「敗者は『衆寡敵せず形勢不利なところで仲裁が入ったが、それまでに二股掛けの寝返り野郎を散々に叩いてやったぜHAHAHA』と書く。勝者は手堅く順当に勝ったのだけど、後ろめたいところがなきにしもあらず、なのであまり声高に主張出来ない。そこで敗者の主張が通説になる」
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「ところが、だ。この合戦の第三者の観察が、一次史料ではないがけっこう信憑性ある史料として研究者の論文にも使われているものの中にある」「あるのか? で、それを商業誌で紹介しようと?」「ああ」「やめろっ、(敗者の)ファンに殺されるぞ!!」
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八幡和郎著『本当は間違いばかりの「戦国史の常識」』で、「信長にはひたすら服従していた家康が、秀吉との対決路線を選んだのは不思議だが、その原因は本能寺の変のあとの混乱に乗じて、家康が甲斐と信濃を横領したことだった(P141)」と書かれていますけれども
家康は、織田政権(清洲会議)の承認を得て、織田領(甲斐・信濃・上野)を横領しようとする北条氏から、織田領を守ると言う大義名分を得て甲信に出兵した筈なので、八幡氏のこの主張は違っている気がする。そもそも徳川家の出兵が、北条氏より遅れたのは、清洲会議の成立を待っていたからだった筈。