聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/11/8 マタイ伝28章19~20節「はじまりの洗礼」ニューシティカテキズム44

2020-11-07 12:55:12 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/8 マタイ伝28章19~20節「はじまりの洗礼」ニューシティカテキズム44

 先週は、教会には洗礼と聖餐式という二つの「聖礼典」がある、という話をしました。聖書や説教だけでなく、儀式に参加することで、私たちは体で、キリストの恵みをハッキリ知ることが出来るのです。今日と来週は、聖礼典の一つ目、洗礼をお話しします。

第四十四問 洗礼とは何ですか?
答 洗礼とは父、子、聖霊の御名によって水で洗うことです。洗礼は、私たちがキリストにあって子となること、罪から清められること、そして私たちの主と、主の教会への献身を表し、確かなものとします。

 洗礼とは「洗う」と書くとおり、水を使って、行います。その水を少し額につけたり、手ですくって頭にたっぷりかけたり、あるいは、体が入るぐらいの水を用意して全身を沈めたりします。聖書に出てくる洗礼は、ヨルダン川という川で行われていました。川や海で、全身を沈める洗礼も多く行われています。いずれにせよ、水を使うのですが、それは何を表しているのでしょうか。洗礼とは何でしょうか。

 まず「私たちがキリストにあって子となること」です。イエス・キリストご自身が、そのお働きの最初に、洗礼を授かりました。ヨルダン川に行き、洗礼者ヨハネに洗礼を授けてほしいと願い出ました。そして、イエスが洗礼を受けた時、天から声がしました。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」マタイ3:17

 イエスは、神の子で、聖なるお方です。洗われなければならない罪など全くないのに、イエスはまず、洗礼を受けました。それは、洗ってもらわなければならない罪がある人間と等しくなるための、限りない謙りでした。その洗礼の時に、「これはわたしの愛する子」という声が響いたのです。イエスの洗礼は、神の父親宣言の時でもありました。そのイエスが洗礼を受け、弟子たちを派遣する時にも洗礼を授けるよう、命じました。

マタイ28:19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、…

 この時命じたバプテスマは、イエスご自身もヨハネから最初に授かったのです。ですから、私たちがキリスト者として最初に洗礼を受ける時、私たちはイエスに結び合わされます。そして、私たちも天の神が私たちの父となってくださった。イエスにあって、私たちも神の子どもとされたことを確信することが出来るのです。
 キリストも授かった洗礼を私たちも受ける時、私たちはキリストと一つとされ、神の子となったことを確信します。そしてイエスは私たちのために、洗礼を受けただけでなく、完全に人として歩み、十字架に死にまで謙って、私たちのすべての罪を負って、死んでくださったこと、そして、そこからよみがえって、私たちを贖ってくださいました。洗礼は、私たちをキリストに結びつけ、キリストが私たちに結びついてくださったことを表しているのです。ですから、まだイエスを知らなかった人が、教会に来たり、聖書を読んだりして、キリストに出会い、私もイエスを信じたい、キリストの言葉に与りたい、と思うなら、洗礼を授かって、正式なスタートを切るのです。「洗礼なんてただの儀式だ」と思わず、キリストご自身が定めて、正式なスタートとしての洗礼をもうけてくださったのですから、洗礼によって、公式に神の子どもとされるのです。
「さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」使徒22:16

 次に洗礼は「罪が清められたこと」を表します。私たちは、水で手を洗ったり、うがいをしたり、お風呂や食器を洗います。洗礼で水を使うのは、イエスが私たちの罪を清めてくださったことを表しています。洗礼によって罪が清くなるのではありません。このことは来週詳しくお話ししますが、洗礼の水に特別な力があるのではありませんし、洗礼という儀式に罪をきよめる力があるのでもありません。もしそうだとしたら、有り難いようですが、私たちは罪に責められる度に、洗礼を受け直さなければならないでしょう。しかし、その逆に、洗礼は一度だけ授けられるのです。洗礼を受けて、キリスト者となった後も、私たちは罪を犯します。洗礼の水が私たちの心を清くするのではないのです。まだ心も、言葉も行いも不完全で、とても清くはなりません。しかし、それでも失敗する度に、洗礼を受け直すのでは無く、むしろ、イエスがこの私の罪を赦し、滅びから救ってくださった、という事実に立ち戻るのです。

 いわば、洗礼は、神の子どもとして歩み出すスタートです。キリスト者としての冒険に踏み出す旅立ちです。キリストの教会という大きな旅の一段に、自分も仲間入りして飛び込んだのです。その途中で、私たちは旅人であることを忘れたり、仲間との諍いに疲れたり、他の旅に惹かれたりするかもしれません。その時、私たちがすべきことは、何でしょうか。双六なら「ふりだしに戻る」がありますが、本当の旅もスタート地点のふりだしに戻るのでしょうか。いいえ大事なのはスタートに戻るより、ゴールに向かう事、前に向かって旅を進めることです。むしろ、洗礼は、私たちが既に罪を赦され、神のものとされた旅を始めたのであり、戻る必要がないことを思い出させてくれます。宗教改革者マルチン・ルターも、沢山の問題の中で心が弱くなって酷く落ち込むことがあったそうです。その都度、ルターを支えたのは、自分が洗礼を受けた、という事実でした。イエスが私に洗礼を授けてくださった。私は罪をきよめられ、神の子どもとして歩んでいる、と思い出させてくれるのが、洗礼という水の洗いなのです。

 そして、その旅に加わった以上、私たちは「私たちの主と、主の教会への献身」コミットメントもあります。教会の一員として、互いに責任を持ち、関わり、助け合い、奉仕や献金で教会の運営の一端を担うことも始まります。洗礼は、同じように洗礼を受けた多くの人とのつながり、共同体であることも表すのです。この鳴門キリスト教会の会員となり、また世界の教会とも主にあって結ばれている。その確かさを、洗礼は私たちに表してくれます。また、自分ではなく他の人の洗礼を通しても、私たちは自分が神の子どもとされ、罪を赦され、神の旅に入れられている事実を豊かに教えられるのです。



「私たちをきよめてくださる神よ、私たちはあなたに近づかなければ、罪にまみれた自分自身の心を洗うことはできません。水による洗礼を与えてくださってありがとうございます。洗礼が私たちを救うのではありません。しかし洗礼は、救いを見える形にし、神の養子とされた兄弟姉妹である私たちを一つにします。アーメン」
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