聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/2/23 エペソ5:5~11「永遠のように今を生きる」ニュー・シティ・カテキズム18

2020-02-23 16:45:59 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/2/23 エペソ5:5~11「永遠のように今を生きる」ニュー・シティ・カテキズム18

 夕拝では「罪」や「偶像礼拝」についてお話ししています。罪とは神に逆らう事、神への不服従です。そして、私たちが神以外のものを、神のように大事にして、拠り頼んだり、従ったりしてしまう時、それは「偶像礼拝」になります。エペソ書の言葉でも、
エペソ5:5…淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。
 淫らな者、汚れた者、貪る者。それは、自分の欲を偶像にしている、欲望を神にしている。それでは、キリストと神との御国じゃなくて、欲望の国を生きることです。そのままでも大丈夫だという言葉に騙されてはイケマセン。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順の子らに降るのだ、とハッキリ言っています。
 罪とは、本当の神を神としないこと。救いとは、罪や偶像崇拝を捨てて、本当の神が、本当に神となってくださる、という事です。その事を、私たちはよく誤解してしまいます。少しぐらい罪を楽しんでもいいじゃないか、神様は愛のお方なら、自分の罪に目を瞑ってくれてもいいのに、と考えてしまうのです。そういう思いに対して、どう答えるのでしょうか。
第十八問 神は私たちの不服従と偶像礼拝を罰せずにおられますか?
答 いいえ、全ての罪は神の主権、聖さ、善性、そして神の正しい律法に反しています。神は正しく私たちの罪を怒られ、神の義なる裁きにより、この世において、そして来たるべき世において罪を罰せられます。
 神が罪を大目に見て下さる、という考えは一蹴されます。でも、それは、神が心が狭いから、ではないのです。全ての罪は、神の主権、聖さ、善性、正しい律法に反しています。それを神が怒るのは正しいことですし、また、私たちにとっても、神が罪を怒って下さることは有り難い、そうしていただかなければ私たちにとって不幸な事です。神が私たちを本当に深く愛しておられるからこそ、神は私たちが少しでも、罪を楽しみ、握りしめていることを容認は出来ないのです。この事も私たちは誤解しがちです。
 これは私たちの人間関係でもよくあることでしょう。だれかが嘘をつく、物を盗む、いやもっと小さな間違いをした時、それを見て注意したらどうでしょう。言われる方は「ああ、悪かった」と思う気持ちと、「注意するなんて嫌な奴だなぁ。あいつに見られないようにコッソリやろう」と思う気持ちと、両方出て来るのではないでしょうか。本当に、ひどい犯罪や破壊的な行為だったとしたら、言う方はそれだけ声を荒げ、厳しい言い方をして、なんとかして止めさせよう、としたくなる。でも、それを言われる方は、自分がしたことが問題じゃなくて、ガミガミ怒ってくる人の問題にすり替わってしまう。

 神が人間の罪を罰するのは、神の主権、聖、善、正しい律法に反しているからです。それを神が怒るのは、正しいことです。神様に「そんなに怒らなくても良いのに」という問題ではなくて、神が怒らないほうがおかしいことです。神が、神を愛し、互いに愛し合いなさいと仰ったのに、自分の欲や狭い考えのまま生きても、決して幸せにはなれず、自分をも他の人をも、世界をも傷つけ、害さずにはおれないことなのです。決して私たちには、神を直接傷つけることは出来ません。神は、何によっても汚されることのないお方です。しかし、神が造られた世界を傷つけるとき、それは神にとって、ご自身に対する侵害として受け止めます。最も小さい人が虐げられ、名もない赤ん坊が見殺しにされ、難民が飢え死にする時、イエスはそれをご自身の事として苦しみ、嘆き、叫ばれます。平気ではないのです。また、人が自分の人生を、神でないものを神として生きることも、神は深く、大いに悲しみ、激しく怒ります。神ご自身が勝手に怒るのではありません。神は、この世界の造られた者の中で、不法や暴力が行われるのを、必死で止め、本気で怒り、罰することも厭わないのです。それを止めないことを神に求めるのは、無理な話です。しかし、神は、怒って罰するだけで終わりません。神が怒るのは、人を愛されるからこそです。罰するのも、人が向きを変えて、神を神として生きるためです。罪を罰しますが、罪人を滅ぼすのではなく、罪人を罪から救うのが神です。
5:8あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。9あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。10何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。11実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。
 不品行や貪りは偶像礼拝だ、でエペソ書は終わっていません。あなたがたは光なのだ、光の子らしく歩みなさい、暗闇の業に仲間入りせず、むしろそれを明るみに出しなさい。そういう積極的な勧告です。私たちに必要なのは、罰で脅されることではありません。神が罰するから罪を捨てる、ではなく、罪はそれ自体が罰でしかないことを認めて、神はもっと素晴らしい生き方に私たちを入れて下さることに心を向けることです。
 罪は、いずれ報いを受けます。必ずその刈り取りをすることになります。でも罪は囁きます。「一度ぐらいいいじゃない」「だれも見ていないよ」「みんなやってるさ」「バレなければ大丈夫」…。でもそんなコソコソした行為も、いつかは明るみに出るのです。一度でもやったことは、いたずらでコンクリートに残した足跡のように、永遠になります。誰も見ていないようでも神は見ています。


 ある意味では、私たちの行為はすべて、永遠に残ります。一日一日をどう生きるかは、明日を決めます。有り難いことに、間違いに気づけば、いつでもどこからでも、正しい道に引き返すことは出来ます。神はそれを喜んで助けてくださいます。でも、間違った道を選んだ時間を巻き戻してなかったことには出来ません。今日という日は、罪で無駄にしては勿体ない、折角の一日です。「少しぐらいの罪なら大丈夫」などと自分を騙さず、永遠のように生きる価値がある今日です。勿論、罪や過ちはまだまだ避けられません。でもその罪を、知っておられる神に差し出し、罰を報われるに相応しい罪から救い出し、光の子として生かしてくださいと明るみに出せば良いのです。神が私たちの心から、一生涯かけて、罪の思いや偶像礼拝を完全に拭い去ってくださる。それは、私たちにとって、恐怖ではなく希望です。

「義なる主よ、もし私たちが自分自身を善だと言うなら、それは偽りの言葉です。私たちはあなたの怒りを受けるべき者です。私たちはあなたの戒めに背き、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたを愛する事が出来ません。私たちは、キリストの義を懇願し、あなたが私たちの罪の罰をキリストに負わせて下さる事をただ願うばかりです」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/2/23 Ⅰペテロ1章3-9節「苦難の火をくぐり ペテロの手紙第一」

2020-02-23 16:39:18 | 一書説教
2020/2/23 Ⅰペテロ1章3-9節「苦難の火をくぐり ペテロの手紙第一」
 今月の一書説教はペテロの手紙第一を取り上げます[1]。全部で五章の短い手紙です。パラパラと見ても、交読した2章21~25節のような詩文体が多くあることに気づきます。当時の教会に既にあった、洗礼式での式文・賛美だとも言われます。近年、ペテロの手紙は元々、洗礼の時の説教をまとめたという説もあるようです。初代教会で既にこんな詩が造られ歌われ、洗礼が祝われていたと考えると、初代教会の生き生きした姿を想像して、嬉しくなってきます。
 この手紙を書いたのはペテロ[2]。イエスの第一弟子、ガリラヤの漁師で本名をシモン。十二弟子のリーダーとして、頑固者でおっちょこちょいで、無学な普通の人、あのペテロが、晩年にローマから書き送ったこの手紙。それもまた、本書を読む醍醐味でもあるでしょう。
 洗礼式での説教、と言いましたが、それは洗礼を受けて、キリスト者として生きていく上での困難を予告する説教でもありました。この手紙は
「苦難」
が沢山出て来るのも特徴です[3]。
「信仰の試練」
について何度も言及されています[4]。キリスト者として生きることが、厳しかった現実を踏まえて書き送られた手紙です。イエス・キリストを信じたら、苦しみや悩みに遭わずに済むのではないか、そういう期待は昔も今もあることですが、ペテロの手紙には特に
4:12愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。
とあって、キリスト者として苦しむことについて繰り返して語っています。その試練を通してこそ、神が下さった祝福がますますハッキリさせられる、と語るのです。ちょうど、火によって金が精錬されて、不純物が取り除かれて、純金となっていくように、苦しみという火は、どんな苦しみによっても朽ちることのない、キリストの祝福を明らかにするのです。今日読んだ、最初の部分でも、この事は力強く語られています。この言葉をよく味わってください。
1:3…神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。4また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
 神の御業によって守られ、朽ちない資産を受け継ぎ、必ず救いを頂く。これが、ペテロが手紙で語ることの土台です。私たちの我慢や信仰心によって、苦しみに耐える、試練をも喜ぶ強い信仰心を持て、ということではないのです。その真逆です。それは、ペテロ自身がかつて誤解して、砕かれて、目が開かれた歩みを振り返れば、はっきり分かることです。
 イエスと共にいた時のペテロは、弟子たちの中で一番えらく、一番信仰が強いのは自分だと思いたがっていました。イエスが最後の晩餐で、ご自分の逮捕や弟子たちも散り散りになることを告げた時、ペテロは真っ先に
「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。…たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
と屈しなかった[5]。その数時間後イエスが逮捕された時、ペテロはイエスが予告された通り三度ハッキリと、イエスとの関係を否定してしまいました。この時、イエスもペテロに「試練に耐えよ」とは命じませんでしたし、「たとえ殺されてもあなたを知らないなどとは申しません」と言ったペテロを誉めたり励ましたりはしませんでした。イエスは、ご存じでした。人の力や頑張りなど吹き飛ばすような出来事こそ試練ですし、人の力など当てにならないものです。だからこそ、イエス・キリストの尊い血によって、私たちは新しくされたのです。ペテロはその事を味わい知っています。苦難に頑張って耐えよ、ではなく、どんな試練によっても朽ちないキリストの御業に信頼して、喜びなさいと覚えさせています。
 また、2章21節以下の詩文、洗礼式での讃美歌と思われる言葉では、
22キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
と歌われていました。自分がイエスを裏切って呪っても、イエスは私に罵り返さず、見捨てず、試練に耐えろと脅すこともせず、私たちのためにご自分を献げてくださった。それは、ペテロの生き方や価値観を引っ繰り返した経験でした。自分の力を誇り、人といつも張り合っていた価値観がすっかり崩れ去りました。そしてキリストが自分に良くしてくださったように、自分も人に善を行う[6]。そのように変えられる救いを、ペテロは読者に分かち合っているのです。この詩文の前後には、
「しもべたちよ、敬意を込めて主人に仕えなさい」[7]
とあり、
「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。…夫たちよ、妻を理解し、尊敬しなさい」
とあります[8]。キリストの苦しみは私たちの身近な関係一つ一つを新しくする模範です。9節にはこうあります。
「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」[9]
 祝福を受け継ぐために召されたのだから、苦難や侮辱をまともに受け取って傷ついたり腹を立てたりする必要はない。仕返しに人を侮辱する必要もない。私たちは只(ひた)管(すら)祝福を受け継ぎ、侮辱する人にも祝福を差し出す。それがキリストにあって生きる、新しい生き方なのです。
 ペテロはこの手紙で「私は」という言い方を殆どしません[10]。しかし5章1節から「私は」と宛先の教会の長老たちに呼びかけます。これがまた、驚くほどに謙虚な言葉です。
 私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。2あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って自発的に、また卑しい利得を求めてではなく、心を込めて世話をしなさい。3割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。[11]
 「イエスの一番弟子」「大使徒」としてではなく
「同じ長老の一人として」
語ります。自発的に、心を込めて。そして、
「支配するのではなくむしろ群れの模範となりなさい」。
 偉そうにするリーダーではなく、自分自身が模範を示す。口で言うほど簡単ではない在り方を、自分自身が示す。人に要求することを、自分自身がしてみせる。それはイエスご自身がペテロや弟子たちに仰っていたことであり、イエスご自身のやり方、神の方法でした[12]。かつて、この言葉で窘められたペテロは、それでもまだ理解できず、自分は違う、自分は頑張って、一番弟子として尊敬されたいと思っていました。そういうプライドは、ここで言われる
「卑しい利得」
の一つかもしれません。そのペテロが大きく変えられて、この手紙を書いています。「私が、私が」と背伸びすることなく、イエスが仕えてくださったことを土台に、謙虚な模範となる生き方を勧めています。ここに至るまでにペテロ自身が、裏切りや挫折や失敗や苦難の火をくぐり抜けてきたことでしょう。苦難の火に精錬されたペテロが、苦難を通してもますます輝くキリストの御業を証しして、ここで苦難の中にある教会に、良い業に励むよう勧めるのです。自分の気合いや頑張りで耐えるのではなく、キリストの苦難を思って、出来る善をし続けたらいい。それを喜べば良い、という口調です。そんな謙虚な証しを牧師や長老もして、それに育てられた人たちが、社会に散らされていき、それぞれの場所で苦難の火を通して、どんな試練でも消えない主の約束を信頼して、善を行う。キリストに与えられた新しい生き方の確かさ、苦難の意味、そして、ペテロという一人の人の円熟した姿をペテロの手紙第一から教えられます。

「主イエスよ、岩と呼ばれた頑固なペテロの晩年の手紙に、あなたの愛と御業を味わい知り、御名をあがめます。岩をも恵みに変え、困難の中でも祝福を分かち合わせてくださる主が、どうぞ今も、世界各地に散らされた教会、また私たち一人一人の歩みを通して、あなたの恵みの御業を現してください。今日の信徒総会を祝福し、この一年の歩みに御栄えを現してください」
[1] 「本書の一番の特徴は、キリスト者が経験する「苦難」の問題が多く扱われているという点にあります(1:6, 2:19, 3:14, 17, 4:1等)。その苦難はローマ帝国による熾烈なキリスト教迫害に拠りますが(4:12, 14, 16, 5:8)、そのような困難な状況の中にある信徒たちを励ます内容に満ちています。ローマ帝国によるキリスト教迫害の時期はネロ帝の時代(紀元62-66年頃)、ドミティアヌス帝の時代(紀元90-96年頃)、トラヤヌス帝の時代(紀元111年頃)の大きく三つに分けられますが、本書の背景となるのはローマ帝政きっての暴君であったネロの治世下であったと考えられています。これらの状況を知ったペテロが、主イエス・キリストの福音によって「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(2:9)とされたキリスト者たちを、熾烈な迫害の中にあっても御言葉に固く立って生きるようにと、自らの信仰の経験を踏まえつつ語っているのが本書の特徴と言えるでしょう。内容としては、信仰と希望と神の言葉による生活の勧め(1章)、聖なる国民として主に従う生き方の勧め(2章)、日々の実践的な教訓(3章)、信仰者の苦難の中での励まし(4章、5章)となっています。」 徳丸町キリスト教会聖書の概説
[2] 5章12節にはペテロ自身が「忠実な兄弟として私が信頼しているシルワノによって、私は簡潔に書き送り、勧めをし」と書いています。ペテロの書記をしたシルワノは、使徒15章22節などに登場する「シラス」と同一人物だと考えられています。シラスは、エルサレム教会からアンテオケ教会に派遣された、ギリシャ語に堪能で仲裁力のある弟子であったと想像できます。通訳としても文章を美しくまとめたのでしょう。ペテロの手紙の第二とはかなり文体が違います。それでも、ペテロが書いたという文章を否定するほどの理由はありません。
[3] 「苦難」:1:11「彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。」、2:19「もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。20罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。21このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。23ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。」、3:14「たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。」、3:17「神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。18キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。」、4:1「キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。」、4:13「むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」、4:15「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、危害を加える者、他人のことに干渉する者として、苦しみにあうことがないようにしなさい。16しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。かえって、このことのゆえに神をあがめなさい。」、4:19「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。」、5:1「私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じ長老の一人として、キリストの苦難の証人、やがて現される栄光にあずかる者として勧めます。」、5:9「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を通ってきているのです。10あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」
[4] 「試練」:Ⅰペテロ1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、7試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」、4:12「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。」
[5] マタイ26:33-35。
[6] 「善を行う」もこの手紙の特徴です。「善を行う」ことで救われるのではありませんが、キリストの愛は、私たちがキリストからひたすら「善を行」っていただいたように、他の人にもひたすら「善を行う」ように変えていくのです。
[7] Ⅰペテロ2:18「しもべたちよ、敬意を込めて主人に従いなさい。善良で優しい主人だけでなく、意地悪な主人にも従いなさい。」
[8] Ⅰペテロ3章1~7節「同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。2夫は、あなたがたの、神を恐れる純粋な生き方を目にするのです。3あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。4むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。5かつて、神に望みを置いた敬虔な女の人たちも、そのように自分を飾って、夫に従ったのです。
6たとえば、サラはアブラハムを主と呼んで従いました。どんなことをも恐れないで善を行うなら、あなたがたはサラの子です。
 7同じように、夫たちよ、妻が自分より弱い器であることを理解して妻とともに暮らしなさい。また、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りは妨げられません。」
[9] Ⅰペテロ3章8-9節「最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。9悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」
[10] Ⅰペテロ2章11節のみ。「愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。」
[11] 続きは、「4そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠をいただくことになります。」です。
[12] マタイ伝20:26~28「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。27あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。これは、ヤコブとヨハネの母が、息子たちのためにイエスに、御国の左右の座(権威)を求めたのに対するイエスの答えとして述べられた言葉です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/2/16 ローマ1:19~25「それは神にはなれません」ニュー・シティ・カテキズム17

2020-02-16 14:30:23 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/2/16 ローマ1:19~25「それは神にはなれません」ニュー・シティ・カテキズム17
 皆さん、聖書の一番初めの言葉は知っていますか?それは
「初めに神が天と地を創造した」
という言葉です。そして、神がこの不思議な世界を、ひとつひとつ丁寧に造られた様子が描かれています。神は天地の創造主です。世界もまだまだ不思議や驚きに満ちていますが、その全てを造って、今も支えている偉大な神を聖書は語っています。
ローマ1:20神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められる…
 神の永遠の力と神性は…被造物を通して知られ、はっきりと認められる。でも、その神を否定する人たちが大勢いる。それが、このローマ書で書かれている状態です。
1:21彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。22 彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、23 朽ちない神の栄光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。
 偉大な創造主の神を神とせずに、他のものを神にしてしまう。世界よりも大きな神に替えて、人間や鳥、獣、這うものを神として崇める。香川に金比羅山がありますが、金比羅とはクンピーラという鰐(ワニ)の神だそうです。這うものを神にしたものです。他にも、日本でも聖書の書かれた地中海一帯でも、色々なものが「神」として拝まれています。世界よりも大きな神がおられるのに、その神を捨てて、世界の中の何かを神にして拝んでいるのです。人間は、何かしら、神がいなければ生きていけないものなのですね。
第十七問 偶像礼拝とは何ですか? 答 偶像礼拝とは創造主ではなく、造られたものに私たちの希望と幸福、人生の意義と安定のために信頼することです。
 先週、罪とは、神に背を向けること、神との関係を壊すことだとお話ししました。それは言い換えれば偶像礼拝なのです。人が、世界の創造主である神を礼拝する代わりに、違うものを神としているなら、それは偶像礼拝です。そして、神に背を向けた人間は皆、神以外の何かを神にしたり、拝んだり、自分に希望や幸福、人生の意義や安定を与えてくれるものとして縋らずにはおれなくなるのです。
 それは鰐のクンピーラのような形を取ったり、石や木の神、何かの宗教の形を取ることもあります。それは、ハッキリした偶像礼拝です。また、迷信や占いや運命を信じるというのも「偶像崇拝」になります。聖書は、そのような霊的なものに信頼して生きることを厳しく禁じています。それは、私たちを守るためです。しかしそういう偶像礼拝だけではありません。「造られたもの」に希望、幸せ、意義、安心を求めて信頼しようとするなら、それは全てその人にとっての神、つまり偶像なのです。
 たとえば、お金。お金は便利な道具ですが、お金が自分にとっての神のように心を占めてしまうことがあります。
 或いは、仕事。仕事そのものは大切ですが、仕事の成功ややり甲斐、出世や評価が自分にとっての神になってしまうなら、それは偶像礼拝です。私は、牧師という仕事や、教会の活動、集会が順調に行くか、どれだけの人が集まったか、ということを偶像にしてしまいかねません。
 或いは、遊びや趣味。楽しみも神さまが下さった、たくさんの祝福の一つですが、それ自体が自分の心の中心になってしまうなら、それも偶像礼拝ですね。「アイドル」という言葉は、文字通り「偶像」です。趣味そのものは神からの祝福ですが、それを神や偶像にしてしまうちぐはぐが怒るのです。
 他にも、自分の健康や若さ、恋人、家族、子ども、どんなものも偶像(神)になり得るし、なっています。
 お金でも仕事でも、趣味や家族でも、それが偶像になってしまうと、私たちはいつもそのことばかりを考えてしまいます。それを失うことを恐れて、人を傷つけたり、嘘をついたり、時間も力も大事なことも犠牲に捧げるようになります。理不尽な要求も受け入れて、犯罪や不道徳なことをするかもしれません。そして、それを失うぐらいなら、命を絶ってしまう悲劇さえ起こるのです。勿論、本当の神だけを神にしているなら、そんな絶望には終わりません。私たちが神を失わないために、犠牲を払う必要は決してありません。神ではないものを神にするから、私たちが犠牲を払わなければならなくなり、しかも、どんなに犠牲を払っても、それは決して深い希望や幸せや、人生の意味や安定をくれることは出来ません。神になれるのは神だけです。神以外のどんなものも、それは神にはなれないのです。なぜならそれは神ではないからです。
偶像崇拝とは何でしょう。
高速を走っている時に考えているもの
寝る前に心配しているもの
慰めを求めてしまうもの
将来それなしでは生きられないと思っているもの
それを失えば自分には何もないと思っているもの
それがあれば世界の中心になると思っているもの
それを持っている人たちをあなたが憧れているもの
持っていない人たちを見下しているもの
それをくれる人の言いなりになるもの
それを遠ざける人には激怒するもの
その要求には服従するもの
それを満たさなければあなたは乾ききってしまうもの
あなたを見ることも聞くことも返事も出来ないものなのに、あなたはそれに似てしまうもの
あなたはそれを思わずにはおれないもの
あなたを愛してなどいないのに、あなたはそれを必要として止まないもの
・・・
それが偶像です。

1:24 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。25彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン
 神は、そのような人間の偶像崇拝を罰したり邪魔したりはしません。むしろ、その欲望に引き渡されました。このローマ人への手紙の1章後半には
「引き渡す」
という言葉が三度出て来ます。神は、偶像崇拝を禍に変えるのではなく、偶像崇拝に引き渡される。したいままにさせる。それが、神の最善の裁きです。人が神以外のものを神とした結果、失望や不幸、虚しさや不安に底着く。それは、神の裁きであると同時に、それこそ本人が望んだことなのですね。いいえ、誰かのことではなく、私たち自身が常に、イエス・キリストを礼拝しながらも、違うものを神にしてしまう危うい者です。そして、いつのまにか神を信頼するよりも、神が下さったものを偶像にしていたことに気づかされては、どうにかしてその事に気づかされ、神に立ち返り、神以外のものを神としてきたことも、そのために、人を傷つけたり裏切ったり、自分の人生を無駄遣いし、神を忘れて酷い侮辱をしてきた罪を認めて、告白するのです。そして、神はその私たちの悔いる告白を受け入れ、赦しを与え、また立ち上がらせてくださいます。こんな神は、他にいません。
 神はすべてを造った恵み深い神です。すべての良いもの、仕事も楽しみも、人も私たち自身も神の賜物です。しかしそれは神ではありません。楽しむときも失う時も、それを一時、惜しみなく贈ってくださった神に感謝しましょう。そして、いつも神に希望と幸福、人生の意義と安定を信頼しましょう。主だけを礼拝し、ワクワクと喜びましょう。

「創造主なる神よ、被造物を崇める私たちをお赦しください。どのような人も物も私たちの希望や信仰の対象にはなり得ません。主よ、あなただけが自ら存在される神であり、あなたには足りないものがありません。どうかあなたが私たちの全てとなりますように」
Hello. I am an idol.
Don’t be afraid, it’s just me. I notice you’re turned off by my name: “Idol.”
It’s okay. I get that a lot.
Allow me to rename myself.
I’m your family.
Your bank account.
Your sex life.
The people who accept you.
Your career.
Your self-image.
Your ideal spouse.
Your law-keeping.
I’m whatever you want me to be.
I’m what you think about while you drive on the freeway.
I’m your anxiety when you lay your head on the pillow.
I’m where you turn when you need comfort.
I’m what your future cannot live without.
When you lose me, you’re nothing.
When you have me, you’re the center of existence.
You look up to those who have me.
You look down on those who don’t.
You’re controlled by those who offer me.
You’re furious at those who keep you from me.
When I make a suggestion to you, you’re compelled.
When you cannot gratify me, I consume you.
No—I cannot see you, or hear you, or speak back to you.
But that’s what you like about me.
No—I am never quite what you think I am.
But that’s why you keep coming back.
And no—I don’t love you.
But I’m there for you, whenever you need me.
What am I?
I think you know by now.
You tell me.
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/2/16 マタイ伝6章9~11節「日毎の糧を今日も」

2020-02-16 14:23:33 | マタイの福音書講解
2020/2/16 マタイ伝6章9~11節「日毎の糧を今日も」

 主の祈りの後半、
「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」
に入ります。「日用の糧」を「日曜日の食事だと思っていた」とは、よくある笑い話ですが、しかし、イエスが「特別な必要」でなく「毎日の食事」を祈らせているのは、改めて驚くべきことです。原文では最初に「糧」という言葉が来ます。直訳すれば
「パン」
です。「パンを!」と叫ぶなんて、品がないと思いませんか。イエスは、そのような祈りを教えてくださいました。私たちが今日も、パンかご飯かを口にしている。それは「天にいます父」が糧を与え、養い、生かしているからです。
 この祈りの直前、8節には、
「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです」
と言われていました。この後も25節以下で
「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり…するのはやめなさい。…あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます」
と語られます。私たちは心の底で、生きていけるか心配がある。イエスの頃よりも遥かに豊かな社会になり、今の日本で飢え死にする心配は大幅に減りましたが、昨今は貧困問題も深刻で、厳しい生活の人も大勢います。そんな貧困とは無縁でも、何かあると「そんなことでは食っていけない」と言われます。「生きていけないんじゃないか」という心配は、今も根強くあります。イエスは私たちに染みついた深い心配をご存じで、その心配と心配の間に
「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」
と祈るよう教えられたのです。この祈りは、食事が当たり前ではない事を気づかせます。パンもご飯も野菜も肉もお菓子も、天の父からの糧です。「あって当たり前」でなく、神によって養われて、今ここにいる、そう思えて、ホッと息をつくことが出来ます。勿論、それで心配がなくなる訳ではないでしょう。でも、パンを下さる神は私たちに必要なものを全てご存じです。パンだけでなく、他の必要も神はご存じで、備えてくださいます。
 ここで、
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」
という御言葉を思い出すことも出来ましょう[1]。人は、パンや食事だけで生きる動物ではなく、神の言葉で生きている。それは聖書の御言葉、という意味でもあります[2]。そして、聖書が語っているのは、この世界を最初から神が言葉を語って造られた、という御業です。この世界に、太陽を照らし、雨を注ぎ、稲や麦や野菜を生えさせ、パンが焼ける仕組み…私たちが食事が出来る営みがすべて、神の御業です。また、御言葉は私たちに慰めや戒めや律法をくれます。その言葉によって私たちは生きていくことが出来ます。また、御言葉そのものが人の必要を汲み取っています。
「人がひとりで生きるのはよくない」
家族や友情、コミュニティの必要です。また、神はご自分に背いた人間にも、皮の衣を着せてくださいました。罪を犯さずにはおれない人は、赦しと愛を必要としています。他にも人の必要は沢山あります。
 自分が誰とも違うもの、自分らしさ、個性が認められること
 励ましや分かってもらうこと
 睡眠や安息日
 安心
 ユーモア・・・
 人は沢山の必要を持つ、複雑でデリケートな存在です。来月、東日本大震災から9年です。大災害に関して「サバイバーズギルト」という言葉が言われます。多くの人が亡くなった中、生き延びた方が抱く罪責感です。端から「生き残って良かったね」と言われても、本人が自分だけが生き残っている事に罪悪感を覚える。生き続けることさえ出来なくないことがあります。「命を絶つ」という行為は、人が何とかして生きたい思いと、生きているだけでは満たされない、生き甲斐とか意味とか、いくつもの必要も持っているからでしょう。「生きているだけでいい」とも言いますが、「生きているだけでいいよ」「あなたがいてくれることが嬉しいよ」と優しく言ってくれる人たちが必要なのです。「日毎の糧」を祈る時、天の父が、私たち人間を、沢山の必要によって支えられる者としてお造りくださって、その必要すべてをご存じであることを覚えて、生かされている恵みに驚くのです[3]。
 ともすると、ここまでの祈りは神のための祈り、「日毎の糧」からがやっと私たちのための祈り、正直ホッとするという思いがあるかも知れません。しかし、聖なる御名の、王なる神が、私たちに日毎の糧を下さっていることは、別々のことではありません。私たちが、神が日毎に自分の必要を満たしていることに驚き、感謝することこそ、御名を聖とすることでしょう[4]。この後も、五つのパンと二匹の魚で五千人を養う奇蹟(これは、四つの福音書が四つとも伝えている唯一の奇蹟です)によって、イエスは天の父の養いをハッキリと示しました[5]。更に公生涯の締めくくりに聖餐を定めて、パンを
「これはわたしのからだです」
と仰いました。パンに託して、ご自分の十字架による命を覚えさせました。そこに結ばれていくのが、主の祈りの「日毎の糧(パン)を」の祈りです。天の父は、私たちにあらゆる必要を与え、私たちの身体も魂も養い、後に世界中の主の民とともに囲む食卓へと招いてくださっています。その喜びや、身体も心も養われる食卓が、今ここでも始まるのです。聖餐において、パンと杯を頂くとき、「パンを聖別して下さい」と祈りますが、それで聖餐のパンだけが特別に聖なるものとなるのではありません。私たちの毎日のパンもまた、聖別されうる、聖別されることを待っている神のパンであり、やがて神が私たちを聖なる永遠の御国の食卓に連ならせてくださって、一緒に食事をする。無条件の恵みに与らせてくださる。その事をイエスはこの祈りで既に覚えさせています。
 この祈りは
私たちの日毎の糧を」
と祈ります。「私たち」には、自分たちだけではなく、イエスが呼び集めてくださる世界中の人たちが含まれます。諄(くど)くなるからでしょう、訳されていませんが、丁寧に訳すなら
「私たちの日毎の糧を、私たちに今日もお与えください」
という祈りです。自分の糧だけが与えられるのではなく、その世界中の人たちの糧も祈ります。私たちそれぞれの分の糧を、私たちそれぞれに。人の分まで取りませんように、という祈りです[6]。これは特に、私たちが食いっぱぐれる心配はあまりなく、むしろ、世界の貧富の格差の中で富んでいる側にいることを覚える時に、大事な意識です。自分の分で満足すること、満ち足りることなく「もっともっと」「もう少し、あれもなければ」と煽り立てて来る文化の中で、私たちが満足することを覚えて、貧しく飢えた人に心を留める心を持つよう、主イエスは囁いています。つまり、自分のための食事だけで満足してそれ以上を求めない、という禁欲や清貧よりももっと積極的です。私たちが他の人も同じように養われる必要があることに思いを向ける愛を養いたいのです。食事が満足に出来ない民族が世界には大勢いて、その飢餓の解決のために働いているキリスト者がいます。しかし彼らの働きは飢えている人に食べ物を与える(恵む)だけではありません。受けるだけの惨めな存在とせず、働く意味、働く喜び、互いに助け合い、神が下さった命の喜びを思い描くよう働いています。それこそ命を養う糧だからです。
 私たちの周りの全ての人が、パンだけでなく、愛されること、働きを認められること、休息、話を聞いてもらうこと、ほっといてもらう事、笑うこと、要するに人として扱われる様々な必要を抱えています。私たち自身、自分を、主の豊かな養いに生かされる事実を十分味わいましょう[7]。食事を感謝し、御言葉から、神がどんなに豊かに私たちを養い、もてなし、楽しませ、生かして下さっているか、どれほど多くの人から支えられているか、を気づかされて驚くなら、神を誉め称えずにおれません。それが更に、他の人たちも、どれほど多くの養いを必要としているか、深い思いやりを持つ心を持つ。そう養われたいと願います。そのためにイエスは簡単な、しかし素晴らしい道を備えてくださいました。それが
「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」
の祈りです。この祈りをゆっくり味わい、
養って下さる天の父を思いましょう。
自分の必要や渇きを思い、生かされている恵みに驚きましょう。
すべての人をも、この養いを必要とする人と見るようになる。
 この祈りで、私たちは変わっていくのです。

「日毎の糧を今日もお与えくださる父よ。あなたがすべての必要を備えてくださって、私たちが今ここにあることを覚えて感謝します。どれほど多くの恵みによって満たされ、支えられているかを知って驚き、あなたの御名を誉め称えます。どうぞ、感謝し満ち足りることから、私たちが分かち合い、思いやり、あなたの御心を持つ者となるよう、私たちを養ってください」


[1] マタイ4:4、申命記8:3。
[2] たとえば、詩篇119篇50節「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに あなたのみことばは私を生かします。」など。
[3] ウェストミンスター小教理問答問104「第四の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。答 第四の祈願、すなわち「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」で私たちは、神の無償の賜物の中から私たちが、この世の良きものをふさわしい分だけ受け、それらをもって神の祝福を喜ぶことができるように、と祈ります。」 ハイデルベルグ信仰問答問125「第四の願いは何ですか。 答 「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」です。すなわち、わたしたちに肉体的な必要のすべてを備えてください、それによって、わたしたちが、あなたこそよきものすべての唯一の源であられること、また、わたしたちの心配りや動きもあなたの賜物でさえも、あなたの祝福なしにはわたしたちの益にならないことを知り、そうしてわたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください、ということです。」
[4]  御名が聖なるものとされ、御国が来、御心が行われるという願いの中で、初めて私たちは、自分が日毎の糧を与えられていることが、なんと深い意味があるかを知るとも言えるでしょう。また、その聖なる御名の神が、私たちに下さっている日毎の糧が、パンもご飯も、聖なる糧であるし、その聖なる糧を頂いている私たちの命や存在も聖なるもの、神の栄光を現すために生かされている自分だと気づくのです。
[5] マタイ14章13~21節。
[6] 箴言30章7-9節「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。8むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。9私が満腹してあなたを否み、「主とはだれだ」と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すことのないように。」
[7] 「神は、必要最低限の食事と御言葉だけを下さっているのだから感謝すべきだ」と、非常に狭く貧しく、ケチな神理解や信仰理解で生きる道もあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/2/9 ルカ15:21~32「神に背を向ける罪」ニュー・シティ・カテキズム16

2020-02-09 20:35:46 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/2/9 ルカ15:21~32「神に背を向ける罪」ニュー・シティ・カテキズム16

 先週は、神の律法は何のために私たちに与えられているのか、お話しをしました。私たちが聖書を読むのは、聖書に立派な生き方が書かれていて、それを守れると思っているから、ではありません。むしろ、聖書は神がどんな方か、どんなに偉大か。私たちが及ばないほど、いや想像も出来ないほど聖く、愛に満ちているお方かを知らせます。私たちは聖書を通して、自分の罪を知り、聖書を通して、救い主イエス様へと導かれ、そしてイエスとともにどう歩めば良いかを教えてもらえるのです。私も聖書を読む度に、自分の罪に気づかされ、ますますイエスを頼るようになり、そしてどう生きれば良いかを教えてもらっています。聖書は、私にとって、人生を照らしてくれる光です。
 さて今日は「罪」とは何ですか?というお話しをします。教会でよく聞く言葉の一つに「罪」がありますが、とても誤解されやすい事でもあります。その事を教えてくれるのが、先に読んだルカの福音書15章の「放蕩息子の譬え」として有名なお話しです。
 ある人に二人の息子がいました。お兄さんの方はマジメでお父さんの言いつけを忠実に守り、朝から晩まで仕事をしていました。弟は、そんな生活に嫌気が指して、お父さんから自分のもらう分の財産を早々と譲り受けて、家を飛び出し、全部を使い果たしてしまったのです。けれど、そうして一文無しになった遠くの国で、自分の間違いに気づいて、彼は帰ってきました。そこで、お父さんに言ったのが最初のセリフです。
15:21息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
 この息子は、自分が天に対して罪を犯し、お父さんの前にも罪がある、もう息子と呼ばれる資格もない者です、と言いました。お父さんからお金だけもらって、お父さんに背を向けて飛び出してしまった。その上、遊ぶために有り金を使い果たしてしまった。こんな自分は、怒られて当然だと認めたのです。法律的には、この弟息子は牢屋に入れられるような犯罪をしたわけではありません。お父さんがくれたお金を、遊ぶために使い果たしただけです。罪とは「犯罪」とか悪いこと、心が真っ暗だ、ということではありません。それでも、弟息子は、神にもお父さんにも背を向けた自分の罪を認めます。
第十六問 罪とは何ですか? 答 罪とは、神が創造された世界にあって神を退け、無視する事です。神を全く基準にしないで生きることによって神に反抗して、神の律法で神が求める人にならず、神の求めることをしないことです。それは私たちの死と、全ての創造物の崩壊をもたらします。
 罪とは、神が創造された世界で、神が命を下さって目的をもって生かして下さっている私たちが、神を退けて、神などいないかのように生きることです。神がすべてを造られているのですから、神がすべての基準なのに、神抜きに生きようとすること。それが罪です。私たちが善意でするとか、真面目に生きる、誠実かどうか、も勿論大事です。けれどもそれさえも、神が私たちの心に下さっている思いです。神は私たちを、神との関係に生きるように造られました。神以外のものを神とすることは、神が最も悲しまれることです。エデンの園で人間が神に背を向けて以来、人間は生まれながらにして、造り主との関係が壊れています。生まれながらにして、罪の状態にあるのです。
 放蕩息子の父親は、彼が帰ってきたときに、どうしたでしょうか。罰を与えたでしょうか。どれほど悪いかを説教したでしょうか。いいえ、父親はこう言いました。
22父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。23そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
 お父さんにとって息子は「死んでいた」。どんなに悲しかったでしょう。どんなに淋しかったでしょう。帰って来たことが嬉しい。また顔を見られることが幸せ。そんな風に思っているお父さん。神も私たちとの関係を求めるのです。私たちが神に背を向け、神を無視するとき、それは神にとって私たちが死んでしまうような悲しい状態です。いくらそこで楽しく、元気で生きていたとしても、愛する者に背を向けられることは、悲しく辛く、何にも替えがたいことです。この父の言葉は、罪が何よりも神を退け無視すること、という聖書の言葉をとても良く現しています。そして、神との関係が壊れる時、当然、それは
「私たちの死と、全ての創造物の崩壊をもたらします」
 神に逆らって生きる時、それは当然、死をもたらします。光に背を向けたら影が出来、動物に餌をやらなければ死んでしまい、高い所から飛び降りたら大けがをするように、神の基準に従わなければ、私たちは死に、他の全ての被造物にも致命的な影響をもたらすのです。神が怒って私たちを罰するのではありません。罪は、当然の結果を、それも悲しく、破壊的で、自分では癒やしようのない結果を刈り取ることになるのです。
 先の「放蕩息子」の兄は、そうは考えませんでした。自分は長年お父さんにお仕えし、戒めも破らないで来た。それなのに、遊んで財産を食いつぶした弟のために大宴会をするなんて!と激怒しました。この兄息子のような「罪」理解は多いでしょう。「戒めを破ったことは一度も無いのならOK。好き勝手な生き方をしてきたなら、そんな奴は罰せられて当然」。でも、そういう思いなら、お父さんと一緒に住んでいても、お父さんはどんなに淋しかったことでしょう。どんな間違った生き方をしていても、帰って来て欲しい。間違いの報いを十分に味わうのは本人なのだから、帰って来たら喜び祝うのは当然ではないか、と言います。この兄息子の道徳的な理解とは根本的に違う父親の言葉こそ、聖書の罪理解の温かさです。戒めを守りながら、神の熱い愛を無視しているなら、そのほうが深刻な罪です。しかし、人はどちらにも傾くほど、罪で壊れているのです。
 神の造られた世界で、神に背いて生きることは死と破滅に向かうしかありません。人がそれを自分で悔い改めることも出来ません。ただ、神だけが私たちを救い出し、神との関係を修復して下さるのです。聖書は私たちに、罪と救い主を教えてくれます。

「宇宙を支配しておられる主よ、あなたの道は良いものに満ちています。私たちは自分勝手な道を歩むとき、死に向かってしまいます。どうか罪が私たちに毒を与えていることに気づかせ、不法の霊によってではなく、あなたの律法によって、私たちの思いと歩みとを守り導いてください。アーメン」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする