聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/4/25 マタイ伝18章21~35節「心からの赦し」

2021-04-24 12:20:32 | マタイの福音書講解
2021/4/25 マタイ伝18章21~35節「心からの赦し」

 このマタイの18章では、イエスが弟子たちに、小さい子ども、小さい者の一人、あなたに罪を犯した人に、心を向けるよう教えている章です。その流れでペテロが21節で聞くのです。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか」
 当時、罪の赦しは三回までと教えられていたそうです[1]。それに比べたら、ペテロが「七回」と言ったのは、常識外れの寛容さとも言えるでしょうか[2]。それに対してイエスは言われます。
22…「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
 七の七十倍は四九〇[3]。勿論、「四九一回目からは赦さなくてもいい」ではありません。そうだとしたら、四九〇回も本当は赦していなかったことになります。限りなく、何度であろうと、赦しなさい、ということです。その事を示して23節から譬えが語られます。それは、天の御国、天の神の御支配がどんなものかを、莫大な借金を赦す王に譬える物語です。

 ここに出て来る家来の負債は、一万タラントです。欄外を見ると、一タラントは六千デナリ、一デナリは当時の一日分の労賃。三〇〇デナリとなれば、おおよその年収だとすれば、一タラントは二〇年分の年収です。この家来の負債一万タラントは二十万年分の年収となります。皆さんの年収を二倍して、万を億に置き換えたら想像できるでしょうか[4]。どう使い込んだのか、どう返せるかも想像も付かない負債です。ところが25節で、不思議な事に、
…その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている者もすべて売って返済するように命じた。
 この家来が自分も妻子も全財産を売った所で、一タラントにだってなるでしょうか[5]。しかし、それでいいかのような主君の提案です。あるいはこの家来と家族には、一万タラントの価値があると思っていたのか、と首をかしげます。それでも、当の家来は悪足掻きで、ひれ伏し、
26…主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
 絶対無理ですが、それぐらい自分も家族も身売りなんかしたくない、と猶予を願う。すると、
27家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
 なんと、一万タラントを免除する。ただ借金を忘れて済ませる金額ではなく、王にのし掛かる大負債です。王は給与を大幅に減らしたり、支出を無期限に減らしたりするぐらいの申し出です。それは王が彼を「かわいそうに思って」でした。これは今までも何度も出て来た「腸を痛める」「断腸の思い」というような、深い言葉です[6]。主君はこの家来がひれ伏して懇願するのを見て、内臓を動かされました。だから、借金を免除してやろう、自分の懐を痛めて、自分の生活を質素にしても構わない。それほど王は借金よりもこの家来を見て止まない心でした[7]。
 しかし、この家来がその後すぐ、自分に借りがある仲間を、それも自分が免除された分と比べたら本当に僅かな負債なのに、牢に放り込んでしまった時、王は彼を呼びつけて言うのです。
32…『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。33私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。
 先の一万タラントの負債ではなく、仲間を憐れみをもってやらなかったことが「悪い家来」という非難になります。彼の「懇願」は、言葉の上では猶予でしたが、王はその言葉以上の悲痛な叫びを聞き取って、彼の負債を免除しました。それがこの王です[8]。言葉とか問題よりも、人と人との関係を求め、罪が赦されて、壊れた関係の回復を願い、そのための犠牲も惜しまないのです。

 この「べき」は、当然そうなる、そうなることになっている、という事で、道徳ではありません。道徳的な「べき・赦すべき」は全く出来なかった家来を、王は赦しました。その心を受け取るなら、当然、自分も他の人を大切にしないはずがありません[9]。返すべきだ、と責めることを止めて、あわれむことが、当然始まるのです。
35あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。
 赦すとは「置いておく」という言葉です[10]。負債を後に置いて、前に進み始めることです。「もうあなたとの間には未払いはありません、貸し借りは一切精算済みです」。そこには「赦してもらったのだから、お返しをしなくては」はありません。赦しは「借り」ではなく、借りがないことなのです。勿論「貸し借りがないから、もうあなたとは関係もない」でもなく、「どんな大きな負債も放り出すぐらい、あなたとの関係そのものが、私にとっては大事なのです」という心が生み出す和解です。
 「心から赦す」。王は家来を、また天の父は私たちを、心から赦されるのです。赦しは神の心からの賜物です[11]。「天の父は、私を心から赦されたのだ[12]」という気づきが原点なのです。「私の一切の負債を赦し、そのためにご自身が負債を肩代わりして、卑しい身に落とすことも厭わない。赦されて、七の七十倍でも限りなく赦される。これこそ私が諦めていたけれど本当に願っていたことだ。本当に嬉しい[13]」そこがまず立つ所なのです。
 こんな赦しは私たちにはまだ出来ません。小さな柵(しがらみ)を捨てることも、大きな蟠(わだかま)りをどう下ろせばいいかも分かりません。でもそのとんでもない赦しを、天の神は、心から私たちに与えてくださったのです[14]。だから、私たちも「何度までなら赦すべきか」「赦されたのだから赦すべきだ。人を赦せないなら赦されなくて当然だ」という考えを手放させていただくのです。本当に主は心から赦してくださった。その驚きを互いに贈り合い、分かち合い、共に祝うのです。

「主よ。七の七十倍どころか、何十万年分の負債をも赦すほど、あなたは慈しみ深いお方です。人には思いも付かない憐れみに生かされています。限りなく立ち直らせてくださる恵みを感謝します。どうぞその愛を受け取り、憎しみや赦せない重荷を下ろさせてください。未だに罪の赦しが信じ切れず、罪悪感を煽るような言葉を他者にも自分にも吐いてしまう私たちを憐れんでください。主の赦しを分かち合う言葉と思いを教え、私たちを恵みの証としてください」

[1] 今も「スリーストライク法」や「仏の顔も三度まで」と言われているのと通じます。

[2] イエスご自身が、ルカの福音書の並行箇所で「七回」と言われました。ルカ17章3-4節「兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」しかし、これも、「何度でも」という真意であって、ペテロが杓子定規に理解したように「七回まで」という意味ではないのは明らかです。

[3] 創世記4章には、主が、弟を殺したカインに「それゆえ、わたしは言う。だれであれ、カインを殺す者は七倍の復讐を受ける。」(15節)と言われた記事があります。カインの子孫レメクはそれをもじって「24 カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」と豪語しました。この「復讐の原理」に行き着いた先が「七十七倍」であることを、イエスはひっくり返して、「赦しの原理」を「七の七十倍」と描かれたという解釈も出来ます。

[4] あるいは、当時のガリラヤの領主ヘロデの年収が五百タラントだと言う方もいます。国の元首の二十年分の給与、それは国家予算を大きく占める巨額です。加藤常昭『マタイによる福音書 3』六三九頁。「もっとも年収二百タラントに過ぎなかったという人もいます。いずれにしても、それと比べたら一万タラントという金額がどれほど大きいかはよく分かります。小さな国家の一年分の予算を何十倍かしなければ追いつかないのです。それに対する百デナリという金額は、その五十万分の一です。」とも書かれています。

[5] この「奴隷」は、現代の私たちが考えるような、非人道的で、男なら酷使、女性なら性的な暴力を当然とされる「奴隷」ではありません。律法は、奴隷を人として扱うことを命じ、もし障害を与えたなら解放すること、そうでなくても七年目には解放することを命じています。出エジプト記21章。

[6] スプランクニゾマイ。マタイでは5回用いられます。9:36(また、群衆を見て深くあわれまれた。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからである。)14:14(イエスは舟から上がり、大勢の群衆をご覧になった。そして彼らを深くあわれんで、彼らの中の病人たちを癒やされた。)、15:32(かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。)、18:27、20:34(イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」)

[7] 王だけでなく、王のそばにいた「彼(家来)の仲間たち」も「心を痛め」ています。怒りよりも、悲しみです。「心を痛める」リュプトー 14:9(王は心を痛めたが、自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、与えるように命じ)、17:23(人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らは、たいへん悲しんだ。)、18:31、19:22(青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。)、26:22(弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。)、37(そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。) この「心」が、神の国の原理なのです。

[8] 23節「したいと思う」セロー 三〇節の「承知せず」もセローの否定形です。ここでは、王の意志の変化と、家来の意志の頑なさが対比されています。王の意志は変わりませんが、感情は「かわいそうに思って」「あわれんで」「怒って」「心から」と豊かに表現されています。それは神ご自身が「べき」よりも「心から」動かれる方であることを物語っています。

[9] バーバラ・ブラウン・テイラー『天の国の種』165~178ページ。「結末は、みなさんのご存じのとおりです。家来は、借金を返済するまで、つまり残された生涯、ずっと牢に入れられます。しかし、この投獄は言葉上のものです。不届きな家来は、すでに鉄格子の中にいたのです、自分で作った鉄格子の中に。赦されることを拒み、赦すことを拒んだ彼は、すでに自分用の小さなアルカトラズを造り、電卓片手に独居房に座り、会計記録をつけていたのです。」(176頁) では、彼がもう一度、王に「私には返せません。赦してください」と言ったら、王はまた出すのではないか。今度こそ、赦されたように赦してほしいから。あわれんだように、彼にも憐れみ深く生きてほしいから。それをまた失敗するだろう、それを何度でも、七度でも、七の七十倍でも…つまり限りなく…繰り返すのではないか。少なくとも、私たちこそは、そうしていただいている、不躾で鈍感な家来の一人ではないか。

[10] 「赦す」アフィエーミ。12節の「九九匹を山に残して」という言葉ですし、重荷を下ろして下に置く、というイメージも良いでしょう。

[11] 「べきデイ」は「するのが当然だ」「しないわけにはいかない」「当然することになっている」「これ以外に道はない」という必然としての「べき」です。「しなければ、罰せられる」というような、道徳的意味ではありません。なにしろ、一万タラントという借金は「すべきでなく」「返すべき」であり「返せないなら、投獄か身売りすべき」ものでしたが、その「べき」を超えたことをするのが「天の御国」なのですから。

[12] 「良きサマリア人」のように、この譬えは、私たちの思いを「自分だったら」に向けさせるよりも、「この王はどう思ったのだろう」と王の心に向けさせます。「私だったら」を言えば、こんな免除は思いつきもしません。だから、同じように人にすることも不可能です。けれども、「王の心」に目を向ける時、王が借金まみれの家来をもあわれんで、大事に思っていることに気づけます。それは、私たちにとって本当に嬉しいことです。そこで「自分がしてほしいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です」(マタイ7:12)という黄金律に立てるのです。

[13] 「罪の赦し」こそ、してもらって嬉しいことだ! 信じがたいほど嬉しい事だ。だからこそ信じられなくて、今でも、罪の赦しという大きな「借り」を負うているかのように、「赦されて申し訳ない。赦していただいたのだから、赦さなければならない」と、罪悪感をますます重く抱えていることがあるだろう。しかし、主は「心から」赦してくださったのだ。赦したかったから赦したのだよ、あなたとの間に一切の借りはないのだよ、わたしの愛を受け取ってほしいのだよ、と言ってくださっているのだ。

[14] コロサイ書3章12~13節「ですから、あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。13互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」

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2021/4/25 創世記6章9-19節「ノアの箱舟」こども聖書⑪

2021-04-24 11:40:24 | こども聖書
2021/4/25 創世記6章9-19節「ノアの箱舟」こども聖書⑪

 今日は、こども聖書の11番目の話し、「ノアの箱舟」です。船は大抵、前にとがった形をしていますが、四角い形の船を箱舟と呼びます。聖書に出て来る「ノアの箱舟」は神がノアに作らせて、沢山の動物たちを乗せたことで知られている有名なお話しです。

 神がお造りになった世界で、人間は神様との約束を捨てて、どんどん神様から離れていきました。前回お話ししたのは、弟アベルを殺したカインのお話しでしたが、その後の子孫たちは全員が、カインとなってしまったのです。創世記六章にはこうあります。
主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
 そうです、神様は、人が人を傷つけて、乱暴にしたり、騙したり、裏切ったり、盗んだり、嘘をついていることを見て、心を痛められた。神様に背を向けても、人間が幸せだったのに、神様が腹を立てて、人間を滅ぼしたのではないのです。神は、神ご自身への背きより、人間が人間を踏みつけている状態に心を痛めました。全員が憎み合い、殺し合っている世界は、当然メチャメチャになって、最後は滅びていくしかありません。そのような、真っ逆さまに破滅に向かっていく世界を、神はご覧になったのです。そして、神ご自身を忘れている以上に、人間が滅ぼし合っている状態に、心を痛められたのです。人間の悪を怒ったり、裁いたりするよりも、神は、その心を痛め、悲しまれた。
11地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。12神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。
 この状態を見て、心を痛めた神が、遂に決断したのが、大洪水という方法でした。ですから、この大洪水から、どんなに、神が人間を心に留め、愛し合い、正義を行うことを願っているか、人間が滅びることを決して願っていない神であるかを覚えましょう。神が人間を滅ぼしたのではなく、人間が滅びに向かっていたのです。その悲惨な転がり落ちる世界を止めるために、神は洪水という方法で世界を洗い流すほかなかったのです。
 その世界に、ノアがいました。
「ノアは主の心にかなっていた。[主の目に恵みを見出した。]…ノアは神とともに歩んだ」。
 それは、世界にたった一人の小さなノア、世界の暴虐を止める力もなかった一人でしたが、神はそのノアを見落とすことなく、目を留めてくださったのです。ノアは、神がこの世界の悪に心を痛める方であり、だからこそ、その世界の中にある一人の人の正しさをも、見逃さずに、心に留めてくださる方であることの証です。神は、この世界のために悩み、私たちのために心を砕かれる方です。
Ⅱペテロ二5[神は]…かつての世界を放置せず、不敬虔な者たちの世界に洪水をもたらし、義を宣べ伝えたノアたち八人を保護されました。

 神は、この世界を愛され、人間が滅びることを深く嘆かれるお方です。私たちの幸せを願い、私たちの小さなやさしさ、神とともに生きようとする願いを、神は喜んでくださいます。神に逆らう罪も、人間の間の暴力も、神はこの世界から洗い流してくださいます。そして、ノアも私たちも保護してくださるお方です。そのノアに仰せられました。
13…「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。14あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外にタールを塗りなさい。15それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト。幅は五十キュビト。高さは三十キュビト。
 これは、どんな大きさでしょう。長さ137m、幅は22.8m、高さは13.7m。大きな船のようです。家よりも、飛行機よりも大きいのです。

 ノアの家族が乗るだけなら、小さな車で十分です。それなのに、神がこのような巨大な船を造るように仰せになったのはなぜでしょうか。そう、ノアとその家族だけでなく、動物たちも救うためでした。
17わたしは、今、いのちの息のあるすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去るために、地上に大水を、大洪水をもたらそうとしている。地上のすべてのものは死に絶える。18しかし、わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは、息子たち、妻、それに息子たちの妻とともに箱舟に入りなさい。19また、すべての生き物、すべての肉なるものの中から、それぞれ二匹ずつを箱舟に連れて入り、あなたとともに生き残るようにしなさい。それらは雄と雌でなければならない。
 神は、この世界を人間だけでなく、動物たちも生きる世界をとしてお造りになっていました。人間の最初の仕事は、動物たちに名前をつけることでしたね。それぐらい、人間は神様が造られた世界で、神様の造られたすべてのものを大事に守る使命を与えられているのです。ですから、神様はこの世界が滅びていくのを嘆かれた時も、ノアの家族を救うだけでなく、動物たちも救って、ノアがそのお世話をするようにと願われました。

 自分たちだけのためのシェルターを造るのも大変だったでしょうに、動物たちのためにも大きな箱舟を造ることは、どんなに大変だったでしょう。創世記の6章に「百二十年」という数字が出て来ますが、これは箱舟を造るためにかかったのではないかとも言われます。こんな大きな木の箱を、見たこともないものを造るのは、どんなに大変だったかしれません。ノアは、神が言われた通りに、この箱舟作りをしたのです。

ヘブル十一7信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。

 ノアの箱舟作りは、世界の滅びを望まない神からの大事業でした。この世界の悪や暴力を、神は決して見過ごしにされません。なぜなら、この世界は神が手塩にかけて造られ、長い時間を掛けて育てられ、そこにいる動物たちも、私たち一人一人の小さな心までも愛おしんでおられる、そんな世界だからです。神はこの世界を必ず新しくされます。

「世界の造り主なる主よ。あなたを忘れた人間は、互いにも背を向け合い、幸せを望みながら、滅びていくしか出来ません。今もこの世界があるのは、この世界を滅ぼすまいとしてくださるあなたの御心があるからです。どうぞその御心に私たちが信頼して、世界を造り育てるあなたの業に、私たちも仕えさせてください。世界の悪や暴力を嘆きつつ、あなたの憐れみとよいご計画に根ざして、主イエスとともに歩ませてください」
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2021/4/18 マタイ伝18章12~20節「そこにイエスもおられる」

2021-04-17 11:16:50 | マタイの福音書講解
2021/4/18 マタイ伝18章12~20節「そこにイエスもおられる」

 今日の箇所は、百匹の羊の一匹でも、迷い出たら捜しに行って、見つけたら大喜びしないだろうか、という問いかけから始まっています。そして、それと同じように、
14…この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。
と、弟子たちへのことばに収斂します。この事を踏まえて、15~18節では
もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら
と弟子たちの中、教会の中での罪への対処が語られています。まず二人だけで。それから一人か二人を一緒に。それでも聞き入れなければ、教会に伝える。それでも聞かなければ、その人を異邦人か取税人のように扱いなさい。こうした手順が語られます。これは教会にとって、教会の中での大小の罪に対処する手がかりです。私たちの教会にある「訓練規定[1]」も、まず一対一で、それから証人を立てて、それでも聞かなければ小会に、という手順を明文化しています。教会員の罪を見た時、見て見ぬふりをするでも、噂をしたり一方的に除外したりもせず、丁寧に向き合い、回復のために手順を踏んでいく。それは、とても大切な指針です。その「訓練規定」でも、ここでイエスご自身が強調されているのも、罪に対する厳しさ以上に、罪を犯した人、生き方を迷っている人、滅びに向かう道を進む人のために、心を砕くことです。それこそが、天におられる私たちの父の御心である、という恵みです。
 「もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら」
という想定自体、イエスが弟子たちを、罪を犯したり関係をこじれさせたりしやすい者だと見ておられる証です。教会が、人間関係の問題などない、罪とは無縁の集まりだとしたら、イエスは要りません。私たちには、イエスが必要です。そして、イエスは「わたしがいるから罪などない/罪など犯すな」と言う代わりに
「もしあなたの兄弟があなたに罪を犯したなら」
と、問題が起きうることを想定させるのです。そしてその、罪を犯した人に、まず真摯に向き合うよう言います。15節の、
その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
は文字通り「得をした」という言葉です[2]。この小さい者の一人が滅びるなら損だ、回復は大きな利益だと、大喜びするのです。しかし、だからといって、二人で話せば簡単に悔い改めに至るはずだとも保証されません。丁寧に、段階を経て向き合って、勧告をしても、だからきっと心が通じて回復する、とは言えない。それは相手次第だからです。それでも、丁寧に相手に向き合うこと、一人で抱え込まずに他の人や教会に相談しながら向き合うのです[3]。最後、
17…教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
 当時のユダヤ人社会では、ユダヤ人以外の「異邦人」とは食事も一緒にせず、交際をしませんでした。ローマ帝国の手先となっている取税人も、異邦人同様に交際をしませんでした。しかし、イエスは取税人とも食事をし[4]、異邦人にとっても望みとなりました[5]。イエスが最も近くにおられたのは異邦人や取税人でした。その人たちにこそ彼らの帰りを喜ぶ神を伝えました。ですから「異邦人か取税人のように」とは、頑ななその人をも見捨てず、その人こそイエスが必要としている人、イエスがそばに行っておられる人と見ることです。それが教会の心です。
19まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
 「心を一つにして」は「交響曲(シンフォニー)」の元になった言葉です[6]。交響曲は一つの楽器で一つの旋律を弾くわけではありません。バイオリンやオーボエ、ティンパニー、いろんな楽器で、それぞれに違うメロディを奏でるのです。それが全体では、一つの壮大な曲になります。
「心を一つにして」
もそうです。問題が起きた時、一人一人、出来事の受け止め方も、当事者への思いも違います。どうなってほしいかの期待も違います。それでも、
「この小さい者の一人が滅びることは天にいます私たちの父の御心ではない」
という事で一致するのです[7]。「自分の兄弟を得たい」「迷っている人に帰ってきてほしい」という父の御心で一致するのです。私たち自身の立っている所、立ち戻るべき原点が、この御心、私を捜してくださる天の父だからです。罪や問題のない教会ではなく、罪の赦しのためにご自身を献げてくださった主イエスの名において集まるのが、教会というシンフォニーなのです。そしてそこに主イエスもおられるのです。
20二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。
 これは罪を犯した一人のために集まっている二、三人。あるいは15節の、罪を犯した人の所に行った「二人だけのところ」、その中にもイエスがおられる。どちらも言えるでしょう。イエスがおられても、なお問題のために苦しみ、回復や和解を願いながらも難しいのが地上の現実です。また、そこで祈りながら、自分自身、相手を裁き、憎み、赦せない、愛せない思いも正直に認めざるを得ないのです。主の示された憐れみ、和解と回復の道から迷い出て、自分にとっての得や正しさの道に迷い出てしまっている。その私たちが、問題によって、主の名において集まり祈りながら、気づかされます。この私のためにこそ、イエスが来て下さった。この真ん中におられて、ご自身の名において私たちを集めて下さっている。私たちの歩み、教会の長い歩みを、罪の赦しと和解の歌としてくださる。そこに立ち戻れるのです。
 主がともにいますから、私たちは他者の罪も、自分の罪も、隠さずに向かい合うのです。私たちを結び合わせてくださる主に望みをおいて、心を一つにして祈りながら、ともに受け止めていくのです。

「主よ。私たちは今日も「聖徒の交わり、罪の赦しを信ず」と御名において告白します。あなたが私たちを、ご自身の名において今日も集め、私たちの真ん中におられ、あなたの真実な回復を現されます。聖化の途上にある私たちを、罪のもたらす破綻からお救いください。何より、あなたを忘れ、御心を見失う誘惑から救い、真実に向き合う知恵と勇気と信頼を与えてください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します」

脚注:

[1] 日本長老教会教会訓練規定は、こちらのWebサイトで読めます。ぜひご一読ください。http://cms.chorokyokai.jp/index.php/archives/text_b_top/5/

[2] 「兄弟を得るケルダイノー」 16:26、18:15、25:16、17、20、22 得をする。罪との対処は、損ではなく、得がたい得。それをしないほうが、大きな損失なのだ!

「わたしの名」エモン オノマ 強いことば。イエスが根拠である、ということ。強いその約束。

[3] 私が身に染みて分かっていることは、コミュニティの形成をすることなしに、親しい交わりから、すぐ宣教へと移ろうとする傾きが私にあることです。私は、自分の内にある個人主義、成功を求めたいという欲、単独で宣教を成し遂げようとしたり、私個人のための任務を求めたりする誘惑に、絶えずさらされてきました。 しかしイエスご自身は、一人で説教したり、いやしたりなさいません。福音書記者ルカが伝えていることは、イエスは神との親しい交わりのうちに夜を過ごし、朝には十二弟子と共にコミュニティを形成し、午後には群衆のために弟子たちと共に宣教に出かけた、ということです。(中略)イエスが羊を牧するようにと言われる際、素直に従う羊の大群を導く、勇ましい、孤立した牧者を思い浮かべることを望まれていません。イエスはさまざまな仕方で、宣教の務めとは他の人と共有すべきものであり、その人たちとの相互の経験であることをはっきりと示しています。何よりもイエスは、十二弟子を二人ずつに分けて遣わしました(マルコ6・7)。私たちは、二人ずつで遣わされることをいつも忘れてしまいます。福音の良き知らせを携えて行くことは、自分だけではできないのです。私たちは福音を共に宣べ伝えること、つまり共同体において伝えるようにと召されています。ここに神の知恵があるのです。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18・19~20)。 すでに気づいているでしょうが、道連れがいる旅と一人旅では、まったく根本から異なってきます。私がこれまで何度も気づかされたことは、一人でいるとき、イエスに真に忠実であることはとても困難だということです。 私には、一緒に祈ってくれる兄弟姉妹が必要です。身近にいて、霊的な任務について共に語り、さらに、思いと心と体を清く保つようにチャレンジしてくれる兄弟姉妹が必要です。しかし、はるかに重要なことは、いやすのはイエスであり私ではないということです。イエスが主なのであり、私ではないということです。これは、他の人と共に神の贖いの力を宣べ伝えるとき、とても明瞭なものとなります。実際、他の人と一緒に働くときはいつも、自分の名で来たのではなく、私たちを遣わされた主イエスの御名で来たことを人々はたやすく認めます。」ナウエン『ナウエンとともに読む福音書』

[4] マタイの福音書9章10節「イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。11これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。」、10章3節「ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、」、11章19節「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」、18章17節「それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」、21章31節「二人のうちのどちらが父の願ったとおりにしたでしょうか。」彼らは言った。「兄です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。取税人たちや遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります。32なぜなら、ヨハネがあなたがたのところに来て義の道を示したのに、あなたがたは信じず、取税人たちや遊女たちは信じたからです。あなたがたはそれを見ても、後で思い直して信じることをしませんでした。」

[5] マタイ12章18節「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。…21 異邦人は彼の名に望みをかける。」

[6] 「心を一つにして」スンフォーネーセー 18:19、20:2、13 シンフォニーの語源。同じ楽器や、同じ音階ではなく、多様な楽器が違う旋律を奏でる。それが一つになって交響曲、シンフォニーとなる。皆の願い、思いは違っても、一つ、主にある交わり、和解を目指す。罪や迷いのない関係(イエスがいなくても大丈夫な団体)ではなく、つまずきや弱さを抱えた私たちが、主の名において、一つとされ、罪と滅びからの回復、壊れた関係の和解、天の父にある歩みの全うを願う。そこにかける思いは多様でも、赦しと和解において、一つのシンフォニーを奏でる。

[7] 「どんな願いでも」 それはとくに「罪を犯した兄弟を得る」ことだろう。問題のある人を厄介払いした気楽な生活より、迷いやすく躓きも避けられないこの世界で、なお私たちが「罪の赦し」を信じ、告白することはここに大きな意義がある。

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2021/4/11 マタイ伝18章1~10節「小さい者の一人をも」

2021-04-10 13:03:01 | マタイの福音書講解
2021/4/11 マタイ伝18章1~10節「小さい者の一人をも」

 弟子たちが
「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」
とイエスに質問した時、イエスは一人の子どもを呼び寄せて、彼らの真ん中に立たせて、
「子どものようにならなければ、決して天の御国に入れません。…この子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」
と仰った出来事です。勿論イエスは、「誰が一番偉い弟子なのか」という争いを止めさせたのであって、「一番子どもらしくなれるのは誰か」ゲームを始めたのではありません。

 この「子ども」は幼子イエスにも使われる、まだ二歳になるかならないかのギャングエイジです[i]。子どもが天国に相応しい、可愛くあどけない、天使のような存在、と描かれるようになったのはずっと後のことで、聖書のこの時代も、そんな考えはありません。幼児はまだ人間と見なされず、大人の物と考えられていました。ここで言えば、弟子たちの「誰が一番か」ゲームに、子どもは入ることさえ考えられない存在だったのです。そんな、弟子たちの眼中にもない子どもの一人を、イエスは呼ばれて、弟子たちの真ん中に立たせました。大人たちに囲まれて、小さな子どもが一人立つ絵です[ii]。そしてイエスは、背伸びや競争をする生き方から
「向きを変え」(回れ右をし)[iii]、
子どものようにならなければ、天の御国に入る事さえ出来ない、と断言されるのです。イエスは、彼らの目を、一人の子どもに向けさせます。

 そう、イエスはその子ども、彼らが目にも留めなかった子どもの一人を、神の国を知る、目の前の手がかりとして見つめさせます。「どうせ子どもだから」「何を考えているかなんて気にする必要は無い」と決めつけて見ようともしていなかった子どもを、真ん中にひとり置かれて、じっと見させられます。私たちが自分で勝手に思い描く理想化された「子どもらしさ」を目指させたのではありません[iv]。その子を大事にすることです。ですから、続く6節以下、
わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。
「つまずき」とは、「わたしを信じる」こと-イエスとの出会い、イエスとともに生きること-を妨げることです。だから12節では
「羊が一匹迷い出る」
 15節では
「あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら」
話に膨らんでいきます。迷子になり、罪を犯してしまう、生身の一人に目を留めるのが神の国なのです。この世界では「誰が偉いか」「誰が一番いい子か」と競って、一番偉い人の首には金メダルがかけられて表彰台に上げられます。その影響が拭えない弟子たち(私たち)も、知らず知らず、競争や勝ち負け、自慢とか評価を教会にも持ち込んでしまう。そんな物差しは、小さな一人がイエスとの関係を持とうとしても妨げられます。それは、その人の首に大きな石臼をかけて、海に沈んだ方がよい。それが神の国です。イエスは弟子たちの「誰が一番偉いか(大きいか)」と問うたのに対して、
「この小さい者たちの一人」
に目を留めさせて、その質問自体を覆されました。神の国は、私たちの目の付け所を覆すのです。[v]
8~9節「あなたの手か足が…あなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい」。
 こんな極端な譬えでイエスは仰るのです。「ならば、この小さい者、目障りで、躓こうと迷い出ようと知ったことかと思うようなその一人を軽んじないように。躓かせないように。受け入れるように」と。あなたの手足や目に、不具合があっても切って捨てたりはしないように、子どもや小さな人、罪を犯した人も、手足や目のように大事な存在です。いえ、むしろ、そうした「小さな人」こそ、私たちにとって必要な、差し伸べられた手です。その弱さや問題を通して、私たちを導いてくれる足になります。その躓きや迷いを通して新しい何かを見せてくれる目になります。子どもや小さな一人に、「神の国はこのような者の国だ」という思いをもって目を留めていく時、私たちの見方も生き方も確かに変えられていくのです[vi]。それこそが、イエスが王として治める国、この世をひっくり返してしまう天の御国なのです。
10…あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
 当時の社会には、偉い人には御使いが付いている、それも偉くなればなるほど守護天使の数が増えると考えていたようです。しかしイエスは、小さい者たちの一人にも御使いが一人一人付いていて、父なる神の顔を見ている。その小さな者が直接神の顔を見ることは叶わなくても、その御使いが代わりに見ていて、神との親しい交わりを持ち、神の顔に叶わないことがあれば、その問題を解決できるように導いていてくれる。決して躓きや問題を放置するのではありません。手足や目に何か問題があっても、切って捨てはしなくても、逆に何も手当をせずに放って置きはしないのと同じです。その事は、12節以下で、丁寧に触れられていく通りです。
 その大前提にあるのは、私たちが子どもや小さい者に目を留めることです。「あの人は偉い、あの人は子ども、あの人は罪人」と一括りにしやすい見方が、そんな評価ではなく、「この一人」「その人」「この私」を見るように変えられるのです。なぜなら、主イエスが、私たちをそう見てくださっているからです。神の国はそのような国だからです。私たちが、思い上がりも勘違いも、躓きも、すべて拭われて、目の前の一人を「その人」として見るようになる。そして自分も「偉い人」や「いい子」にならなきゃなんて思い込みから自由にされていく。イエスは私たちの生き方の向きを変えさせて、子どものようにしてくださる救い主なのです。

「主よ、あなたこそ最も偉い方、偉大な方です。そのあなたが、私たちを愛し、罪人を救うため、最も小さな幼子となってくださいました。どうぞ、私たちの大人ぶった背伸びを笑って、私たちを自由にしてください。生身の幼子や目の前にいる一人一人の中に、あなたが見ておられるいのちに気づかせてください。あなたの深い憐れみを思わせ、それを妨げて躓きをもたらす、禍な生き方から、絶えず向きを変えさせてください。御使いを通して支えてください」

脚注

[i] 「子供」マタイでは、まず2章の「幼子」イエスのこと(8、9、11、13、14、20、21節)。その後、11:16(この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。)、14:21(食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。)、15:38(食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。)、18:2~5、19:13~14(そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。14しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」)。
[ii] 真ん中に 10:16(いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。)、18:20(二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」)。似ているのは、中風の人の癒やし(9:2~8)、取税人との会食(9:10~13)、長血の女(9:18~26)、安息日での癒やし(12:9~14)、イエスの「家族」(12:46~50)。イエスは、繰り返して、人々の前に「小さい者」を置かれ、彼らに目を留め、彼らを受け入れるよう招かれる。
[iii] 向きを変えるストレフォー。欄外:悔い改め 5:39(しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。)、7:6(聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。)、9:22(イエスは振り向いて、彼女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、その時から彼女は癒やされた。)、16:23(しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」)、18:3、27:3(そのころ、イエスを売ったユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して、言った。)
[iv] この言葉を聞いても、私たちは「子どもらしさ」とは何だろうかと考えて、自分を低くする謙遜とか、純粋無垢に、正直、などなどを定義し、自分に課してしまうことが多いでしょう。それは、目の前にいる子どもに当てはめるなら、大人の勝手な「こどもらしくしろ」を押しつけるだけの基準である事が少なくないものです。
[v] ナウエン「「子供を受け入れる」とは、何を意味しているのでしょうか。それは、この世からほとんど無視される人々に愛情のこもった関心を払うことです。自分で想像してみるのですが、とても重要な人物に会うために列に並んだとします。そこに小さな子供が通りかかりました。私はその列を離れ、その子供にすべての関心を向けようとするでしょうか。・・・」『ナウエンと読む福音書』85頁。
[vi] 新刊『いのちにつながるコミュニケーション』(富坂キリスト教センター編、田代麻里江、小笠原春野、酒井麻里、白石多美出、三村修、岡田仁、共著、いのちのことば社、2021年)では、次のように述べられています。「イエス様は、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」という問いに答えるため、小さい子どもを呼び寄せて弟子たちの真ん中に立たせ、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われました(マタイ一八・一~四)。当時のユダヤ社会でも、子どもは無知で無力な小さい存在として扱われていました。現代の社会でも、親が子どもに言う「迷惑をかけないように」という言葉は、暗に「大人にとって都合の良い秩序や快適な自由を子どもは邪魔をしてはいけない」という意味で使われています。 親が子どもに社会的規範を厳し過ぎるほど守らせようとするのは、「迷惑をかける子は、社会からはじき出されて、幸せな人生を送れなくなってしまう」という恐れから来ているのかもしれません。そして多くの親が、自らも同じ理由で親から厳しく育てられた経験をもっていることに気づくでしょう。 ところが、キリストは小さく弱いままの子どもを皆の真ん中に立たせて、「悔い改めて子どもたちのようにならないかぎり、決して天の国には入れない」と宣言されました。大人対子どもという圧倒的なランクの差、権力の上下関係をひっくり返されたのです。この革命的な宣言は、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(同五節)と続きます。・・・(以下、略) 」 28~29頁。
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2021/3/28 創世記3章1-7節「へびのうそ」こども聖書⑨

2021-04-03 16:35:52 | こども聖書
2021/3/28 創世記3章1-7節「へびのうそ」こども聖書⑨

 聖書のお話しを一つずつ読んでいます。先週は、神様に作られた最初の人、アダムとエバが、蛇の嘘を信じて、神様を疑って、神様との約束を破ったために、エデンの園から追い出されたお話しでした。エデンの園を追放された人は、その後、どんな歩みをしていったのでしょうか。今日はその最初の子どもたちのお話しです。

アダムとエバには、カインとアベルという二人の息子が生まれました。アベルは羊を飼い、カインは畑で働く人になりました。ある日、二人は神様に献げ物をしました。アベルは子羊を、カインは畑でとれた物を持ってきました。神様はアベルの献げ物を喜ばれ、そのことでカインは酷く怒りました。「なぜあなたは怒っているのか。あなたが正しいことをしたのならば、祝福を受けるであろう」と神様は言われました。しかしカインには、神様の言葉が耳に入りません。アベルを野に連れ出して殺してしまいました。神様は再び悲しまれました。「これからはおまえが畑を耕しても何も育たない。お前は地のさすらい人となる」と神様はカインに仰いました。

 さあ、ここでは悲しいことに、最初の死が起きました。エデンの園で
「この実を食べてはならない。食べる時あなたがたは必ず死ぬ」
と言われていた木の実を食べたとき、すぐに二人が死ぬことはありませんでした。しかし、人はいつか必ず死ぬ者となってしまいました。ところが、その最初の死は、アダムでもエバでもなく、二人の子ども、カインの死が、最初の死だったのです。しかも、それは病気や事故ではありません。アベルの兄、カインが殺した殺人でした。アダムとエバは、自分たちがいつか死ぬことは考えていたでしょう。けれども、自分たちではなく、自分の子どもが、もう一人の息子によって殺される、とは思ってもいなかったでしょう。それは、自分たちの死よりも辛いこと、自分たちの心が死んでしまうような出来事だったと思うのです。



 今でも、殺人事件のほとんどは、親族とか面識のある間柄で起きることが殆どです。知らない人にも注意することは必要ですが、知っている同士がこじれてしまうことの方が怖いのです。カインがアベルを憎んだのは、アベルが悪かったからではありません。二人とも神様へのささげ物を持ってきたのです。神様はアベルの献げた羊を受け入れてくださいました。聖書にはアベルの献げたのが、最初に生まれた子どもの、よく太った美味しそうな羊だったと書かれています。そこには、アベルの神様に対する深い礼拝の心が現れています。カインのささげ物は何も書かれていません。神様が、アベルの心のこもったささげ物に目を留めて、カインのささげ物には目を留めなかったとあります。カインはその時、激しく怒り、顔を伏せました。元々カインは、神様に心をこめたささげ物を持ってこなかったのですから、怒る筋合いはありません。あるいは、その時になってハッとして、もう一度改めて、自分の一番良い収穫を取りに戻っても良かったのです。けれどもアベルは、激しく怒り、神様の言葉にも耳を貸さず、神様に怒りをぶつけることは出来ないので、横にいたアベルを憎んで、腹立ちをぶつけて、殺してしまいました。アベルが悪かったのではなく、カインの八つ当たり、とばっちりでした。

 神はカインに言われていました。
「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
 怒ったことを神は責めていません。それよりも「なぜ、あなたは怒っているのか」と言われました。私たちの心に、怒りや妬みが起きたとき、私たちは自分の心に注意する必要があります。罪が、私たちの心に入り込んできて、人を殺したり、自分の人生を台無しにしたり、取り返しのつかない過ちを犯させることがあるからです。神様が「なぜ、あなたは怒っているのか」と問われた時、カインが「どうして自分は怒っているのだろう」と考えて、自分がなぜ怒っているのかを神様に申し上げたら、カインは自分の心を治めることが出来たでしょう。けれども、カインは、怒ったまま、顔を伏せるだけでした。自分が神様に、一番良いものを持ってこなかったのだ。アベルは、一番良い物を持ってきたのだから、神様が目を留めてくださったのは当然だ、怒るのは筋違いだ、そう思うからこそ、アベルは顔を伏せたまま、神様に応えようとしませんでした。そして、カインはアベルを殺してしまいます。決して、そんなことをしても何にもならないのに、心を閉ざしてしまうのです。

 アダムとエバの子孫である私たちも、カインのように怒り、妬み、過ちを犯しかねない者です。だからこそ、神様は私たちにいつも呼びかけてくださっています。私たちは、自分の心に悪い思いが入ってきたと気づいたなら、それを、隠したり放っておいたりせず、神様の元に持って行きましょう。私たちは、自分が間違っていた時、それを認めるのが恥ずかしくて、愚かなことに、誰かのせいにしたり、身近な人を恨んだりしてしまうことがあります。でも、神様はすべてをご存じです。私たちが間違っていたり、神様を忘れたり、怒ったり、自分を恥ずかしいと思ったりしても、神様は私たちを決して見捨てたり、嫌いになったりはしません。神様は私たちを大切に思ってくださり、間違いをただせるように、怒りや妬みには流されないように、助けてくださいます。神様が私のことを、すべてご存じで、愛してくださり、助けて、祝福してくださる。そこに立ち戻ることが、何よりも大事です。そして、神様はそうしなさいと、呼びかけ続けてくださいます。だからこの時も、カインを追いかけて、カインに語りかけ、チャンスを与えて下さったのです。それでもカインは、その神様に心から帰ろうとはしませんでしたが。



 家族や兄弟、とても近い関係は、近いだけに一番ぶつかる関係です。一番、腹も立ち、一番分かってほしい関係です。だけど、家族だって自分の思い通りにはなりません。お互いに、好みや考えや願いの違いがあります。嬉しい事も、腹が立つことも違います。家族でも、気持ちはそれぞれのものです。お互いの気持ちを、我慢せず、押しつけたりせず、お互いに大事にしあう。そうしないと、家族が苦しい場になってしまうことを、カインとアベルの出来事から、深く心に刻まされます。



「神様、あなたは私たちの怒りや妬みや間違いもよく知っておられます。私たちがあなたに自分の問題を持って行くことが出来ることを感謝します。あなたではなく、身近な人に自分の気持ちをぶつけてしまう時、私たちをそこから救い出してください。そして、お互いを本当に大事に、あなたを心から礼拝する歩みへと、どうぞ助け導いてください」
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