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■【きょうの人】 0820 ■ 細川 幽斎 戦国・江戸の武将、歌人 ■ 藤原 定家 歌人、『小倉百人一首』の撰者 ■ 良忠 鎌倉時代中期の僧で、浄土宗第3祖

2023-08-20 06:33:00 | 【話材】 きょうの人08月

 

  【きょうの人】 0820 ■高杉晋作 尊皇攘夷の長州藩士 ■細川 幽斎 戦国・江戸の武将、歌人 ■藤原 定家 小倉百人一首の撰者 良忠 鎌倉時代中期の僧で、浄土宗第3祖

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 良忠 鎌倉時代中期の僧で、浄土宗第3祖

 

 りょうちゅう
 正治元年7月27日 - 弘安10年7月6日 (1199年8月20日 - 1287年8月16日)

 鎌倉時代中期の僧で、浄土宗第3祖、諱は然阿(ねんな)、記主禅師の諡号が滅後7年の永仁元年(1293年)に伏見天皇より贈られています。

 善導寺にて『末代念仏授手印』などを授かり、『領解末代念仏授手印鈔』を著して弁長の印可を受け、学問的な後継者となりました。

 信濃国に向かい善光寺に参拝したりしています。建長元年(1249年)には利根川に沿って関東に下り下総国の教化をはじめ、翌年には『浄土大意鈔』を著します。

 そして、浄土宗学の基本となる『決答授手印疑問鈔』や『観経疏伝通記』などを著し、各地で講義を行いつつ弟子の育成に努めていました。しかし、正元元年(1259年)外護者の椎名八郎と衝突し、数人の弟子を連れ匝瑳南条荘を去って鎌倉に入りました。

 鎌倉では、大仏勧進聖浄光の坊に仮寓し一時をすごしましたが、大仏朝直の帰依を得て佐助ヶ谷に悟真寺を創建しました。朝直の子時遠から悟真寺坊地や寺領の寄進を受け経済的にも安定し、専修念仏の指導的な立場に立つとともに、他宗の僧侶からも高い評価を受けました。

 建治2年(1276年)には、弟子の要請によって上洛し、間もなくして紫野門徒源智の弟子であり、百万遍知恩寺3世の信慧と東山の赤築地(あかつじ)において談義を行っています。

 弘安9年(1286年)、当時混乱していた浄土宗の統一に尽力し、鎌倉に戻った良忠は、長男の良暁に浄土の奥義を伝授し、弘安10年7月6日(1287年8月16日)、89歳で入寂しました。


■ 藤原 定家 歌人、『小倉百人一首』の撰者

 

 ふじわら の さだいえ/ていか
 応保2年(1162年)-仁治2年8月20日(1241年9月26日)

 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌人で、公家でもありました。諱は「ていか」と音読みされることが多く、『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称しました。

 藤原北家御子左流で藤原俊成の二男、最終官位は、正二位権中納言です。京極殿または京極中納言とも呼ばれました。法名は、明静(みょうじょう)です。

 平安時代末期から鎌倉時代初期という激動期に、御子左家の歌道における支配的地位を確立しました。日本の代表的な歌道の宗匠として永く仰がれてきました。

 『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』という2つの勅撰集を撰進したことはよく知られています。

 ほかに歌論書も数冊執筆していて、本歌取りなどの技法や、心と詞との関わりを論じています。

 歌人としても卓越し、家集に、六家集のひとつに数えられる『拾遺愚草』があります。

 定家自身の作で百人一首に収められているのは、「来ぬ人を まつほの浦の夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」が、よく知られています。

 『源氏物語』や『土佐日記』などの古典の書写・注釈にも携わりました。この際に用いた仮名遣いが「定家仮名遣」のもととなりました。

 建仁元年(1201年)に、後鳥羽天皇の熊野行幸に随行した折に記した『熊野御幸記』(国宝)は、定家の評価を高めています。

 


■ 細川 幽斎 戦国・江戸の武将、歌人


 ほそかわ ゆうさい / 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)
 天文3年4月22日(1534年6月3日)-慶長15年8月20日(1610年10月6日)

 戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、大名、歌人、幼名は、万吉(まんきち)で、元服して藤孝を名乗ります。幽斎は雅号で、法名を玄旨といいます。

 初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は織田信長の協力を得て15代将軍足利義昭の擁立に尽力しました。

 後に、義昭が信長に敵対して京都を逐われますと、信長に従って名字を長岡に改め、丹後国宮津11万石の大名となりました。

 本能寺の変の後、信長の死に殉じて剃髪して家督を忠興に譲りました。

 しかし、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎を築きました。

 また、二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもありました。

 享年77(満76歳没)で、京都市左京区南禅寺福地町の瑞竜山太平興国南禅寺の塔頭寺院である天授庵に墓があります。

 

■ 高杉晋作 久坂玄瑞等とともに尊皇攘夷運動をした長州藩士

 たかすぎ しんさく
 天保10年8月20日〈1839年9月27日〉- 慶應3年4月14日〈1867年5月17日〉

 幕末長州藩の尊王攘夷志士として久坂玄瑞等とともに活躍した武士です。奇兵隊など諸隊を創設し、長州藩を討幕運動に方向付けしました。

 文久元年(1861年)には、海軍修練のため、藩の所蔵する軍艦「丙辰丸」に乗船し、江戸に渡りました。神道無念流練兵館道場で剣術の稽古をしました。その年に、東北遊学を行い、加藤桜老や佐久間象山、横井小楠とも交友しています。

 文久2年(1862年)に、藩命で、五代友厚らとともに、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情などを見聞して7月に帰国しました。

 尊王攘夷(尊攘)派が台頭しますと、晋作も桂小五郎(木戸孝允)や久坂義助(久坂玄瑞)らとともに尊攘運動に加わり、江戸・京都において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流しました。

 文久2年12月12日には、幕府の違勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちを行いました。

 文久3年(1863年)、幕府が朝廷から要請されて制定した攘夷期限が過ぎますと、長州藩は関門海峡における下関戦争で外国船砲撃を行い、惨敗します。晋作は下関の防衛を任せられ、身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成します。

 文久4年(1864年)、長州藩は禁門の変で敗北して朝敵となり、久坂玄瑞は自害しました。英仏米蘭4か国連合艦隊が下関砲台を占拠、晋作は和議交渉を任され、ギリギリの線で交渉を成立させました。

 幕府の権威が失墜し、慶応3年(1867年)に大政奉還、高杉晋作は、下関市桜山で肺結核の療養中、慶応3年4月13日(1867年5月16日)深夜に享年29(満27歳8ヶ月)で死去しました。
 

 

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

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 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

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◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

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【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


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