一ヶ月以上経ってしまいましたけれども、サイトのトップページに新しい画像を貼り付けさせて頂いた通り、先月のGW明けにお世話になっている方達と、会津と野州の戊辰戦争関連史跡回りの旅に行ったので、今更ながらその感想を書かせて頂きます。
今回は「電車では行けない史跡を回ろう」と言うのがテーマだったので、宇都宮までは電車で行ったものの、そこからはタクシーで北上を開始、大鳥圭介率いる会幕連合軍と、板垣退助と伊地知正治率いる新政府軍が激突した会津母成峠を目指しました。この間私がナビを見間違えて迷子になると言うトラブルが有ったものの、何とか母成峠に到着、まずは新政府軍・会幕連合軍双方の慰霊碑を訪れました。その後本格的に母成峠第一陣地跡に移動しました、大鳥は母成峠に三段に渡る防御戦を築き、現代で言う縦深陣防御を試みたのですけれども、私たちが訪れたのはその内の第一陣跡だけでした。しかしそこには今も石垣によって築かれた防御戦が今も残っており、想像以上に長いその防御戦には驚きました。石の積み方が荒っぽい所が急造陣地である事を表しており、その存在感には圧倒されました。戊辰戦争関連の古戦場はよく訪れているものの、このような石造りの陣地跡は本当に勉強になりました。
しかし大鳥圭介による縦深陣防御思想も、背後を守っていた会津藩兵が臆病にも戦わずに逃亡してしまった為、新政府軍の前に敗れ去りました。幾ら大鳥が優れた知将であり、その指揮下が歴戦の旧幕府歩兵でも、友軍が臆病な会津藩兵では、その手腕を発揮する事が出来なかったのは惜しい事です。
母成峠の陣地跡を見た後は、会津鶴ヶ城城下方面に移動を開始。会津藩の最終防衛ラインである十六橋を目指します。実際に十六橋に訪れて驚いたのは対岸があまりにも近かった事ですね。この距離では新政府軍の射程距離内であり、新政府軍が十六橋対岸に至るまでに、十六橋を破壊出来なかった会津藩の対応のまずさを実感しました。これも十六橋破壊の命を受けた佐川官兵衛が愚かにも、出陣前夜に泥酔して寝坊した為に出発が遅れたと言う信じられないエピソードがあります。会津信者からは英雄と持てはやされる佐川ですけれども、このエピソードからも近代軍の指揮官としては無能な、単なる猪武者としか私には思えません。
十六橋の次は戸ノ口原に移動、ここは十六橋を突破された会津藩が防御戦を布いた場所で、現在も塹壕跡が残されていると伝えられているのですけれども、残念ながら見つける事は出来ませんでした。しかし実際に訪れた戸ノ口原は完全な平野で、敵軍を迎撃するにはあまりにも向かない地形ですので、十六橋を突破された時点で、会津藩の敗北は決まっていたと言って良いのでしょう。
ところで戸ノ口原と言えば、白虎隊が有名です。現在でも白虎隊は有名で持てはやされていますけれども、この時白虎隊に求められていたのは、会津藩正規軍が戻ってくるまでの持久戦(遅滞戦術)だったのに、攻め寄せる新政府軍に愚かにも決戦を挑み、鎧袖一触され集団自決を起こすなどは命令違反であり、軍事的には何の成果も残さなかったのに、その命令違反者達を持てはやす現在の風潮は私には理解出来ません。
この後会津城下に入ったのですけれども、母成峠に向かう際の私のナビ見間違えが響き、折角会津鶴ヶ城城下を訪れたのに、通り抜けるだけになってしまったのは、鶴ヶ城城下を初めて訪れる友人にも申し訳ない事をしました。
鶴ヶ城城下を通り抜け、会津西街道をひたすら南下し、この日は鶴ヶ城と今市宿の中間地点に当たる大内宿で一泊しました。戦略的要所である大内宿は、戊辰戦争でも争奪の舞台となり、新政府軍と会津藩兵の双方に放火され灰燼と化します。しかし戊辰戦争後から住民の努力より復興し、現在は江戸時代の宿場町の面影を残す観光地として名が知られています。実際朝早くに起きて、山頂から見た大内宿の姿は本当に見事でした(眠かったけど)。
大内宿で朝食を取って、各自土産を購入した後は、再び車で会津西街道の南下を開始。田島宿を通った後は、大鳥軍が布陣した藤原宿を目指します。ここは大鳥軍が築いた陣地跡が現在も残ると言う事で、私にとっては今回の旅の最大の目標でした。しかしガイドブックを片手に陣地を探すもののそれらしき所(入り口)が中々見つからず焦っていたところ、先生がガイドブックとは正反対の所に向かったので、付いて行った所、そこに塹壕跡があったので驚きました。何でも地形的にここに陣地を築くのが理にかなっていると思ったからとの事ですけれども、ガイドブックに頼って自分で考えなかった事を、友人同様に私も反省しています。
藤原宿を後にした後は、今市宿と日光を訪れましたが、双方とも通り抜けたと言う感じで、じっくり史跡を見る事は出来なかったものの、電車では中々行けないだろう会津母成峠と藤原宿陣地跡を訪れる事が出来たのは本当に良かったです。会津母成峠を巡る戦いを当サイトで扱う予定は今の所ありませんけれども、藤原宿の攻防戦については野州戦争の記事としていずれ書きたいと思っています。