかもしれません。


 復元された箱根関所の関門。実際に関門が在ったのは街道上でしたが、現在は芦ノ湖の湖畔に復元されています。


 遠見番所跡から見下ろした、実際に関門が置かれていた辺りと思われる場所。
 上野戦争の開戦を知った彰義隊は、援軍に向かう為に箱根関所に到着するものの、関所を守っていた小田原藩兵と交戦する事になります。

 その後、遊撃隊と小田原藩は一旦同盟するものの、新政府軍の襲来を知って再び新政府軍に恭順し、五月二十六日に山崎の地にて遊撃隊と、小田原藩兵を先方とした新政府軍が激突します。

 
 両軍が激突した山崎古戦場の遠景。
 遊撃隊は箱根峠内の隘路の中で、唯一開けた土地である湯本村周辺に布陣して、小田原藩兵と新政府軍を迎え撃ちます。


 東海道の旧道と新道の分岐点。右が旧道で、左が明治以降に作られた新道です。


 旧道を歩いてみて。道の幅は箱根戦争が行われた時と変わらなかったと思います。


 早川と三枚橋。それまで早川の北岸を通っていた東海道は、この三枚橋で早川を超えて、早川南岸に至ります。


 早川南岸の現東海道。左側の寺は早雲寺。


 戊辰箱根戦争の説明版。以前は戊辰箱戦争が行われた事を表す石碑が建っていたらしいですが、私が訪れた際は道路工事の為に撤去されたのか石碑は無く、替わりになのかこの説明版が建っていました。ただこの説明版は資材選択を間違えているらしく、日光によりアクリル(?)のカバーが変質してしまい、白く濁ってしまって何と書かれているかが読めません(涙)。友人が頑張って拭いてくれたので「山崎の古戦場」の文字は読めるようになったものの、乾くとまた白くなり読めなくなりました(汗)。観光資源になるかもしれないのに、何をしているんだ小田原市は…。

 さて、ここからは同人誌で書けなかった事を補足させて頂きます。
 山崎の戦いに参加した小田原藩兵の総兵力については結局判りませんでした。小田原藩が新政府軍に提出した書類の中に、小田原藩の銃兵の総数を七百名余と書かれているので、藩が滅ぶかどうかの瀬戸際ですから、この全兵力が出兵したのではないかと思っています。一応今後も山崎の戦いに参加した小田原藩の編成規模については調べたいと思っています。
 一方の遊撃隊でこの戦いに参加したのは第一軍・第二軍・第三軍の凡そ150名ほどと思います。兵力に劣る遊撃隊は意図したものかは判らないものの、少数で守るに適した隘路の湯本村付近に布陣します。この時に隘路両側の山地の中腹に砲台を築いていますが、これは前述の香貫山で陣地を構築したノウハウがあったからこそ出来たのではないかと思います。脱兵丘陵ニ砲臺ヲ築キ(慶応戊辰小田原戦役史)」
 隘路に布陣する遊撃隊に対して、小田原藩兵は兵を三方に分けて進軍しました。本体は東海道を進む一方で、別働隊を隘路両側の山地を進ませているのが史料に書かれています。「小田原御人数往還通リハ風祭村其他早川村ヨリ畑之平北は水尾村ヨリ長興山ノ裏手ヘ操出シニ相成(明治小田原町史)」「別ニ一隊ヲシテ、石垣山ヨリ進ンデ、脱兵ノ側面ヲ撃タシム(慶応戊辰小田原戦役史)」
 この山崎の戦いで遊撃隊を率いた伊庭八郎は、一般的に剣士と言われているものの、この山崎の戦いでは隘路に布陣して、隘路を挟む山地の中腹に砲台を築くなど、指揮官して決して悪くない手腕を発揮しています。この山地の中腹に配置された砲兵により、数に勝る新政府軍に対して善戦していたものの、山地の中腹に配置された兵力は少数であり、やがて山地を迂回してきた小田原藩兵が現れると、山地に配置された遊撃隊は駆逐され、結局遊撃隊本体も撤退する事になります。
 「隘路自体は少数で守るに適した土地だったが、山崎の地を守るには遊撃隊の兵力は少な過ぎた」とは、歴史家の大山格氏の指摘ですが、山崎の戦いを考察するには、これが全てだと思います。例えば早川南岸の山地の、小田原側の突端には秀吉が御北条氏討伐の際に築いた石垣山一夜城跡がありました。この石垣山一夜城の遺構が、戊辰戦争時にどれだけ残っていたかは判らないものの、石垣が現存している以上は他の山地に布陣するよりも、この石垣山一夜城跡に布陣した方が有利だったでしょう。ただ伊庭には、湯本村から離れた石垣山一夜城跡まで配置する兵力はありませんでした。


 山崎村付近から小田原方向の東海道を見て。右側の山地の突端に石垣山一夜城跡が在ります。
 正直言って戊辰戦争の中でも箱根戦争は知名度の低い戦いだと思いますが、小田原藩の迷走と言う政治的にも、隘路の戦いと言う軍事的にも興味深い戦いだと思いますので、これからも調べていきたいと思います。


1月12日(土)のつぶやき

2013年01月13日 01時17分09秒 | twitterまとめ

実際に直江兼続が使ってましたよ~。ただし「愛」と言う意味ではなく、愛染明王の頭文字ですけれどもね。 @pacific_18 愛の文字が入った兜ってネタじゃないのか?


マツノ書店のDM到着。今年の復刻一弾は『佐賀藩戊辰戦史』みたいですね。これは是非購入したいと思っています。