歴声庵

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世良修蔵暗殺事件について

2007年07月01日 14時29分23秒 | 戊辰戦争・幕末維新史

 先日ようやく墓所を訪れる事が出来た世良修蔵ですが、この世良が暗殺された理由については『世良が奥羽諸藩の憎しみを買ったから』というのが一般的に言われています。私もこれについて「世良は会津藩を討伐するという大総督府の命を忠実に守っただけだが、この妥協の無い態度が事なかれ主義の奥羽諸藩の憎しみを買った」「世良の故郷の周防大島は、会津藩が主戦派だった幕長戦争によって戦災に見舞われ、世良の同士・知人が数多く命を失った為、世良は会津藩に強硬な態度を取った為に事なかれ主義の奥羽諸藩の憎しみを買った」の二つと解釈していたのですが、先日読んだ原口清氏著の「戊辰戦争」に興味深い内容が書かれていたので引用させて頂きます。

 「これ(世良修蔵の態度)は東北諸藩贔屓の戊辰戦争史家がしばしば言うような、「無理解」や「非道」「傲頑」といったものではなく、維新政府の取っていた基本方針の確認である。(中略)彼(世良)は総督が嘆願書を受け取った以上、その回答は出さなければならないが、その場合も名義を失わないよう「朝敵不可入天地ノ罪人ニ付、不被為及御沙汰、早々討入可奏成功」とう断固たる回答を与え、彼等が不満として反論する場合は、適当にごまかしてその場を切り抜け総督は早く白河城に転陣すること、世良自身は「奥羽皆敵ト見テ逆襲ノ大策」をたてるため、急遽江戸の大総督府の西郷参謀と相談し、更に大阪にもゆき、「大挙奥羽ヘ皇威ノ赫然到候様」にしたい。「(会津を)此歎願通ニテ被相免候時ハ、奥羽ハニ三年ノ内ニハ朝廷ノ為ニアラヌ様可相成、何共仙米俗論朝廷ヲ軽スルノ心低、片時モ難図奴に御座候。右大挙ニ相成候時ハ、払底ノ軍艦ニテモ酒田沖ヘ一ニ艘廻シ、人数モ相増、前後挟撃ノ手段ニ到候他到方無」と。ここには奥羽列藩と真っ向から対立する態度がしめされている。

 以上、少々長い引用になってしまいましたが、原口氏は本書の中で諸藩から新政府に出仕した藩士達が、戊辰戦争が進む中で絶対主義官僚化した(これには当然世良も含まれますが)と説明し、絶対主義政権を成立させる為には全ての封建諸侯を屈服させなくてはならず、最大の封建諸侯である徳川氏を屈服させた以上、残る敵対勢力は会津藩であり、新政府に対する全面恭順を拒む会津藩と妥協する事は、身分差別により成立する封建主義を存続させる事になり、絶対主義政権により国内を統一するという使命感を持つ世良としては、会津藩・仙台藩を代表する封建主義勢力と妥協は出来なかったと説明しています。これは革新派の絶対主義官僚である世良と、保守派の封建主義権力である奥羽諸藩との対立で、身分差別により成り立つ封建主義を守ろうとする奥羽諸藩としては、封建主義を否定しようとする世良を許す事は出来なかったのでしょう。
 これまで「奥羽諸藩贔屓の人は世良を矮小化している」と常々思っていた私ですが、この原口氏の説明を読んで、世良が奥羽諸藩に憎まれていた理由を冒頭に書いた通りにしか解釈していなかった私も世良の事を矮小化して解釈していたと猛省しました。この「革新派の絶対主義官僚である世良と、保守派の封建主義権力である奥羽諸藩との対立」という図式で考えれば、世良が暗殺されたのは国内を絶対主義政権で統一する為に封建主義勢力と妥協しなかった為に、保守派の反動勢力である仙台藩の凶刃の犠牲になったのだと実感しました。
 また身分差別による封建主義を守りたかった保守派の奥羽諸藩としては、封建主義を脅かす絶対主義官僚の世良は、よく言われるように確かに悪魔の使いだったのかもしれません。

 この様に原口氏の唱えた「革新派の絶対主義官僚である世良と、保守派の封建主義権力である奥羽諸藩との対立」との説は、斬新であり読み終えた本当に感銘を覚えました。本当にこれまで世良の事を調べているつもりだった私としては、本当に目から鱗が落ちる衝撃的な意見でした。今後も世良については調べていくつもりですが、今後はこの原口氏の唱えた「世良は革新派の絶対主義官僚だったため保守派の奥羽諸藩に暗殺された」という世良の暗殺を「革新派絶対主義権力と保守派封建主義権力との対立の犠牲になった」の説を支持して世良の事を調べていきたいと思います。その様な意味では世良を調べるに当っても、原口氏の「戊辰戦争」は読んで良かったと実感しています。