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歴声庵

ツイッター纏め投稿では歴史関連(幕末維新史)、ブログの通常投稿では声優さんのラジオ感想がメインのブログです。

市川行軍

2008年08月10日 19時11分23秒 | 登城記・史跡訪問

 先週の話となりますけれども、大鳥圭介の江戸脱走から市川宿までの足取りを辿ろうと、いつもお世話になっている天下大変の入潮さんと、大鳥が本多や大川等の側近達と合流した江戸法恩寺から、他の旧幕府軍と集結したと思われる市川弘法寺大林院跡まで歩いてみました。大体15キロ位の行程だったので、出かける前は何とかなるだろうと思っていたのですけれども、昨今の温暖化による真夏の炎天下を甘く見ていた為、何とか歩ききる事は出来たものの、すっかりヘロヘロになってしまい、自分の体力不足に自己嫌悪を感じてしまいました(涙) このような失態が無いように体力作りとダイエットに励みたいと思うものの、同時に真夏の史跡巡りは危険だと思った次第です(汗)

 まあ私の体力の無さの話は置いておいて、大鳥達旧幕府軍が集結したと思われる市川弘法寺大林院跡を訪れる事が出来たのは感慨深かったです。ここを後にした大鳥軍は二手に分かれて北上を開始して、これにより新政府軍と大鳥軍との野州戦争が始まったのですから、野州戦争開始の地と言える市川弘法寺大林院跡を訪れる事が出来たのは本当に感慨深かったです。
 ところで、今まで市川弘法寺大林院を旧幕府軍の集結の地と書きましたけれども、この旧幕府軍集結の地には諸説があり、新人物往来社の「土方歳三の35年」には、弘法寺近所の総寧寺が集結の地と書かれていたりします。このように諸説があるため、私自身今まで集結の地が判らなく、弊サイトの野州戦争の記事でも集結の地については場所を記述していませんでした。しかし今回同行して頂いた入潮さんから見せて頂いた山崎有信編による「南柯紀行」には、山崎自身が大鳥から聞き取りをした上の「弘法寺大林院跡」との編注が入っており、旧幕府軍が合流したのは弘法寺大林院跡だったと言うのは非常に信頼性が高いと思います。尚、この弘法寺大林院跡以外でも山崎はたくさん編注を入れているので、私が所有している新人物往来社版の「南柯紀行」よりも、よほど判りやすく重宝すると思いました。う~ん普通この手の資料を刊行する場合は、後から刊行した方が親切なものですけれども、この「南柯紀行」に関しては、先に刊行した方が親切な構成になっていると言う不思議な状態なっています。

 何はともあれ、旧幕府軍集結の地まで自分の足で歩いた今回の行軍は、良い経験となりました。今回の行軍で撮影した画像も何枚かありますので、この盆休み中に野州戦争前編の記事に追加して、記事を補足したいと思います。


会津・野州紀行

2008年06月12日 22時04分08秒 | 登城記・史跡訪問

 一ヶ月以上経ってしまいましたけれども、サイトのトップページに新しい画像を貼り付けさせて頂いた通り、先月のGW明けにお世話になっている方達と、会津と野州の戊辰戦争関連史跡回りの旅に行ったので、今更ながらその感想を書かせて頂きます。
 今回は「電車では行けない史跡を回ろう」と言うのがテーマだったので、宇都宮までは電車で行ったものの、そこからはタクシーで北上を開始、大鳥圭介率いる会幕連合軍と、板垣退助と伊地知正治率いる新政府軍が激突した会津母成峠を目指しました。この間私がナビを見間違えて迷子になると言うトラブルが有ったものの、何とか母成峠に到着、まずは新政府軍・会幕連合軍双方の慰霊碑を訪れました。その後本格的に母成峠第一陣地跡に移動しました、大鳥は母成峠に三段に渡る防御戦を築き、現代で言う縦深陣防御を試みたのですけれども、私たちが訪れたのはその内の第一陣跡だけでした。しかしそこには今も石垣によって築かれた防御戦が今も残っており、想像以上に長いその防御戦には驚きました。石の積み方が荒っぽい所が急造陣地である事を表しており、その存在感には圧倒されました。戊辰戦争関連の古戦場はよく訪れているものの、このような石造りの陣地跡は本当に勉強になりました。
 しかし大鳥圭介による縦深陣防御思想も、背後を守っていた会津藩兵が臆病にも戦わずに逃亡してしまった為、新政府軍の前に敗れ去りました。幾ら大鳥が優れた知将であり、その指揮下が歴戦の旧幕府歩兵でも、友軍が臆病な会津藩兵では、その手腕を発揮する事が出来なかったのは惜しい事です。

 母成峠の陣地跡を見た後は、会津鶴ヶ城城下方面に移動を開始。会津藩の最終防衛ラインである十六橋を目指します。実際に十六橋に訪れて驚いたのは対岸があまりにも近かった事ですね。この距離では新政府軍の射程距離内であり、新政府軍が十六橋対岸に至るまでに、十六橋を破壊出来なかった会津藩の対応のまずさを実感しました。これも十六橋破壊の命を受けた佐川官兵衛が愚かにも、出陣前夜に泥酔して寝坊した為に出発が遅れたと言う信じられないエピソードがあります。会津信者からは英雄と持てはやされる佐川ですけれども、このエピソードからも近代軍の指揮官としては無能な、単なる猪武者としか私には思えません。
 十六橋の次は戸ノ口原に移動、ここは十六橋を突破された会津藩が防御戦を布いた場所で、現在も塹壕跡が残されていると伝えられているのですけれども、残念ながら見つける事は出来ませんでした。しかし実際に訪れた戸ノ口原は完全な平野で、敵軍を迎撃するにはあまりにも向かない地形ですので、十六橋を突破された時点で、会津藩の敗北は決まっていたと言って良いのでしょう。
 ところで戸ノ口原と言えば、白虎隊が有名です。現在でも白虎隊は有名で持てはやされていますけれども、この時白虎隊に求められていたのは、会津藩正規軍が戻ってくるまでの持久戦(遅滞戦術)だったのに、攻め寄せる新政府軍に愚かにも決戦を挑み、鎧袖一触され集団自決を起こすなどは命令違反であり、軍事的には何の成果も残さなかったのに、その命令違反者達を持てはやす現在の風潮は私には理解出来ません。
 この後会津城下に入ったのですけれども、母成峠に向かう際の私のナビ見間違えが響き、折角会津鶴ヶ城城下を訪れたのに、通り抜けるだけになってしまったのは、鶴ヶ城城下を初めて訪れる友人にも申し訳ない事をしました。

 鶴ヶ城城下を通り抜け、会津西街道をひたすら南下し、この日は鶴ヶ城と今市宿の中間地点に当たる大内宿で一泊しました。戦略的要所である大内宿は、戊辰戦争でも争奪の舞台となり、新政府軍と会津藩兵の双方に放火され灰燼と化します。しかし戊辰戦争後から住民の努力より復興し、現在は江戸時代の宿場町の面影を残す観光地として名が知られています。実際朝早くに起きて、山頂から見た大内宿の姿は本当に見事でした(眠かったけど)。

 大内宿で朝食を取って、各自土産を購入した後は、再び車で会津西街道の南下を開始。田島宿を通った後は、大鳥軍が布陣した藤原宿を目指します。ここは大鳥軍が築いた陣地跡が現在も残ると言う事で、私にとっては今回の旅の最大の目標でした。しかしガイドブックを片手に陣地を探すもののそれらしき所(入り口)が中々見つからず焦っていたところ、先生がガイドブックとは正反対の所に向かったので、付いて行った所、そこに塹壕跡があったので驚きました。何でも地形的にここに陣地を築くのが理にかなっていると思ったからとの事ですけれども、ガイドブックに頼って自分で考えなかった事を、友人同様に私も反省しています。
 藤原宿を後にした後は、今市宿と日光を訪れましたが、双方とも通り抜けたと言う感じで、じっくり史跡を見る事は出来なかったものの、電車では中々行けないだろう会津母成峠と藤原宿陣地跡を訪れる事が出来たのは本当に良かったです。会津母成峠を巡る戦いを当サイトで扱う予定は今の所ありませんけれども、藤原宿の攻防戦については野州戦争の記事としていずれ書きたいと思っています。


米沢日帰り紀行

2008年03月20日 21時16分26秒 | 登城記・史跡訪問
 先日少し書かせて頂きましたけれども、折角仙台に滞在しているのですから、先週の土曜である3月15日に隣県である米沢に行ってきました。仙台には雪が殆ど残ってなかったので、米沢も雪は溶けているだろうと思っていたら、道路には雪は無いものの、道から外れればまだまだ雪が積もっていました。う~ん同じ東北でも、太平洋側と日本海側では全然違うと実感した次第です。
 まあ今回の目的は米沢市立図書館に所蔵されている史料の閲覧だったので、雪が積もっていても支障は無かったのですけれども、墓参に訪れた甘粕継成と斉藤篤信の墓が雪に埋もれていて、墓参出来なかったのは残念です。
 
 そのような訳で史跡巡りが出来ない状況だったので、史料閲覧の為に早々に市立図書館を訪れました。幾つかの史料を閲覧させて頂きましたけれども、今回最大のお目当てだったのは戊辰北越戦争に参加した松木幾之進隊の日記です。この松木隊の日記は新潟県史の資料編にも収録されているのですけれども、一部を抜粋しての収録だったので、今回全編を読みたいと行ってきました。米沢藩兵各小隊の日記としては、大津英助隊と徳間久三郎隊の二つは所持しており、弊サイトの北越戦争の記事ではこの両小隊の日記を活用しています。ただ大津隊と徳間隊が戦っている戦線以外では、戦闘の詳細が判らなかったので、今回松木隊の日記を読む事により、大津隊と徳間隊が参戦する戦線以外の、戦線の詳細が判ると嬉々としていました。
 しかし、いざ松木隊の日記を読んでみると、虫食いページ破れ以前に、あまりにも達筆なので一見しただけでは何と書いているか判りません(汗) なるほど新潟県史が抜粋でしか掲載しなかった筈です、読める所だけ抜粋したと言う事だったのですね(汗) そんな訳で折角手に入れた松木隊の日記ですけれども、活用するにはまず解読から始めないといけないようです(汗) 

 さて長く続いた研修も明日で終わりです。ホテル暮らしに流石に疲れてきたので、ようやく帰宅出来るとホッとしています。何はともあれ、次の更新は自宅から行なえると思います

野州日帰り紀行

2007年11月10日 21時50分02秒 | 登城記・史跡訪問
 宇都宮・安塚・壬生に行ってきました。ブログでは書くのを忘れていましたけれども、先々週に小山・結城を訪れましたので、今年の正月に今市を訪れたのも含めて、ようやく小山戦から今市戦までの古戦場及び関連史跡を訪れる事が出来ました。これで正月に書いた、「今年は野州戦争の記事を書き直したい」の目標を達成する事が出来そうです。もっとも今年中に全部書くのは無理そうですが(汗)

 宇都宮~安塚~壬生間の距離感を感じてみたかったので、今回は宇都宮でレンタル自転車を借りて回ってみました。あくまで感覚的な話になるものの、壬生~安塚間よりも、宇都宮~安塚間の方が近かった気がします。どうも安塚村の戦いでは、壬生城の近くの安塚村に布陣した新政府軍の陣地を、宇都宮城から遠征した大鳥軍が攻撃したというイメージを抱いていました。しかし実際に訪れてみると、新政府軍と大鳥軍は、それぞれの拠点(壬生城と宇都宮城)の中間地点で、戦ったのだなと認識を改める事となりました。
 ところで今回の目的の一つに、安塚村の戦いの際に大鳥軍が布陣したと伝えられる、樋口城跡(戊辰戦争時既に廃城)を探すというのがあったものの、結局見つける事が出来ませんでした。幕末の時点で廃城になっていたと書かれていたので、見つけるのは難しいと思っていましたけれども、よもや一時間探し回ったのに見つからないとは思わなかったです。流石にネットで検索しても画像が見つからない遺構を、土地鑑が無い者が探すというのは無謀だったようですね(汗)
 この樋口城の遺構が見つからなかったのと、安塚村の戦いで戦死した大鳥軍兵士の墓がある光音寺を訪れる事が出来なかったので、安塚にはもう一度訪れたいと思っています。

 何はともあれ、関連史跡を回る事が出来たので、野州戦争についての記事は、今月から順次更新していきたいと思います。ところで私としては、野州戦争は小山宿周辺の戦いで始まり、第二次今市宿攻防戦で終ったと認識となっており、藤原・三斗小屋・大田原等の戦いは、奥羽戦争の付属の戦いとなっていますので、当サイトの野州戦争の記事も第二次今市宿攻防戦で終わります事を御了承ください。一応今のところ前編(小山宿周辺の戦い)・中編(宇都宮城争奪戦及び、安塚村の戦い)・後編(日光・今市周辺の戦い)の三部構成を考えているものの、後編の更新は来年になると思います。
 尚、当サイトの野州戦争の記事は相変わらず軍事偏重で、政治や民衆の動向には殆ど触れていませんので、そちらについての詳細は幕末ヤ撃団様の冬コミの新刊をご参照下さい。

白石・福島・二本松・白河日帰り紀行記

2007年06月24日 23時27分29秒 | 登城記・史跡訪問

 先日夏コミ向け原稿の作成が一段落しましたので、前々より行こうと思っていた宮城県(旧仙台藩領)白石の世良修蔵の墓所に昨日行ってきました。ただ折角白石まで行くのだから白石と、同じく世良が暗殺された福島しか行かないのは勿体無いので、また訪れた事の無い二本松と、まだ関連史跡を全て訪れていない白河に行ってきましたので簡単に紀行記を書かせて頂きたいと思います。

 行きは夜行バスを使いましたので、23日の早朝5時には白石駅に到着して、そのまま世良の墓所がある陣馬山に向かいました。駅から15分程歩いて陣馬山に到着し山頂の世良の墓の墓参をする事が出来ました。去年の11月に世良が生まれた山口県の周防大島を訪れて半年余、遂に白石の世良の墓参をする事が出来たので感無量でした。
 ところで世良の墓を実際にみて印象的だったのが、「小説家」の星亮一氏等が騒いでる世良の墓にある「削り跡」ですね。これについて星氏等は「賊と書かれた事に義侠心を燃やされた地元の方が削り取った」と言っていますが、実際に墓を見た感想としてはとても素人が削った跡とは思えないので(正直最初はどこが削られたのか判らなかったくらいです)、星氏等には悪いですが、あれはやはり大赦を受けて役所が本職の人に依頼して、賊の文字を極力墓所を傷つけないように削ったと言うのが正しいと感じました。星氏がいうように義侠心に燃えた旧仙台藩士が削ったのなら、もっと破壊するのではないでしょうか。
  
左:陣馬山
右:陣馬山に建つ世良の墓

 そんな世良の墓所がある陣馬山を後にして次に向かったのは白石城、ここは奥羽越列藩同盟の公議所を設けられた場所なので訪れたのですが、そう言えば不勉強の為この公議所が二の丸に設けられたのか本丸に設けられたのか、まだ知らないんですよね。

 白石城を訪れた後は電車で二本松に移動、ここではレンタル自転車を借りて移動したので、本来一日では回りきれない距離を効率よく回る事ができました。まずは二本松城攻防戦の前哨戦に当る大壇口倶中口の両古戦場を訪れた後に二本松城に向かいました。二本松城に関しては、まりもさん梅痴鴉さんから二本松城は意外と大きいと聞いてはいましたが、それでも想像以上に大きい城だったので驚きました。何せ大手門をくぐって城内に入ったと思ったら、そこには丘どころか小山があるんですもの。そんな小山をえっちらおっちら登っていたら頂上に天主台の石垣がそびえ立っており、そこからは二本松市内を一望出来ました。正しく二本松城は広大な堅城でしたね。 そんな二本松城が新政府軍の攻撃の前で一日で落城したのは、「逆に城が大きすぎて在城の兵力だけでは守れなかった」というまりもさんの説が正しいと実感出来ました。
 しかし二本松城を訪れて思ったのが、史料には当時の二本松藩首脳部は玉砕覚悟で新政府軍と抗戦したと書かれていますが、玉砕覚悟で戦うのならば大壇口や倶中口等に戦力を分散配置するのではなく、城内に篭って新政府軍を迎え撃った方が良かったんじゃないですかね? 外郭を放棄して新政府軍を城内に引き入れ、進行ルートが固定される城内に大砲を配置して迎撃した方が出血を強いれると思うんですけどね。常識的に考えれば城下町を放棄して城内に敵軍を引き入れて迎撃するなどは愚作ですが、玉砕覚悟なら下手に兵力を分散するよりも城内で集中して迎撃する方が損害を与えれると思うんですけどね、上手くいけば新政府軍の第一次攻撃くらいは撃退出来たのではと思うのですけどね(最終的には殲滅させられますが)。そんな妄想をしてしまうほど、二本松城は想像以上の堅城でした。
 また話は代わりますが、二本松市内の本屋で大山格先生の「慶喜、謀叛!!」を見かけたので嬉々として購入しました。ずっと探していたのに見つからなかったのに、薩摩軍も参戦した二本松でこの本を見かけたのは何かの縁かと思いました♪ 

  
左:大壇口古戦場
右:二本松城大手門口

 二本松を後にして今度は福島に移動、福島について誤算だったのは期待していたレンタル自転車を借りれなかった為、想像以上に時間が掛かってしまいました。そんな福島では世良の霊神碑と、世良が襲撃を受けた金沢屋跡、そして仙台藩(列藩同盟?)の軍事局が設けられた長楽寺を訪れました。世良が襲撃を受けた金沢屋は現在ビルが建っていて当時の面影は全くありませんでしたが、それでもようやく訪れる事が出来たという思いがありました。ところでこの福島で印象的だったのが、世良の霊神碑を訪れた時に、世良の碑を訪れる人が珍しいのが地元の方に声を掛けられ、その家族と少し話したのですが地元では漠然とですが世良はやはり良いイメージを持たれていない事に、この世良問題の根の深さを改めて実感しました。


世良の霊神碑

 そんな福島を後にして続いては白河に移動、白河には六年前に訪れた事があるのですが、まだ訪れていない史跡がたくさんあるのではりきっていたのですが、しかし福島でレンタル自転車を借りれなかったのが響いて、白河に到着したのは夕方の五時半、これでは回れる場所も少なく、結局訪れる事が出来たのは白河城及び平城及び棚倉城攻防戦で戦死した薩摩軍戦死者の墓、そして同じく白河城攻防戦で戦死した仙台藩士の供養塔だけで、ここを訪れた後新白河駅から新幹線で帰宅しました。


仙台藩士戦死者の供養塔

 以上が今回の日帰り取材旅行の感想です、今回ブログでアップした以上に撮影した画像はたくさんあるのですが、二本松城攻防戦について記事を書くのは当分先になりそうです。ただ世良の暗殺事件に関しては、先日書いた幕長戦争大島口の戦いの記事内で書かれた箇所に加筆修正し、また今回撮影した画像も加えて独立した記事にして今年中には完成させたいと思っています。


野州日帰り紀行

2007年01月05日 22時11分03秒 | 登城記・史跡訪問
 正月休み最後の昨日、日帰りの野州旅行に行ってきました。当サイトでは野州戦争の中では二度の宇都宮城攻防戦と、安塚攻防戦について記事を書かせて頂いていますが、今年は他の野州戦争も調べてみようと、日帰りの栃木旅行に行ってきました。
 小山と宇都宮には訪れた事があるので(不十分ですが)、今回は今市と安塚に行ってきました。今市では幾つかの史跡を回りましたが、中でも印象的だったのが日光まで続く杉並木です。ここでは第一次今市攻防戦と瀬川十文字の戦いが行なわれた場所ですが、大鳥脱走軍が布陣した場所は、杉並木道の傾斜が頂上に至った場所だったので、この微高地を選んで大鳥脱走軍は布陣したのだなと実感出来ました。
 他にも今市では色々回ったのですが、板垣退助が本陣を置いた場所が判らなかったのが残念でした。当時の地図と照らし合わせれば、現在のJR今市駅付近だと思うのですが、残念ながら当時を偲べる遺構や石碑はありませんでした。

 そんな今市退去後、大急ぎで安塚に移動。安塚に到着した時には既に夕暮れだったので、ゆっくり古戦場を回る事が出来ませんでしたが、激戦の地となった姿川や、その近くに建つ大鳥軍兵士の墓地などを訪れる事が出来たので良かったです。

 こうして安塚を回ってから帰りの電車に乗ったのですが、幾ら関東だからと言っても流石に日帰りで今市~宇都宮~安塚を回ろうというのは無謀でしたね(汗) まあ前述した通り今年は野州戦争について調べてみようと思っているので、ある程度調べたら今度は余裕を持ってもう一度野州戦争の古戦場を訪れたいと思います。

周防大島紀行終了

2006年11月26日 21時31分35秒 | 登城記・史跡訪問
 大島紀行から帰ってきました、今回は事前準備を入念に行なった甲斐あって充実感のある旅行でした。文殊山や帯石観音峠など行けなかった場所はありましたが、世良修蔵関連の史跡訪問は網羅出来ましたし、地元の図書館を回って幾つかの史料をコピー出来ましたし得るものの大きかった旅行だったと思います。
 ただ大島関連の史跡は大体回れましたが、遠崎や阿月の史跡は周れない場所が多かったので、来年でもまた行ければ良いなと思っています。特に阿月はいざ行ってみたら史跡の宝庫だったので、是非訪れたいです。
 そんな訳で大島紀行は終わりましたが、今回の旅行で実際に戦地を訪れて印象が変わったり、新たに判った事が出来ましたり、また書き足したい部分が出来たりしたので、また気合をいれて幕長戦争大島口の記事を書いていきたいと思っています。これから年末にかけて色々忙しくはなりますが、何とか年内には書き上げたいです。

周防大島紀行記 三日目

2006年11月25日 20時15分46秒 | 登城記・史跡訪問
 三日間続いた周防大島紀行も今日が最終日、今日は朝早く世良修蔵の生まれ故郷である椋野村に建つ世良の招魂碑を訪れたのを最後にして、大島を後にしました。

 そんな訳で大島を後にてまず向かったのが、大島対岸の集落である遠崎です。ここは世良の師である月性の妙円寺(ちなみに大島解放作戦初期の本陣が置かれたのもこの寺です)があるので、まずはここを訪れました。
 この妙円寺には若き日の世良や赤根武人が学んだ清狂草堂が復元されており、中に入る事も許されていました。復元とはいえ若き日の世良や赤根が学んだ場所に訪れる事が出来たのは嬉しかったです。

 遠崎を訪れた次は阿月に向かいました、ここは浦家の領地であり世良や赤根が阿月の若者達を教育した克己堂が在る地なのですが、私もこの克己堂を始め世良や赤根の屋敷跡等を訪れました。ところで驚いたのが旅行前はさほど注目してなかったこの阿月が、いざ訪れてみると非常にたくさんの史跡が有り、限られた時間のこの日でととても全部を周る事は出来ませんでした。特に赤根の墓所と白井小助の屋敷跡を訪れる事が出来なかったのは心残りだったので、機会を作ってまた阿月を訪れたいと思って帰りの道につき今回の旅行は終了しました。 

周防大島紀行記 二日目

2006年11月24日 19時40分27秒 | 登城記・史跡訪問
 さて二日目ですが、この日の目標は今回の旅行の最大の目標である、幕長戦争戦争大島口の激戦地であり、四境戦争の戦跡の碑が建つ源明山山頂を目指しました。前日はあれだけの大雨だったので、心配してましたが夜が明けたら一転、本当に気持ちの良い快晴の中で源明山を目指しました。ただ天気自体は良かったのですが、風は前日同様凄かったです。結局三日間とも風は強かったので、海からの風が吹き込む為か大島は一年中風が強いっぽいですね。

 何はともあれ晴れましたので、観光バスに乗って源明山の麓まで移動、ここで幕長戦争大島口の際長州軍の本陣となり、世良修蔵が指揮を取った西蓮寺を訪れました。残念ながら当時の本堂は後年の火災で焼けてしまっていましたが、世良が指揮を取った地に訪れれた事に満足していよいよ源明山山頂を目指しました。
 この源明山はたくさんの登山愛好家さんのサイトに紹介されるくらい、登山愛好家に人気の高い山らしいので、「素人に登れるかな」と心配していましたが、私が山頂を目指したルートは山頂間近まではひたすら緩やかな坂道を登っていくという、本来登山愛好家の方が登るルートではなかったので、さほど苦労せず山頂に到着しました。 
 山頂には話に聞いていた以上に立派な石碑が建っていまして、「緩やかとはいえこんな細い道でよく運べたものだね」と感心しましたが、それ以上に感動したのが山頂からの眺めの良さです。北方こそ源明山と同規模の文殊山・嵩山がそびえるため見渡せませんが、それ以外の東西及び南の方向は大島全土はもちろん海まで見渡せる絶景でした。確かにこれだけ高い山の山頂に大砲を持ち上げれば、麓から攻めかかる松山藩兵が手も足も出なかったのも納得出来ました。

 そんな源明山を下山して、源明峠を歩いて安下庄村を目指しました。途中の山腹からは安下庄村を見下ろして、松山藩兵上陸時に戦闘が行なわれた甲山や、松山藩兵が上陸した三ツ松の位置を確認しながら約一時間半歩いたて安下庄に到着しました。
 安下庄到着後まずは地元の図書館を訪れて、地元の四境戦争について書かれた郷土史を色々コピーしました。これらの地元の郷土史を読んで驚いたのが、どうも大島の初期の防御体制は思っていたより整っていたみたいですね。この辺の史料は後の大島口の戦いの記事を書くのに活かしたいと思います。
 こうして図書館を訪れた後いよいよ安下庄の町に入ったのですが、残念ながら安下庄には幕長戦争関連の史跡はありませんでしたね。松山藩兵が本陣とした快念寺にもとりたて碑が残っていた訳ではありませんでした。

 結局安下庄探索が早く済んだので、昨日周った大島北岸の久賀町にバスに移動し、昨日訪れた史跡を再び訪れました。昨日から一転して晴れたこの日は画像の写りも良く、結局油宇村の浄西寺を除けば、昨日撮影した画像は全て削除しました。そう言う意味でも昨日レンタカーを借りたありがたみは無くなってしまいましたね。

周防大島紀行記 一日目

2006年11月23日 22時59分19秒 | 登城記・史跡訪問
 周防大島紀行、別名世良修蔵を偲ぶ旅の初日について書かせて頂きます。
 今まで山口県に訪れた際は新幹線を使用していましたが、今回はマイルが溜まったので飛行機で広島まで移動しました。広島到着後電車で大島対岸の大畠駅まで移動しましたが、途中幕長戦争芸州口の戦線となった小瀬川を通ったのですが、いつかは芸州口の戦いの古戦場を訪れたいと思いました。
 そんな小瀬川を越え岩国を通過して遂に大畠駅に到着、ところでこの大畠駅までは多小ポツポツ降ってはいましたが、雨も小ぶりだったのに、日頃の行いが悪いのか大畠駅に到着すると途端に大雨となりました(涙) 大雨となるとバスと徒歩の移動は辛いので、予定変更で急遽レンタカーを借りて周る事にしました。しかしいざ車で周ってみるとこの周防大島とにかく信号が少ないです。大島西端付近のホテルから東端の油宇村まで信号機が三箇所しかありませんでしたよ(^^;)
 何はともあれ油宇村に到着後、同村の浄西寺の幕府海軍軍艦(恐らく富士山丸)の砲撃跡を訪ねたのですが、思ったより弾痕は小さかったかな? ただあんなに厚い石垣を砕いたのですから、破壊力はかなりのものだったのだと感じました。
 浄西寺を後にしたあと、長州軍と幕府軍が戦った八幡山に建つ八田八幡宮の長州軍の墓地を訪れ(そう言えば長州藩藩士の墓って皆神式ですね)、その後今回の旅行の主目的地の一つにしてい帯石観音普門寺を目指したのですが、道に迷った末結局辿り着けませんでした(涙) 後日調べてみるとかなり細い道らしいので、レンタカーで行くのは無理だったのかもしれません。
 結局帯石観音普門寺探索に時間をかけたせいで、その後向かった世良修蔵の招魂碑訪問は駆け足になってしまい、結局世良の招魂碑は最終日に再度訪れる事になったので、正直この日レンタカーを借りたうまみはありませんでしたね。

 その後レンタカーを返してホテルへチャックイン、この日は雨でしたが、明日はこの旅行の最大の目的の源明山に登るつもりだったので、明日は晴れれば良いなと思いつつこの日は終わりました。

周防大島出発前夜

2006年11月22日 22時00分26秒 | 登城記・史跡訪問
 いよいよ明日大島出発となりました、出発前夜の今日ギリギリまで色々な史料を読んだり記事を書いていたりしたので、今月に入ってこのブログの更新頻度が落ちてしまいましたが、おかげでどうにか大島口の戦いの概要は掴めた気がします。ただ史料を読んでいると色々な地名が出てくるのですが、地図やネットで調べても判らない地名が幾つかあり、この為詳細な各部隊の動きが掴めない部分があるので、明日実際に大島に行った際は史跡を訪れるだけではなく、この地名を調べるのも今回の旅行の課題にしたいと思います。
 ・・・ただ天気予報で見ると明日から山口県は雨らしいんですよね(汗)、この秋に長岡に行った際は天気予報は雨と言っていたのにも関わらず、いざ当日になったら晴れてくれると言う幸運が訪れましたが、はたして今回も幸運が訪れてくれるでしょうか。

周防大島紀行記 計画その3

2006年10月14日 22時17分34秒 | 登城記・史跡訪問
 先週末に大島紀行、別名「世良修蔵を偲ぶ旅」のタイムスケジュールを完成させたので、それに合わせて今週は会社の有休・飛行機のチケット・ホテルの予約・観光地図の取り寄せ等の手続きをそれぞれ終わらせました。とりあえず日程は11月23日~25日までの二泊三日です。
 スケジュールとしては初日は大島でなく、阿月(柳井市)の克己堂や世良修蔵屋敷跡をメインに周りたいと思います。阿月を周った後に大島に渡り、大島最東部の浄西寺を訪れたいと思います。ここには恐らく唯一現存すると思われる幕末の軍艦による砲撃跡が現存しているらしく、当時の艦砲射撃の威力を実感したいと思います。

 二日目は島中部の源明山がメインです、幕長戦争大島口の戦いではこの山で世良率いる第二奇兵隊と松山藩兵が激突し、これを破った大島口の戦いのクライマックスと呼んで良い戦闘が行なわれましたので、今から訪れるのを楽しみにしたいと思います。
 またこの日は源明山の他にも、源明山攻防戦の後に世良率いる長州軍が松井山藩兵を追撃して、遂に大島から追い出した安下庄も訪れたいと思っているのですが、いかんせん源明山の登山にどれだけの時間が掛かるか判らないので、安下庄を訪れるかどうかは未定です。

 最終日の三日目は長州軍と幕府歩兵隊二個大隊を主力とした幕府軍が激突した久賀の散策が目的です、ただ久賀では長州軍と幕府軍はもっぱら山岳地帯で激突したのですが、正直二日連続で山登りをする自信はないので、この日はもっぱら久賀~椋野の史跡巡りですね。

 以上が大島紀行のスケジュールです、とりあえず計画は出来ましたので、これからは当日まで史料の読み込みを進めたいと思います。
 そんな中でも重視しているのは以前も書きましたが松山藩関係の史料です、とりあえず幾つかの史料を読んで松山藩虎の子の新整大隊の概要は判りましたが、士族部隊の概要が判らないので、当日まで松山軍の編成について史料の読み込みを進めていきたいと思います。

周防大島紀行 計画その2

2006年10月01日 20時59分11秒 | 登城記・史跡訪問
 大島紀行に備えて幕長戦争大島口の戦いの史料を読んでおこうと都立図書館に行ってきました、大島口の戦いについては防長回天史や郷土物語等の長州側史料のコピーは何点か所有していますが、大島に攻め込んだ幕府歩兵隊・松山藩関係の史料は殆ど読んだ事がないので(幕府歩兵隊については野口武彦氏の著書は読んだ事はありますが)、松山藩関連の史料目当てに行ってきました。
 私はまず史料を読みたい時は各郷土史を読むようにしてるのですが、これは自治体によっては記述量がまちまちなのですが、案の定松山市史・愛媛県史共に記述量は少なかったです。またこのような市町村史は地元贔屓で、惨敗しても「善戦した」と書いていたり、少しでも良かった事を記述するものですが、松山市史・愛媛県史共に松山藩に良い事を一つも書いていなかったのが印象的でした。う~ん長州側も当の松山側も惨敗と書いてるのですから本当に松山藩は惨敗だったのですね。
 まあ松山市史・愛媛県史は物足りなかったですが、他にも色々松山藩関係の史料をコピーしてきたので、これからじっくり読んでいきたいと思います。

周防大島紀行 計画その1

2006年09月30日 20時09分58秒 | 登城記・史跡訪問
 コツコツ貯めていたマイルが溜まりましたので、この秋に幕長戦争大島口の戦いの舞台となった周防大島に訪れようと計画中です。また折角大島を訪れるなら、大島口の戦いで活躍した世良修蔵を偲ぶ旅と称して、世良が学んだ阿月の克己堂や世良の屋敷跡も訪れたいと思っています。

 そんな計画段階の中で迷っているのが移動手段です、私は旅行中の移動手段は基本的に現地でレンタル自転車を借りて利用しているのですが、先日大島の観光協会に電話したら大島は某ホテルにしか貸し自転車を置いていなく(そこに泊まれば無料)、借りるにしろ泊まるにしろかなり高額なので(レンタカー借りた方が安いくらい)、貸し自転車を諦め今回はレンタカーを用いるか、それとも徒歩&バスで回るかで悩んでいます。
 機動力的にはレンタカーの方が有利なのですが、世良率いる第二奇兵隊が松山藩兵を撃破した源明峠及び源明山は車の通行は不可能と、あまりレンタカーのメリットも無さそうだなと思案中です。とりあえず来週中には日程と移動手段を決めたいと思っています。

長岡紀行三日目

2006年09月17日 23時00分16秒 | 登城記・史跡訪問
 長岡紀行も三日目、本日が最終日です。そんな最終日の今日はホテルをチェックアウト後再び市民センターで自転車を借りて南下を開始、今日の目標は長岡市南方の小千谷です
 小千谷には初めての新潟訪問の際に訪れたのですが、その後にあの中越大震災が起きた為、その後は小千谷に行ってなく今回が震災後初めての小千谷訪問となりました。
 そんな訳で自転車に乗り小千谷に出発、当時の主街道沿いに南下して、第三次長岡城攻防戦の際に新政府軍の妙見方面軍と長岡軍守備隊が激突した浄土川周辺に寄って、その後に榎峠古戦場跡に向かいました。

 こうして榎峠古戦場に着いたのですが、驚いたのが榎峠古戦場から小千谷駅まで向かう三国街道が未だ復旧工事中だったのを見て、改めて震災の被害の大きさを実感しました。
 かくして三国街道を通過出来ない為、一旦北上し越の大橋を渡ってそこから小千谷市内に入りました。小千谷に入ってまず目指したのが、ご存知河井と岩村が会見した慈眼寺です。あちこちのサイトから慈眼寺は震災で大被害を受けたと聞いていたので、ある程度は覚悟していましたが、すっかり建て直されて当時の面影は無くまるで新築の寺のようになっていた慈眼寺を見たのは流石にショックでしたね。これだと寺内の損害も大きそうですが、北越戦争を調べている身としては一度は会見の間を訪れてみたかったので残念です。

 そんな慈眼寺を後にして次は船岡山公演へ、ここには初期の北越戦争で戦死した新政府軍将兵の墓地があるのですが、ここも震災により多くの墓標が倒れたと聞いていたので、心配に思っていましたが、今回訪れた際には幸いにも全ての墓標が復旧していました。こうして復旧した新政府軍墓地を墓参して、時山直八の墓に線香を置いて船岡山公演を後にしました。

 本当はこの後は片貝の古戦場を訪れるつもりだったのですが、三日間の強行ですっかり体力を消耗してしまったのと、歳による体力の衰えから片貝に行く気力は既に無く、ここからヘロヘロと長岡に戻りました。余談ながら余程ヘロヘロだったのか小千谷市内から長岡に帰るまで二時間かかりました(汗)

 こうして今回の長岡紀行は終了しました、終わってみれば北は見附市から南は小千谷市までの北越戦争での主要な史跡は周れましたし、長岡市立図書館で貴重な史料を見れましたし、実りある充実した取材旅行でした(^^)