聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問3-4「愛の律法と私の悲惨」

2016-03-27 18:04:35 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/03/27 ハイデルベルク信仰問答3-4「愛の律法と私の悲惨」

マタイ22章34-40節

 

 今日で三回目になりますハイデルベルク信仰問答は、この第三問から「第一部 人間の悲惨さについて」という内容に入ります。

問3 何によってあなたは自分の悲惨に気づきますか。

答 神の律法によってです。

問4 神の律法は私たちに何を求めていますか。

答 それについてキリストは、マタイの福音書22章で次のように要約して教えておられます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二もこれと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 こう始まるのです。いきなり

「悲惨さについて」

と始まるのはまた大胆な切り口ですが、三部構成と言っても、第一部は問3から11までの九問だけで、第二部が74問、第三部が44問、圧倒的に救いの第二部が中心です。第一部が一番短いのです。その上、ここでは私たちの「罪」と言わず、「悲惨」と言っていることも素晴らしいなぁと思うのです。よく、キリスト教では「罪」と言います。「罪」を言い過ぎてしまうことさえあります。確かに罪の問題はいい加減に出来ませんし、とても大事な問題です。第二問でも、私たちは第一に、自分の罪と悲惨がどれほど大きいかを知らなければならない、と言いました。しかし、そこでこの第一部で、「罪について」とか「何によって自分の罪に気づきますか」と言われたら、かなりこれは凹むのではないでしょうか。断罪されて、否定されて、ますます惨めな気分になって、こんな本は閉じてしまいたくなります。ですから、福音を伝える時、あまり「罪」を強調しすぎるのは賢くないでしょうね。

 このハイデルベルク信仰問答が取るのは、「悲惨」から入って行くアプローチです。それも、その悲惨さは

「神の律法によって」

気づくのです、と言い、その律法が求めているのは、すべてを尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛すること、と言うのです。自分の悲惨さには、私たちは何も言われなくても十分気づけていると言いたくなるかも知れません。惨めったらしい思い、なかったことにしたい失敗、思い出したくもない恥ずかしい経験。それぞれにあるはずです。しかし、このハイデルベルグ信仰問答は、神の律法によって、初めて自分の悲惨さに気づける、と言いますね。そして、その神の律法の求めるのは、神を愛し、人を愛する、という基準です。

 この基準に照らして、私たちは自分が悲惨であることに気づくのです。そうでなくて、私たちが「自分は惨めだ」と思う時は、人と比べてそう思っているのかもしれません。ゲームで一番になりたかったのに人に負けてしまって、惨めだ、と考えたりすることもあるでしょう。恥をかかされて惨めだったけど、その仕返しをしてやろうと思ったら、それも出来なくて、なんて自分の人生は惨めなんだ、と考えることもあるでしょう。でも、神の律法が私たちに「神を愛し、隣人を愛しなさい」と求めていることに照らすなら、どうでしょうか。負けたから惨めだとか、仕返しが出来なきゃ惨めだ、としか考えられない事自体が、私の悲惨だと気づくでしょう。自分のことしか考えられない人生だなんて、もしも世界一の大富豪になって、長生きして、健康のまま死んだとしても、それは惨めそのものです。神が私たちを愛されて、私たちにも愛する生き方を求めて下さっているのに、私たちがそれに背を向けて、いつかは無くなるようなものを追いかけて生きるなら、それは惨めそのものです。でも、そこにこそ、人間の惨めさがあります。神が私たちに愛する生き方を求めてくださっているのに、遥かに価値のない生き方をしていること自体が惨めなのです。

 でも、聖書はそれを

「悲惨」

と見てくれているのですね。愛を求めていない状態が、惨めなのだから、そこから抜け出さないともったいないじゃないか、と見てくれているのですね。これは有り難いなぁと思います。神の律法が求める愛する生き方に戻るように、と招いてくれています。それこそ、聖書が愛を基準にしているからです。「惨めに自分勝手に生きているから、もうダメだ、救われようがない。」そう冷たく言い放つなら、そこに愛はありません。「愛がないお前は、罪深くてダメだ」と責め立てるのではないのです。「あなたの惨めさは、愛を命じる神の律法から離れていることにある。だから、神の愛に立ち戻ろう」。そう、愛をもって示しているのです。

 もしこの神の律法を知らなければ、私たちは自分勝手な基準で、惨めだとか悲壮感を持ったりするだけです。自分は可哀想だ、と自己憐憫に陥ることは最も危険な誘惑の1つです。被害者意識というのは厄介なものです。そして、その解決として、ますます自暴自棄になったり、現実から目を背けたり、どうせダメだと分かりながら同じ事を繰り返す生き方を続けたりするぐらいでしょう。神の律法のおかげで、私たちは、自分が神の愛から離れているという悲惨を知るだけでなく、神は私たちを愛されていて、愛する生き方へと変えて戴く時に初めて、惨めさから救い出されることが分かります。惨めだ惨めだと思い込むことを止めて、神に愛されている者として生き始めるのです。いいえ、実際に、イエス・キリストは、私たちの所に来てくださって、私たちへの愛をご自身のいのちを十字架に捧げることで最大限に表してくださいました。そして、私たちにこの神を愛し、隣人を愛しなさい、という命令を告げてくださったのですね。

 イエスは、私たちを愛してくださいました。でも、もう私たちが人を愛さなくても神が愛してくれるから大丈夫、ではないのですね。イエスに愛されても、まだ自分勝手な生き方にしがみつくなら、惨めなのです。そんな生き方をイエスが許されると思ったら、イエスの愛を見損なっていることになります。イエスは私たちを愛されるからこそ、愛から離れた惨めな生き方から、愛を第一とする生き方へと私たちを造り変えてくださいます。妬みや優越感や自己中心を手放させて、あれこれ足りなくても、それでも神を賛美しながら、最善を信じて、喜びながら歩ませてくださいます。人からは惨めな人生だと思われるようなことがあっても、それでも明るく、優しく、ユーモアをもって生きる心を下さるのです。そういう、愛に生きようとする人には、惨めさがありません。

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ヨハネ二〇章1-10節「復活しなければ」

2016-03-27 18:02:59 | ヨハネ

2016/03/27 ヨハネ二〇章1-10節「復活しなければ」

 

 イースターおめでとうございます。どうやら巷では、ハロウィーンに続いてイースターも日本の消費産業に吸収されつつあるようで、盛んにイースターが宣伝されるようになりました。「ハッピー・イースター」と言ってもあまり抵抗がなくなっていくのでしょうか。個人的には、キリストの誕生を祝うクリスマスはまだしも、その復活を祝うイースターは日本人には馴染まないと思い込んでいたのですが、あっさり広まりつつあるようです[1]

 ただ、イースターは何の日か、という説明に「キリストの復活のお祭りで、そのシンボルが卵形のチョコレート」と答えるのは無茶苦茶です。「キリストの復活のお祭り」だけでよいのです。キリスト教は、この復活を土台とします。聖書で、イエス・キリストの生涯を伝える「福音書」は四つありますが、そのどれもが最後の復活記事をゴールとして、注意深く書いているのです。復活こそが、キリスト教会の存在の根拠です。

 とはいえ、今聞きましたヨハネの箇所では、復活されたイエス本人は登場しません。十字架から取り下ろされたイエスの所に女弟子が行ってみたら、墓の蓋をしてある大きな石が取り除けてあった。だから報告を聞いたペテロともう一人の弟子も、墓には布ぎれしかないのが分かった、というのです。この後14節でイエスが登場します。けれども最初からイエスが現れてくださってもよかったのにと思いたくなるのですが、そうはなさいませんでした。まずは、空のお墓を見せて、首をかしげる弟子たちを帰してから、その後、マリヤに会われ、他の弟子たちにも会う。そういうとてもまどろっこしい登場をなさったのですね。イエスの復活は、いきなり墓から「おめでとう!」と現れて、人々を圧倒する、まさにお祭りを始めるような出来事ではなかったのです。弟子たちが興奮して騒ぎ立てた出来事ではなかったのです。

 8そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。

とあります。実は同じ言い回しが二〇章の後半で出て来ます。イエスは、疑う弟子トマスに、

29…「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

と仰るのですね。今日の所でも、弟子たちが「見て、信じた」というのは、まだ聖書を理解していなかったからだ、とあります。見て信じる、ではなく、聖書の言葉を、真っ暗な現実の中でも信じるのが教会の信仰です。それでも、彼らはひと息に「見ないで信じる信仰」に達したのではなく、まずは見て、信じるあり方から進んだのですね。イエスはそれをよしとなさいました。キリスト者であっても、復活が本当かどうか分からない、神がいると断言する自信さえない方もいますので、もし皆さんの中にそんな疑問があったら、よく聞いて欲しいのです。

 今日の6節7節に、イエスを包んでいた筈の亜麻布が置いてあり、頭の布も離れた所に巻かれてあったとあります[2]。墓泥棒が布をわざわざほどいていくはずはありません。イエス本人が仮死状態で、この時息を吹き返した、という説明には、この布を自分でほどくことは出来なかったでしょう[3]。二人の弟子が布を見たというのは、作り話にしてはお粗末すぎますし、本当であるなら、復活以外に説明しようがないのです。もし復活が弟子たちによる作り話だったら、もっと尤もらしい話を作ったでしょう。彼らはイエスの復活を捏(でっ)ち上げて、自分たちの活動を続けよう、などという野望などありませんでした。むしろ、19節で「ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた」、臆病な集団でした。その怯えた弟子たちが、この後、イエスの復活を大胆に証言し始めます。彼らが語ったのは、ただ「愛しなさい赦しなさい、希望を持ちなさい」という教えではありませんでした。イエスが死んでよみがえったことと、このイエスこそ神が使わした王である、というメッセージでした。そのために殺されることも恐れなかったのです。

 イエスの復活は、確かに常識や科学では説明できない出来事です。しかし、復活が本当にあったのだと考えなければ、聖書の記録も、教会の発展も、説明が付かないのです。「あったかもしれないし、なかったかも知れない」ではないのです。聖書は、イエスが死人の中からよみがえらなければならないと言っており、パウロは「復活がなければ私たちの信仰は虚しい」と言い切ります[4]。この復活を信じた人たちは、ただの歴史的事実としてだけ信じたのではありません。よみがえられたキリストは、今も文字通り生きておられて、私たちを生かし、私たちにも豊かないのちを吹き込んでくださり、心を新しくしてくださる。そういう恵みに、実際に与ってきたのです。そうして、殉教も恐れず、沢山の犠牲も惜しまず、大胆に新しい歩みをした人たちがいました。あるいは、忍耐と謙遜をもって人に仕える歩みをした方たちがいました。そのような復活の力なくして、教会の歩みとその影響を受けた世界の歴史はないのです。

 私も時々、色々な事が疑わしくなり、漠然と不安になる時があります。そういう時、この、「キリストの復活は間違いなく事実だ」という点は有り難い手がかりの一つです。自分の生活やこれから先、あらゆる事が不確かで、どうなるか分からないとしても、キリストが間違いなく十字架の死からよみがえられて、それ以来、世界を新しくしてこられた以上、今も大丈夫だ。そう思い出して、ホッと出来るのです。だから、復活が本当かどうか分からないままでの信仰生活ではなく、この事実と、これこそ私たちの中心だと知って欲しいのです。

 復活の証拠は、それが十分あったから事実だったに違いない、といって終わるものではありません。見ないで信じる信仰へ、と進ませてくれます。キリストのお約束も聖書の言葉も、全部真実であったと信じることに繋がらなければ意味がありません。ここで墓に残されていた「亜麻布」「布きれ」が後にキリストの亡骸を包んでいた「聖骸布」として珍重され、やがては特別な奇蹟の力を秘めた「聖遺物」として崇められるようになりました。それは逆ですね。空っぽの墓や、そこに残されていた布は、キリストの復活を指し示しているのであって、そこに特別な力や御利益があるとありがたがる様なものではありません。イエスが私たちのために死んで、その墓も布も後に残して、よみがえってくださったことは、私たちがイエスを信じて、イエスのいのちを戴いて、今ここで生きるようになさるためでした[5]。それは、この世界の歴史に否定しよう無く証しされている事実です。聖書の言葉は、そのイエスの復活を力強く証ししています。それは、私たちが今ここで、死からよみがえられたイエスに愛されている者として生きるためです。いつどこにあっても、見える現実がどうあろうとも、です。

 私たちはこのマリヤやペテロたちのようです。早合点し、焦り、疑い、嘆くのです。見えるものに振り回され、一喜一憂します。でも、主はそういう私たちのため、確かによみがえったのです。イースターの朝に起きた復活は、人が思い描くような派手で華々しい復活ではありませんでした。弟子たちが駆け回り首を捻り疑い、出直してしまう、そんな時間も主はよしとされたのです。しかし、そうして回り道をしながらでも、主は彼らとともにおられ、出会いを備えておられました。主は私たちにも最善の時に出会ってくださいます。生涯かけて、主を信じる幸いを、愛されている者として生きる喜びを、じっくりと教え導いてくださるのです。

 

「主は本当によみがえられて、今も私たちを治めておられます。そのことを信じることが出来ますように。それこそが聖書のメッセージであり、それが私自身のためであったと、信じることが出来ますように。私たちの生涯が、私たちの理解や不信仰を越えて、確かな主の導きの中にあり、私たちの体も苦しみも、淡々と主のいのちに溢れるものとなっていきますように」



[1] 欧米のイースターも、商業化して、キリスト教から離れて、ただの「春のお祭り」や年中行事となっていたのでしょう。

[2] これが、キレイに巻かれてたたんであった、なのか、頭を巻いていた布が中身だけスッポリ抜けたように巻かれたままになっていた、という意味なのか(新改訳はこちらの解釈の訳文になっています)、は不明です。

[3] そもそも、「仮死状態」はあり得ません。死を確認して、更に槍で心臓を突き刺していましたし(ヨハネ十九33、34)、十字架の極度の拷問で、体力は衰弱、手足の関節はバラバラに外れて、釘を打たれた跡は酷く裂けていました。十字架にかけられた人間が途中で下ろされて、生き延びたとしても、一生真っ直ぐにはあるけない、障害ある体となったのです。また、その体は、30kgの香料と一緒に亜麻布で巻かれていました。十字架で重篤な障害を負った身で、そこから脱出し、大きな石を動かして出て来ることは不可能です。まして、その後、栄光あるキリストとして弟子たちの前に現れるなど、現実にあり得ません。

[4] Ⅰコリント十五章全体。特に、12節から19節参照。「14そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰は実質のないものになるのです。15それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。16もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。17そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。18そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。19もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」

[5] ヨハネ二〇31「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

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ヨハネ十二章12-26節「栄光を受ける時が来た」 棕櫚の主日礼拝

2016-03-20 20:17:43 | 説教

2016/03/20 ヨハネ十二章12-26節「栄光を受ける時が来た」

 

 徳島駅前や高島の公園への道に、南国の雰囲気を出している大きな木はナツメヤシです。別名が、今日の13節の

「棕櫚」

です[1]。棕櫚の枝を取るのは簡単ではありませんね。梯子をかけ、あちこち傷つけて血を流しながら、棕櫚の木によじ登り、枝を落としたのでしょう。大勢の人が、棕櫚の木の枝を取ってイエスを迎え入れた。この週の木曜夜にイエスは逮捕され、金曜の朝に十字架にかけられました。翌週日曜が復活のイースターですが、それに先立つ一週間が「受難週」です。今日はその最初の日。棕櫚の枝でイエスを迎え入れた、「棕櫚の主日」です。

 四つの福音書のうち、棕櫚の枝が出て来るのはヨハネの福音書だけです[2]。これはイスラエル民族の過去の栄光とダブらせた、民族主義的な行動でした[3]。棕櫚の枝を取りながら、人々はイエスがその神の力で、かつての黄金時代を取り戻してくれると期待したに違いありません。

13…そして大声で叫んだ。
「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」[4]

 イエスがイスラエルの王として都に入り、大きな顔をしているローマ帝国やそちら側の人間たちを追い払ってくれる。そんな政治的な期待が、彼らのパレードを盛り上げていたのです。

 しかし、イエスはその彼らの熱狂と距離を置かれました[5]。その第一が、

14イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。

15「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

 これは旧約聖書の幾つかの御言葉をアレンジしたものですが[6]、そこでは

ゼカリヤ九9…この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。…

とあります。イエスは、単なる民族主義の王や軍事力や政治的な国家を打ち立てるお方ではなく、正しく、救いを賜り、柔和なお方である。16節では、それが弟子たちにはこの時は分かっていなかったけれど、イエスが栄光を受けられてから、即ち、十字架にかかり、よみがえられてから、この時のイエスの行動の意味、そして、群衆がイエスにしていたことの本当の意味が分かったのだ、と書かれていますね。弟子たちもこの時は、群衆たちと一緒に興奮していたのでしょう。しかし、イエスはそのような中で独り静かにろばの子に跨がって、ご自身が政治的な王や革命家とは一線を画する「王」であることを示しておられたのです。

 この事を裏付けるのが、20節以下です。その祭りにギリシヤ人たちが来ていて、イエスに会いたいとピリポに頼んできた、というのですね。ピリポは彼らをすぐにイエスに取り次ぎません。彼らは民族主義の興奮に舞い上がっていました。その時、所詮は部外者の異邦人が会いたいと言われて、ピリポは躊躇したのです。しかし、イエスは何と答えたでしょうか。

23…「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。…」

 この、実に美しく、心打たれる言葉を、イエスはこの時に発せられるのです。イエスにとってギリシヤ人の面会は、ユダヤ人の熱狂よりも、ご自身の「栄光」に近かったのです。イエスは、イスラエル民族の回復だけを見てはおられませんでした。ギリシヤ人やローマ人、世界の諸国の人々がご自身のもとに集まる時を望み見ておられたのです[7]。そのために、今イエスはご自身がまもなく十字架に挙げられて、殺されようとしていました。でもそれは、

32わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

 すべての人を。ユダヤ人だけでなくすべての人を自分のところに引き寄せる。そのためにイエスは十字架に御自分を献げられます。だから私たちはこの受難週を特別な思いで守り、礼拝をし、私たちのために苦しまれた主への感謝で過ごすのです。しかし、イエスが言われる「一粒の麦の死」は、ご自身の死だけではありません。私たちに対する呼びかけでもあります。

25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

 麦が麦らしく実を結ぶよりも麦粒の形のままでいようとすることが可笑しいように、人間も自分のいのちを守り、自己実現や自己中心に生きるなら、結局は窒息してしまうのです[8]。イエスが、一粒の麦が「死ねば、豊かな実を結びます」と仰ったのは、御自分の死によって、沢山の人、世界中の人が神の国に入るだけではありません。自分の民族しか考えず、自分可愛さを手放さない人間がいくら集まっても、「枯れ木も山の賑わい」であって、「豊かな実」とはなりません。イエスの栄光は、当時の人々が酔い痴れたような、世俗的な王となって崇められることではありませんでした。また、私たちのために十字架に死んでくださって、私たちがイエスを信じればこのままでも天国に入れる、といって終わるものでさえありません。

26わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

 イエスは一粒の麦として死なれたように、私たちにも、自分を握りしめるのではなく、自分を明け渡し、主イエスに仕えなさいと言われ、そういう生き方へと私たちを踏み出させてくださるのです。C・S・ルイスは

「自分を、地面にじっと植わっている種だと考えてごらん」

と言いました[9]。自分が、一粒の麦である。そのままでは小さく、何も出来ない、価値もないものにしか思えません。しかし、自分を神に明け渡して、イエスに従うことで豊かな価値を実らせる、そう思わせてくださるのです。イエスの栄光とは、私たちのために死ぬだけでなく、その死によって私たちの歩みや願い、価値観も新しくしてしまう栄光です[10]。私たちの努力や本気で変わるのではありません。ただ、私たちが主イエスの愛を深く味わい、感謝するなら、その愛への憧れが始まります[11]。そうして、私たちの置かれたそれぞれの場所や生活の真っ只中で、主が私たちの心や歩みや行動を潤し、恵み、報いてくださるのです。終わりの時代には、

ヨハネ黙示録七9…あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

10彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」[12]

という幻が語られています。今日は、その日を待ち望む日でもあります[13]。大人たちが興奮して棕櫚の木に登って枝を取ったように、私たちも子どものように喜び叫んで、主の救いを誉め称える日が来る。主はその時に向けて、既に働いておられます[14]。私たちを豊かな実としてくださるのです。キリストのいのちをもって愛された者として、尊い務めを託された者として、喜び仕えなさい。主イエスが十字架に死なれたのは、私たちをこのいのちへと招くためでした。

 

「主よ。あなた様は、大きな事業や劇的なドラマよりも、この私たちを受け入れ、愛し、その愛によって私たちを変えることでご自身の栄光を現されます。どうぞ、その御業に与らせてください。一人一人の生活を、心の奥深くを、十字架の愛によって照らしてください。受難週の歩みが、お一人お一人の慰めと励まし、悔い改めと喜びに深く潤される歩みとなりますように」

ちなみにこれが、棕櫚(ナツメヤシ)の実です。
ちなみに、これがナツメヤシの種。
別名「デーツ」 美味しいデスよね。この種から、あのナツメヤシが育つ!
別名「デーツ」。美味しいですよね~ この親指大の種から、あの棕櫚が育つ!

[1] 「正式名称はナツメヤシで、大きい葉っぱだと二メートルぐらい、高さ十メートル近くになる大きな木です。デイツという甘い実がなります。この実を取るには、かなりの高さまで登っていかなければなりません。現在は、品種改良されて、背の低い木もありますけどね。しゅろの葉が道に敷かれたことには、わざわざ木に登ってとってきたということ以上の意味があります。実はイスラエルでは、この〝しゅろ”は、旧約聖書の創世記にでてくる「いのちの木」をあらわす植物なのです。「園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。一つの川が、その園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた」(創世記2・10) しゅろの木は、エデンの園にある「いのちの木」であり、同時に〝神の祝福”のシンボルでもありました。つまり人々は、この「いのちの木」の葉を敷くことで、イエス・キリストを救世主と信じ、新しい〝いのちのシンボル”として、入城を喜んだのです。 ちなみに、「そこから分かれて、四つの源となっていた」とあるように、〝木を中心として、水が四方に流れている”というのが、中東における天国のイメージです。今でもアラブの町では、庭に噴水をつくり、まわりに緑の葉、特にヤシの木を植えている家をよく見かけます。できれば、噴水の水は四つに分かれて流れるようにしたいとされます。聖書とは関係ない古代の町でも、水が四つの方向に流れるように造られている跡が発見されています。」杉本智俊「天国にヤシの木? つい人に話したくなる聖書考古学第五回」『いのちのことば』2013年3月号。

[2] マタイ二一8とマルコ十一8では「木の枝」と書かれています。

[3] これは、イスラエルの過去でも、何度か繰り返されてきた勝利の光景でした。敵に占領されていたエルサレムを取り戻した時の、歓喜のパレードでした。参照、旧約続編「マカベヤ書第一」13章

[4] 詩篇一一八25「ああ、主よ。どうぞ救ってください。(これがヘブル語の「ホサナ(主よ、救いたまえ)」という慣用句になっていきます。)ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。26主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。」より。

[5] これはこの時だけではなく、ヨハネ六15、七6-8などに見られる、一貫した態度です。

[6] ゼカリヤ書九9「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。10わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。」これと、ゼパニヤ書三16「その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」も加えた言い回しです。

[7] キリストがこの時見ておられたのは、五日後に訪れるご自身の十字架の苦しみでも、その時「十字架につけよ」と叫ぶ彼らでもありません。豊かな実を結ぶことです。私たちがキリストのいのちをもって愛された者としてともに喜ぶ日です。

[8] ギリシヤ文化が求めたのは、本来、自分を伸ばし、自己主張、自己達成を求めるものです。しかし、イエスはその正反対を教えました。そのイエスの教えに惹かれてギリシヤ人が面会を申し出ています。ここに既に、キリストのみわざがあると言えます。

[9] 「あなた自身を大地の中でじっと冬を凌いでいる一粒の種子と考えてごらんなさい。あなたは大いなる庭師の心にかなうときに美しい花として真の世界に生え出るべく、真の目覚めのときを待っている種子です。私たちの現在の生活はかしこから顧みるとき、半ばは目覚めていても、半ばはまどろんでいるとしか見えないでしょう。わたしたちはいま、夢の国にいるのです。しかし鶏が暁を告げるときが近づいています。それは、わたしがこの手紙を書き始めた瞬間より、いっそう近づきつつあるのです」(『目覚めている精神の輝き』275ページ)。

[10] もし私たちがいくらイエスの十字架の愛を素晴らしい、有り難いと言っていたとしても、自分は自分の生き方をガッツリ守って手放す気もないとしたら、十字架の愛への賛美だって本気だとは言えません。

[11] 群衆の大歓声よりも幾人かのガイジンを喜ばれたイエスの姿を想う時、人の声に振り回されて疲れている生き方から自由になりたいと思うでしょう。自分の命や財産やあれこれを握りしめて死んでいく生き方ではなく、一粒の麦となり、人に仕えて生きたイエスや多くの弟子たちの生き方に参りましたと思わされます。

[12] 黙示録七9「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。10彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

[13] 過去の棕櫚の主日は、民族主義やただの熱狂でした。しかし、その時にはまだ隠されていた真実な意味がありました。柔和な王が来られて、真実な支配をなさる。そして、民族や人種を越えたすべての人が集められるという意味も込められていました。そして、その日は必ず来るのです。

[14] そのためには、全ての人の恐れが超克され、民族主義ではない価値観が信頼されないと無理です。民族主義や、それぞれの文化の価値観にしばられたままでは、神の国でまた分派が起きるでしょう。そこを取り扱われる必要があります。イエスは、そのような深い御業をなさるのです。

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問2「だから感謝して生きる」マタイ5章16節

2016-03-20 20:10:59 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/03/20 ハイデルベルク信仰問答2「だから感謝して生きる」マタイ5章16節

 

 先週から、ハイデルベルク信仰問答を開いています。この信仰問答の第一問は、

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。…

という問と答でした。私の全てが、私のものではなく、イエス・キリストのものであること、それが生きる今も死ぬ時も、究極的な慰め、拠り所、確信だ、と言いました。それに続いて、第二問は、ここから踏み込んでこう問います。

問2 この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか。

答 三つのことです。第一に、わたしの罪と悲惨がどれほど大きいか、第二に、わたしのあらゆる罪と悲惨からどうすれば救われるのか、第三に、そのような救いに対してわたしはどのように神に感謝すべきか、ということです。

 私たちは、イエス・キリストのものである。そこに、私たちの慰めがあると、キリスト者は言えるのです。しかし、その慰めに生きる事は、私たちが何もしなくても、自動的に出来るわけではありません。むしろ、私たちの中には、もう私が真実な救い主イエス・キリストのものであることよりも、別のものに慰めや幸せ、生き甲斐や拠り所を見出そうとする、強く激しい思いがあるというほうが事実ですね。お金だったり、子どもや恋人や誰かだったり、勝負事や快楽、興奮させてくれるものとか、自分の健康とか若さとかいったものを追い求めやすいのです。頭では、自分はいつか死ぬと分かっていて、そうした楽しみや価値が自分を救うことは出来ないと分かっているつもりです。でも、それがない人生だなんて考えられないと思い込んでいる者に取り憑かれているのが、人間の現実です。「唯一の慰めは、私がキリストのものであることです」と言っているだけで、心ではそう思っていないのであれば、それは慰めであることを拒んでいるのです。ですから私たちは、この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、準備をする必要があります。それが、この三つのことを知ることです。

答 三つのことです。第一に、わたしの罪と悲惨がどれほど大きいか、第二に、わたしのあらゆる罪と悲惨からどうすれば救われるのか、第三に、そのような救いに対してわたしはどのように神に感謝すべきか、ということです。

 「慰め」と言っておきながら、「罪と悲惨がどれほど大きいか」をまず知らなければならない、というのも何だかおかしな話に聞こえますね。罪とか悲惨なんて、考えなくてよければいいのに、とも思います。でも、考えなければ、問題がなくなってしまうわけではありません。病気を忘れていたら、治ってくれるわけではありません。借金がないふりをしていたら、消えてしまうわけではありません。大抵は、もっと酷いことになってしまうものです。ですから、ちゃんとそこに目を向けるからこそ、罪や悲惨からも救われた生き方が出来るようにもなるのですね。そこで、この後、ハイデルベルク信仰問答では■「わたしの罪と悲惨がどれほど大きいか」が、問3~11で、「あらゆる罪と悲惨からどうすれば救われるのか」が問12~85で、「救いに対してわたしはどのように神に感謝すべきか」が問86から、最後の問129で、扱われていくのです。問二は、この信仰問答全体の構造を予告する、目次とも言えるのですね。

 ですから、もう一度確認しておきましょう。キリスト教の信仰とは、私たちの罪や悲惨をちゃんと見据えたものです。私たちが、隠したり、目を背けたいと思っていたりする全ての問題を、ちゃんと見つめています。私たちの心にある闇も、家族の機能不全や、人間社会の格差や悲惨、そうしたどうしようもない問題を、何かのせいにしたりせず、簡単に解決できない、そのあるがままに、見つめています。また、私自身の醜い願望や、自分勝手な妄想や、嫌らしさや甘え、自己嫌悪や虚しさも、恥ずべき過去の失敗も罪も、すべて知られています。その上で、その私の罪や悲惨がどれほどであろうとも、そこから救われる道があることを示します。それは「私たちの真実な救い主イエス・キリスト」によることです。それは、信じがたい事ですが、でもイエス・キリストが、どれほどの事をしてくださったのかを、これから知っていけば、その罪から救われることも本当に出来るのだと受け入れることが出来ます。それは、問1でも読んだように、本当に一方的な恵みによることです。イエスが、御自分の尊い血をもって、私の全ての罪を完全に償ってくださったから、私たちの罪は赦され、悪魔の力からも解放されたのです。

 でも、ではイエスの恵みによって救われるんだから、私たちは何をしてもいいのか、という事にもなりかねませんね。実際、恵みによって救われる、全ての罪が赦される、と誤解する人たちがいましたし、宗教改革ではそういう非難がカトリックからあったのです。「救われるんだから何をしてもいい。救われるのに、どうして正しく生きなければならないんだ?」。でも、今日の問答では言います。■

「そのような救いに対して私はどのように神に感謝すべきか」

 救われた私たちは、これからは神への感謝に生きるのだ。その感謝が、私たちの全生活に溢れるのです。それは、この問そのものに出て来た言葉だとも言えます。

…慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬ…

 喜びに満ちて生きたい。失わない慰めがある者として、感謝に溢れて生きたい。そう思いませんか。どうせ救われるのだから、正しいことよりも罪を続けたい、と人を踏みつけ、傷つけて、自分の人生も台無しにするよりも、喜びや感謝を特徴とした生き方のほうがよっぽど素晴らしい人生ではありませんか。勿論、それは、自分が救われるため、滅びないためにするのではありません。救われるのは恵みです。生かされているのも神の一方的な恵みなのです。神が私たちやこの世界をお造りになったのは、私たちを愛し、私たちが神の恵みを映し出して生きる者とならせたいからでした。

マタイ五16このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 私たちが、神から受けた素晴らしい愛を現して、飾らない心からの感謝をもって生きる歩みを通して天の父が崇められるようになる。その生き方を学んで行きましょう。

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問1「唯一の慰め」ローマ書8章38~39節

2016-03-13 17:51:44 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/03/13 ハイデルベルク信仰問答1「唯一の慰め」ローマ書8章38~39節

 

 今日から「ハイデルベルク信仰問答」という本を使って、お話ししていきます。ここには全部で129の問がありますが、その第一をともかく読んでみましょう。

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

 この第一問はとても大切なものです。答の長さも気になりますが、それ以上に問がいいですね。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」こういう言葉から、教会の信仰問答を始めようとした、そのセンスが素晴らしいと思うのです。

 ハイデルベルク信仰問答は、ウェストミンスター信仰規準よりも一世紀前、十六世紀に書かれました。ドイツにあった小さなファルツという国の首都ハイデルベルクで書かれたのです。そのハイデルベルクの町には、プロテスタントでも、ルター派と改革派と二つの教派がぶつかっていました。折角宗教改革は受け入れて、中世の間違った教えは捨てたのに、その先の考え方の違いで対立が起きていたのです。そこで、その分裂を悲しんで、解決するためにと、聖書に通じて信頼された二人の神学者が起草したのです。言い換えれば、意見が対立して、分裂しそうになっているハイデルベルクの町が、どこから一致できるのだろうか。どうやったら、元気を取り戻していけるのだろうか。争い、排除し、頑なになって生きるのではなく、ともに歩んでいくために、聖書から何を聞き取っていこうか。そういう願いがあったのです。更に、宗教改革からヨーロッパは混沌とした状況に陥っていきました。周りの国や町では、ルター派だ改革派だ、いや、カトリックだ、再洗礼派だ、と収拾がつかなくなっていたわけです。そして、それに加えて、個人のレベルでは、生活の大変さがあります。子育てや夫婦の悩み、病気や死、生きる上での問題もいつもあったはずです。そういう中、市民たちの心が暗く沈み、荒んでいく中、どうしたらいいのか。それをこの「唯一の慰め」という切り口にすることにしたのだと思えてなりません。決して、キリスト教とはなんぞやとか、聖書だけを読んで教えようと考えたのではなく、もっと争いや荒んだ生活の真っ只中にある信徒たちがあって、このハイデルベルク信仰問答は生まれたのです。それが「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」という問でした。そして、その答は、

答 わたしがわたし自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。

 こう言い切ったのです。慰めも希望も、夢も喜びも儚く崩れ去るような状況で、私たちの慰めがあると言いました。それは、私が私自身のものではなくて、身も魂も、イエス・キリストのものである。この事実が、生きるにも死ぬにも、失われることのない慰めであると言ったのです。この「慰め」とは、ただの気休めとか安心、というよりも強い言葉です。「私たちの心を置くべき拠り所や確信」(吉田隆)だそうです。そこを拠り所として、確信を持って立ち上がり、踏み出していける。それは、私がイエス・キリストのものであること。そこに、根拠を置いて生きていくことが出来るし、信じることが違う人とも、ともに生活することが出来るし、死に瀕する時、他の全ての掴んでいたことが役に立たない時にも、私がイエス・キリストのものであることを根拠として、恐れずに死んでいくことも出来るのだ、そう言ったのです。

 気づいているでしょうが、私の慰め、と言いながら、大事なのは私が慰めを持つことではなくて、私をイエスが捕らえて、御自身のものとしてくださっていること、と言っています。私たちは自分が健康とか人より豊かだとか幸せだとか、色々なものを持っていることで安心しようとします。信仰でさえ、自分が神様を信じるなら神様が見捨てないでいてくださる、とまず自分が多くを握っていようとします。そうでないと不安だからです。でも同時に、今の時代は、多くのものを持てば持つほどますます不安になっている時代ではないでしょうか。現実自体が頼りなくて、全てのものが儚くて、信じられないような、漠然とした虚しさを覚えています。それで、せめて宗教に安らぎを見出そうとする気持ちもあるでしょう。確かなものに縋って安心したいのです。

 けれども、ここで言っている「慰め」はその考えを丸きりひっくり返します。自分が失うまいと握りしめているものを守ってくれる、そういう慰めではなく、その全ては私の手の中にはない。私自身さえ、私のものではなく、イエス・キリストのもの。もう既に、イエスが私を御自身のものとしてくださっている。それも、イエスは、

…御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解き放ってくださいました。
また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も頭から落ちることができないほどに、わたしを守ってくださいます。実に万事がわたしの益となるように働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によってわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜ぶように、またそれにふさわしいように整えてもくださるのです。

 もう今晩ここに多くを付け加えることは出来ません。ここで言われている事を、これからも少しずつ味わっていきます。今、覚えたいのは、イエス・キリストが御自分の尊い血(十字架の死)をもってまで、私を御自身のものとして救い、罪を償い、解き放ってくださった、ということです。髪の毛を初めとして、私の体も生きる事も、全てが、虚しくはない、ということです。また、そうなろうと頑張るというのでもなく、すでに主イエスが、私を御自分のものとして尊く結びつけてくださった、という約束です。

ローマ八38私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今ある者も、後に来るものも、力ある者も、

39高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

 まだ実感はないかもしれません。信じられない思いも強いかもしれません。それでも、そういう私たちの側の揺れ動きに関わらず、私たちはもうすでにイエスのものです。主イエスが十字架に死に、よみがえられた以上、私たちはすでに主のもの。この体も、地上の人生の全てにおいても、主イエスのものとして生き、食べ、眠り、笑い、汗を流し、歩んでいる。万事が益となり、主のために心から喜んで生きるようになる。遅かれ早かれすべてを失っても、なお失わない慰めを与えられている。それがキリスト者なのです。

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